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小説「鎗ヶ崎の交差点」㉒

 閉店時間を過ぎ片付けを終え、従業員を帰らせると僕らは並んでカウンターに座った。
「ワイン。空いてるのあるから飲む?」
「いいけど、飲んでいいの?」
「うん。大丈夫。ちょっとなら」
 二人で小さく乾杯をした。僕らは誰もいない店内で懐かしさと気軽さと、緊張感を交えた妙な空気の中にいた。
 知花はずっと何かを言おうか言うまいか迷っているようだった。僕は彼女が話しやすいよう促した。
「何かあった?」
「うん・・・久しぶりだったから飲みたかったの」
「無事に産まれてよかったよ。正直あの時、君に子供ができるなんて思ってもみなかった。でも、今は幸せなんだよね?」
 知花が幸せだと認めてくれれば、僕はすんなり諦められる。正直、楽になりたかった。ここで幸せだと言ってくれればこの叶わない恋心から解放されると。しかし知花は頷いてはくれなかった。
「実は彼とうまくいってなくて」
「え?」
「付き合っている時から彼のことあまり知らなくて、それは私のせいだし、こんなことになるって思ってなかったからなんだけど、働いてなかったりしたのがわかって」
「え?働いてない?彼はいくつ?」
「私達の二個上。働いてないって言うか、バイトはしてるみたいなんだけど」
「バイト以外の時間は何をやっているの?」
「音楽。DJとか」
 その一言で、僕の中に怒りが沸いてきた。同じようにDJを夢見ていた男として、彼が許せなかった。
 子供ができたからと言って夢を全て諦めろとは言わない。しかし家族を養えるように働くべきだ。僕だって夢に折り合いをつけて働いて、やっと知花と出会った。しかし知花とは結ばれなかった。それなのに知花を手に入れた男が中途半端なことをしていることが許せなかった。
「じゃあまさか、今は家賃とかは君が?」
 頷きはしなかったが、知花は視線を落とした。その表情を見て僕を店に呼んだ理由がわかった。彼女は話を聞いて欲しかったのだ。誰にも言えない家庭の話を。
普通なら子供が生まれてすぐにするような話ではない。話す相手を間違えれば、辛抱が足りないと言われる可能性もある。ただ僕は、今の夫と別れようとしている時の彼女の姿と、子供ができてしまった時の姿の両方を見ている唯一の人間だった。だからこそ、僕にだけ話してくれたのだろう。
「ごめんこんな話して。他に話せる人がいなくて」
「いいよ」
 僕はずっと考えていた。いったい知花に何をしてあげられるのだろうかと。すると知花がワイングラスをその細い指で弄びながら言った。
「タイミングってよくわからないよね。別れようと思ったときに子供ができるなんて。上手くいかないかもなって何となくわかっていたの。育ちも違うし、いろんなことも合わなくて」
 あの時、知花は今の夫と別れようとしていた。その事実を知った時、僕の中に悔いとともに諦めたくないという気持ちが生まれた。あと少しで、知花を手に入れられたかもしれない。だったら今からでも・・・ずっと心に残っていた彼女への心残りに火が着いてしまった。
 知花が悲しげな表情でワインを飲み干した。僕はその背中を抱きしめたくて仕方がなかった。ただそれはできなかった。彼女はまだ離婚したわけでもない。僕の中にある理性と常識が自分を押し留めていた。
 しかし知花への想いは完全に蘇っていた。誰にも言えない悩みを打ち明けられたことで、知花の中で自分は特別な存在なのだと思い込んで。そして、そんな彼女を守れるのは自分だけなのだと勘違いをして。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。