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小説「中目黒の街角で」 第33話

 会社を退職して一ヶ月間の有休消化に入ると僕は毎日のように知花の店に向かった。夜中に会うだけでは飽き足らないほど僕は知花に夢中だった。

「いらっしゃい」

 店に入り、知花の声と笑顔を見るだけでその一日を愛することができた。
もちろん店の客のことを考えて、ただの常連客という態を崩すことはできなかったけれど、僕達は店員や客に気付かれないように視線を交わし合いずっと互いの存在を意識していた。

 店が閉まる時間までいても他の客と同じように帰りはした。そんな時はラインのやり取りを欠かさなかった。

「今日もお疲れ様」
「ありがとう。今日は忙しくて疲れたよ」
「あんまり無理しないように」

 たわいもないメッセージのやり取りをして眠りにつく瞬間は何よりも満たされていた。 もちろん友人の田中や、前の会社の同僚との忘年会の場所として店を使うこともあった。

「そんなに気を使ってくれなくていいのに」

 知花はそう言ったが、僕は彼女の力に少しでもなりたかった。夫でも恋人でもない自分にできることは夜に飲みに行くことと、彼女のお店の売り上げに貢献することくらいしかなかったから。
 正直に言えば何かしていないと不安だった。日に日に彼女への想いが強くなっていく中で状況を変える術を持たない僕には彼女のために何かをしていると言う事実が必要だったのだ。

 年末。彼女の店は二十九日まで営業をしていた。その夜も、僕は店のカウンターに座っていた。翌日の夜になれば年明けまで知花は夫の実家に行ってしまう。何週間も会えなくなるわけではなかったけれど僕は知花に会っておきたかった。

 夫の実家に行って相手の親に会うことで心変わりをしてしまうのではないか。もしも夫が彼女に変わる事を約束したら。そうなったら、曖昧な関係でしかない僕は必要とされなくなるかもしれない。だからギリギリまで彼女に会って、できるだけ自分の存在を焼き付けたかった。

 中目黒の街は地方出身者が多い。年末になれば住んでいる誰もが実家に帰り、街は閑散とする。彼女の店も客はまばらだった。
 僕と知花はカウンターを挟んで話をしていた。心太のこと。友人やその時放映されていたドラマの事。僕は話しながら彼女をなんて言って送り出そうかと考えていた。どうすれば自分を忘れないでいてくれるのだろうと。
 すると知花が唐突に言った。

「ねえ。今日いいワインもらったの。一緒に飲まない?」
「いいよ。でも最終日だから片付けとかしなくていいの?」
「掃除はまたにしようと思ってて。だから終わったあとおうち行っちゃダメ?チーズも買ったし」
 僕は喜びを隠してどうにか平静を装って言った。
「いいよ。じゃあ終わったら連絡して」
「うん」

 僕は急いで家に帰り部屋の掃除を始めた。知花との関係が前進することへの喜びを噛み締めながら。
 しかし掃除が終わると急に冷静な自分が現れた。本当にいいのだろうか。子供がいて夫もいる女性を家に招いて・・・その関係の終着点はどこにあるのか。京都に旅行に行って、恋人のような時間をこれだけ過ごして。ずっとこんな機会を待っていたくせに僕はいざとなると怖気付いていた。
 世間では絶対に許されない関係に陥るかもしれない。ましてや彼女には子供がいるのだ。そんな相手と関係を深めてしまって良いのだろうか。本当に知花と子供の人生を背負って生きていけるのだろうか。そんな情けない葛藤の中にいると知花からラインが届いた。

「終わったよー」

 そのメッセージを見た時に浮かんだのは知花の愛しい笑顔だった。常識に反するとしても十年も求めていた相手を逃すことなどできない。彼女が側にいてくれるなら誰に何を言われようと構わない。僕はすぐに家を出て、待ち合わせた鎗ヶ崎の交差点に向かった。いい歳をして、夜中の静かな八幡通りを走る自分の滑稽さを気にすることもなく。

 交差点はいつものように静かに存在していた。赤信号を待つ知花を見つけて手を振ると、彼女が笑顔を浮かべたのがわかった。信号が青に変わると僕はまた走っていた。

「こんな遅くにごめんね」
「ぜんぜん。自転車、持つよ」
「ありがとう」
 自転車のカゴにはワインのボトルとチーズが入っていた。
「この時間まで何してたの?」
「え?ああ。部屋の掃除かな」
「普段通りでいいのに」
「男の一人暮らしはひどいからさ」
「へえ。楽しみ。今日は二人で忘年会しよう」

 僕の家は古いマンションだったけど、窓が広く部屋に入るとすぐに中目黒の夜景が望めるのが自慢だった。

「お邪魔します。わあ。綺麗な夜景だね」

 知花はソファには座らずにずっと部屋の外の景色を眺めていた。僕はチーズを皿に盛り、ワインをグラスに注いだ。

「はい。用意できたよ」
 夜景を眺めていた知花にワンイングラスを渡した。
「ねえ、夜景見たいから電気消して」
「うん」
 照明を消して、僕らは街の明かりの前で乾杯をした。知花は嬉しそうにワインを口にした。仕事後だからなのか、それとも日々の生活のせいなのか、その表情は少し疲れているようにも見えた。
「映画とか観る?」
「ううん。大丈夫。少しこのまま、静かなままがいいな。お店がいつも騒がしいから」
「今年一年。お疲れ様でした」
「ありがとう。本当に疲れた」
 とても力なく彼女は言った。
「大丈夫?」
「うん。でも、この時間があるから頑張れる。家まで来てごめんね。向こうの実家に行く前に二人で会いたくて」
 僕はたまらなくなって彼女の頭を自分の肩に乗せた。
「無理はしないで。君は誰よりも頑張っているから」
「そんなこと言ってくれるのは山崎君だけだよ」
「君はもっと自信を持つべきだよ。お店を経営して。子育てをして。こんなに頑張る人を僕は知らない。だから、旦那さんの実家に行って何を言われても聞く耳を持たなくていい」
「ありがとう。本当に」

 言葉がなくなり、お互いにワイングラスに口をつけた。そして僕は知花にキスをした。そのままグラスを置いて恐る恐る首に唇を這わし服の下の彼女の肌に触れた。京都の時と違い知花は拒まなかった。むしろ積極的に僕を柔らかく掴んだ。互いに吐息を吐きながら服を脱がし合い、下着に手をかけた時に知花が言った。

「ねえ。あっち行こう」

 ベッドに寝てその柔らかい身体を抱きしめて彼女の肌の温度を感じた瞬間に理性は消え去った。僕達はこれまでの想いを解き放つように愛し合った。この時の僕達には常識も世間も関係なかった。そこにいたのはただの男と女だった。

 知花の身体は昔とは違った。十年前と比べれば少しふっくらしたかもしれない。しかしその肌は変わらず美しく昔よりも僕の身体に馴染むような気がした。まるで、当時僕らにあった格差の壁が消えたかのように。

 途中、僕は知花に言った。
「愛している」
 歯が浮くような言葉を行為の最中に女性に言ったことなどなかった。しかし自然に言葉が漏れた。すると知花は嬉しそうに笑い、頷いた。

 僕はこの時に知花を幸せにするために生きようと誓った。どうしようない仕事も、叶えられなかった夢も、知花さえそばにいてくれれば折り合いがつけられると。この日から、彼女は僕の全てになった。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。