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小説「中目黒の街角で」 第43話

 別居することになったのは夫との仲が改善したのが原因だった。
 改善したのに別居するというのはおかしな話かもしれない。もちろん私たちにはもう男と女としての関わりはなかった。だけど心太という存在を介して話をしているうちに、折り合いがつき始めたのだ。

 週に一回は心太と会う。今後の保育園や学校や健康のことなどは報告し合うというある程度の取り決めもした。
 でも離婚についてはまとまらなかった。夫は離婚を望んでいなかったから。別居はその中での夫の譲歩案だった。

 新しい家での生活はとても心地よかった。家に帰り他人のいない静かな部屋の中で、母と寝ている心太の寝顔を見ながら静かに眠れる生活はとても楽だった。
 息子を保育園に通わせるようになると、自分の時間も少しできるようになった。昔習っていたダンスを始めたりジムに通い始めたり。仕事とプライベートのバランスが上手く取れるようになり、私は自分の失った時間を取り戻していった。だけど山崎君との関係は悪化の一途を辿った。

 別居をきっかけに離婚することを期待していた彼が落胆したのはわかっていた。夫との関係がそれなりに上手くいっている事を伝えてしまったのもよくなかったのだろう。
 山崎君ならわかってくれると思って話したことだったけど、彼は私の離婚への決断を急かすようにもなっていった。
 でも、妊娠と結婚によって失った自分の時間と、お店という大事な居場所を維持し、将来の生活に備えていくことが心太との暮らしのための優先順位の一番上にあるという考えを変える気はなかったし、ある程度安定した生活の中で離婚という大きな労力を使う作業をして山崎君と一緒になるという道を選ぶ気にはなれなかった。

 何よりも山崎君への恋心が失われてしまった事で先に進む気は失せてしまっていた。お店の客や従業員へ見せる彼の態度へのフォローに疲れ、気を惹こうとしてくれるプレゼントへ見返りを返さなくてはいけないという義務感に疑問を感じた時、私の中で彼との恋は終わってしまったのだ。

 彼の立場や状況を考えれば、そうなってしまうのは当たり前だと思う。十年ぶりの再会という物語に酔って二人で恋に落ちて。だけど私は結婚していて。
 そんな中で、山崎君は最大限の優しさを示してくれたし時間も使ってくれた。そして私を本当に助けてくれた。彼がいなかったから今の私はなかったとさえ思う。
 十年ぶりに再会した時は、私も運命を感じた。だけど勢いをなくして、目の前の状況を見た時に彼と一緒になるという未来を描くことができなくなってしまった。
だとしたら、山崎君のためにも別れた方がいいのだろうと思ったのだ。彼は独身でまだ普通の幸せを求めることができるのだから。そもそも他の人の子供ができてしまった事実を考えれば、私達は運命ではなかったのだから。

 彼の辛さや時折見せる強引な私への愛にほだされて関係を続けていたけど、私達はもう限界だった。
 別れることを決意した時、正直に言えば心が軽くなった。夫との関係や山崎君との時間に追われて、複雑さを増した生活がやっと落ち着くと。自分には息子とお店さえあれば良い。それが私が悩んだ末の結論だった。

 この時やっと私は自分の人生への後悔や不満を飲み込むことができたんだと思う。不意に子供ができて、結婚をして。予定になかった人生への落胆を受け入れる準備が整ったのだ。

 山崎君との恋は最後を除けばとても素敵な物語だった。だけど結局、この結末を迎える結果となったのなら運命ではなかったのだと思う。とは言え、子供ができたからと言って夫との関係の方が運命だったかと言えばそうではないかもしれない。だとしたら、私の運命の相手はどこにいるのだろうか。

 子供を寝かしつけて誰もいないお店の中で一人になった時、扉の向こうにいる誰かを想像することがある。お店も息子のことも落ち着いた時、私をこの扉の向こうに連れ出してくれる人が現れるのだろうかと。

 恋も大切な場所も。そして息子とも出会えたこの中目黒の街で、淡い期待を捨てきれないまま、私は今日もお店に立っている。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。