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小説「中目黒の街角で」 第38話

 夫と上手くいかないながらも山崎君との時間があったおかげで、私の心と生活は安定していった。何かあれば頼れる人がいると思えたし、女としての自分を維持できることはとても幸せだったから。

 でも、すぐに離婚をして山崎君と一緒になろうとは思えなかった。もちろん、結婚もしていなくて子供もいなければ私はすぐにでも彼の懐に飛び込んでいたし、会えばこのままずっと一緒にいたいと願ってもいた。

「今日は帰りたくない」

 何度この言葉を夜明けのベッドの中で呟いただろうか。その度に、山崎君は強く私を抱きしめて、切なさが滲む表情で送り出してくれた。その表情を見ると全てを捨てたくもなった。

 でも現実に帰ると、本当に息子から父親を離してしまって良いのか。血縁のある夫の母親と会わなくさせていいのかと躊躇して思い切った行動を取ることはできなかった。
 夫の母親は大変な人だったけど、息子には優しかった。やっとできた初の男の子の孫だったから。頻繁に上京してくるのは困ったけど、祖母としての愛情を与えている姿を見ると、引き離してしまうことに罪悪感を覚えた。
 夫に対しても最初にあったような嫌悪は薄れていった。私に気を使い自分を変えようとしていたから。しっかりと働くようにはなっていたし息子と遊んでいる姿を見ると親子だと実感する瞬間もあった。
 でも、夫との関係の改善は山崎君の存在のおかげでもあった。彼が与えてくれる時間が夫への嫌悪を緩和させてくれたのは確かだった。だから、私はこの関係を前に進めるよりも維持したいと思うようになっていった。

 山崎君の気持ちを考えれば都合の良い話かもしれない。でも、このままでいれば誰も悲しむことはないし正直、離婚という労力のいる作業を行う気力もなかった。 彼に抱かれて切なさに苛まれても現実の中では何か行動を起こす気は無かった。このまま、週末だけの恋人関係を続けてゆくことが自分にとっても周りにとっても良いのだと。

 だけど山崎君はそうは思っていなかった。それは当然のことだと思う。彼は独身で私を愛してくれていていた。息子にも愛情を注いでくれて、将来を見据えてくれているのもわかっていた。
 だから彼に今の状態を維持しようとは言えなかった。お店のビルのオーナーとの揉め事が起こって、存続が危ぶまれて自分の将来を優先しようと考えた時も、事実を告げることはできなかった。

 今のお店がなくなってしまった時に、離婚せずに夫と住んでいる状態のままだったら家を出られないかもしれない。かと言って離婚してすんなりと山崎君と一緒になれるとは思えない。でも夫と離婚をしてシングルマザーとして息子を育てることになったら収入がなければどうしようもない。その時にもしも店がなかったら・・・。
 突然生まれた危機感の中で私は今の生活を考え直す必要があることに気づいてしまった。そして昔、演技レッスンで講師に言われた、

「お前は男のことばかり考えているんだろう」

という言葉を思い出した時に、自立した女をもう一度目指したいと思ったのだ。夫も山崎君も選ぶ必要のない、男性に左右されない自分になることができたなら、その時に山崎君とのことを考えようと。

 新しいメニューの考案。価格の変更。従業員への給与の見直し。そのためにやることはたくさんあった。お店をオープンしたことに満足してしまっていた自分の怠慢を恥じるほどに。
 

 しかしお店と息子を優先するようなると、自ずと山崎君との時間は減っていってしまった。だけど心配はしていなかった。お店の相談をするといつも彼は優しく話を聞いてくれたし「いつまでも待つ」と言ってくれていたから。たとえ少し会えなくなっても彼ならわかってくれると信じていた。
 やれるだけやって、ダメなら山崎君に頼ることもあるかもしれない。でもそれまでは自分で頑張ってみたい。それがこの時の私の想いだった。

 だけどその想いは彼に伝わることはなかった。言葉を欲する山崎君と、伝わると信じて何も告げなかった私の関係はここから少しずつすれ違っていった。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。