小説「鎗ヶ崎の交差点」㉘
京都から帰ってきてから僕達は店以外の場所でも会うようになった。
誘い始めたのは僕からだった。知花の店が終る時間に「行きたいバーがある」と連絡をしたのだ。
バーの話は口実だった。僕の気持ちは京都から帰って来てから強くなるばかりで、どんなに彼女の状況を考えてだめだと自分に言い聞かせても、会いたいと思う気持ちを抑えることができなかった。
知花の匂い。同じベッドでしたキス。たった一日の旅行で、長い時間を過ごしたわけではなかった。しかし、一つ一つの瞬間が毎夜鮮明に僕の脳裏に浮かび、切なさを呼び起こした。
それは知花も一緒だったと思う。京都の思い出話をしながら飲んだその日の帰り際、今度は彼女から「来週は恵比寿にあるバーに行ってみたい」と誘われた。
そしてその日から、僕らは週末になると時間を過ごすようになった。知花の店は深夜一時までで、僕らは金曜日と土曜日の店終りに出かけた。近場の中目黒や恵比寿。時にはタクシーで六本木や銀座にまで繰り出した。
僕は知花に非現実感を味わって欲しかった。仕事、家庭、子育て。大変なことが多い中で少しでも息抜きを与えられたらと思ったのだ。
そのために様々な店を探した。とりわけ、知花は好きなラム酒が置いてある店に行くと本当に嬉しそうに笑ってくれた。僕はその笑顔が見たくて深夜の時間帯に開いている店を毎週必死に検索した。
酔うと、知花は僕の腕に手を回すか、手を握った。中目黒から遠い街に行った時はキスをした。朝方に彼女とそうやって過ごす時間のために僕は日々を暮らすようになった。
結婚している女性と夜に出かけることはリスクもあったが、夫はその時間に子供を見ているか、この頃に始めた排水関係の仕事をしていて目撃される心配はなかった。それに僕達はまだ一緒に出かける以上の関係に進展していたわけでもなかった。
彼女の身体の事もあったが、進展の必要がなかったと言ってもいいのだろう。ただ夜に会い、街に繰り出し、普通のカップルのように過ごせるだけで僕らは幸せだったし、一線を超えていないという事実が背徳心を生まなかった。そのことが僕らの関係を健やかに保っていた。
知花は時折、夫への不満を口にすることもあった。
「彼は感情的で、物に当たったりもするしこの前は子供に・・・」
誰にも言えない悩みを話してくれることに喜びはあったし、夫への怒りの感情もあった。しかしそんな時、僕ははっきりと「別れればいい」とは言えなかった。その言葉を言うほど、僕にはまだ覚悟ができていなかった。
間違いなく知花が好きで、彼女を助けたいとは思っていた。彼女から夫の話や、お店の大変さを聞くたびに何もできない歯がゆさを常に感じた。しかし、離婚をするために起こりうる問題に向かい合い、その責任を背負うまでの自信がなかった。
自分の子供じゃない子を愛せるのか。中途半端に仕事をしている僕が家族なんて持てるのか。僕はまだ未来をしっかりと彼女に提示できるほど大人ではなかったのだ。
それでも、僕らはまるで普通の恋人同士のように頻繁に連絡を取り合い、互いに週末を楽しみにしていた。
そうやって十二月を迎えた。忘年会シーズンに入ると知花の店はとても忙しくなった。しかし僕らは週末の深夜になると飲みに出かけた。
そんな中で僕は知花にまた旅行に行かないかと誘った。もちろん子供のことを考えて、年末年始の休みを使い一泊でいいと。しかし彼女は浮かない表情で言った。
「彼の実家に行かないといけないの。ごめん」
「そうだよね。向こうの親御さんものこともあるもんね」
「本当は行きたくないの。彼の実家は九州の田舎で、すごくたくさんの親戚がいてね。子供が産まれた後に一度行ったことがあるんだけど、私、体調悪くなっちゃって」
「じゃあ、行かなくてもいいんじゃない?」
体調を崩してまで行く必要があるとは思えなかった。もう終わりが決まっている相手の親戚に会ってなんの意味があるのかと。
「でも悪い人達じゃないから。心太のことも可愛がってくれるし」
正直に言えば、もう行かないと言って欲しかった。しかし、そこに彼女の優しさがあるのも理解していた。確かに親御さんは孫に会いたいだろう。それだけでも叶えようとする彼女の思いを止める権利は僕にはなかった。
本当なら、この時に相手の親戚への優しさなど捨てて、僕らは結婚してしまえばよかったのかもしれない。結ばれるカップルのほとんどは、そうやって勢いを後押しにして幸せを掴んでいく。
しかし、僕と知花はそれができなかった。そして僕らはここから関係を深めることになるが少しずつ勢いを失い、やがて別れを迎える。この時に自分にもっと自信と強引さがあったならと僕は今でも後悔してやまない。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。