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楊花大橋を渡る

今まで何回、タクシーに乗っただろうか。

韓国のタクシーは日本に比べて料金が安いこともあって頻繁に利用するが、いつも乗るたびに複雑な気持ちになる。親近感がある一方で、気持ちの中で小さな痛みというか申し訳ない気持ちというか、今日も乗せていただきます、と誰かに声を掛けたいような……。それは、父が長くタクシーに乗っていたからだろう。そしてふと思う。父はいつも、どういう気持ちでハンドルを握っていたのだろうか。

タクシーの運転手として、父は私と弟を育ててくれた。離婚した後も再婚せず、一人で。再婚の話を持ちかけても、「お前らのことが一番大事やから」としか言わなかった。どんな気持ちだったかは知るよしもないが、自分のことは二の次で、子どもの事を考えてくれていたことは間違いない。

祖父が他界して両親が離婚し、しばらくして寿司屋を畳んだ。二代目だった父も家を出てしばらく帰ってこなかった。残った祖母と私と弟の3人暮らしは質素極まりないものだった。

贅沢といえば、何週間に1回、奈良・西大寺にある奈良ファミリーという大型ショッピングセンターにあるレストランで食べたエビピラフ。シンプルな味付けのピラフに大きめのエビフライが2本添えてあるだけなのだが、特別なごちそうだった。あの味は忘れられない。それ以外の日は煮物などのおばあちゃんの味だった。今でも、素朴な味の和食が一番落ち着く。

小学校の頃、変速機が付いた自転車が大流行し、それがどうしても欲しくなって祖母にねだった。やっとのことで町の自転車屋に行き、憧れの一台を手に入れた。が、我が家にとっては無理な買い物をねだったことを後悔した。

いくらかははっきり覚えていないが、祖母は自転車屋の主人に「月賦でもいいか」と申し訳なさそうに尋ねた。それから毎月、祖母は幾ばくかの現金を携えて自転車屋に通ってくれたんだと思う。

とにかく、うちには金がない。金輪際、高い買い物をねだるのはやめようと思ったのを覚えている。

父が帰ってきたのは小学校の高学年か中学に入ったばかりの頃。そこからはずっと奈良から大阪に通ってタクシー会社に勤めた。デスクワークをしたことがない父にとっては性に合う仕事だったかもしれないが、夜通しの勤務による過労や運動不足、たばこ、精神的なストレスも積み重なったに違いない。晩年は肺気腫や肝硬変など体はガタガタだった。

***

偶然耳にした자이언티(Zion.T)の「양화대교(楊花大橋)」は、タクシー運転手の父を持つ息子の人生を物語る。いつも父の帰りを待っていた子どもの頃の感情から始まり、大人になって今度は自分が一家の長として父と同じ立場になって、やっと悟った気持ちを一曲の歌に込めている。

父はタクシードライバー 
「いまどこにいる?」と聞けば 
いつも楊花大橋 
毎日明け方に帰ってきた父 
あの頃の自分が思い出される 
なつかしいな 
今は母、父、それに子犬も 
俺を見つめている 
電話がかかる 母から
「今どこなの?」と聞く母に 
今度は俺が立っているよ 
その橋の上に 
あの頃、幼かった俺は 
何も知らなかった 
あの橋の上を渡る気分を 
幸せになろう 
幸せになろう

私の父がどんな思いでハンドルを握っていたかは知る由もないが、自分が父として子どもを育てる立場になって感じることは多い。今まで当たり前だと思っていたことは決して当たり前なんかではなく、誰かが支えてくれたからこそ今の自分がいる。そう思えば思うほど、この歌の歌詞が心に染みてくる。今やっと、父の気持ちが少し理解できるようになった。

一つの曲が忘れかけた過去の記憶をを呼び覚ます。繰り返し聴く。と、楊花大橋に行ってみたくなる。

それは、ソウルの中心部を東西に流れる漢江にかかる8車線の橋で、想像以上に大きな体躯をしている。よく見ると、二つの橋を組み合わせた形になっているのが分かる。1965年に完成した古い橋は当時、「第2漢江橋」と呼ばれていたという。その旧橋の上に2基の新橋が増設され、今の楊花大橋になった。つまり、父橋の上に子ども橋が乗っているわけだ。

「楊花大橋」の歌詞は、自らの貧しくつらかった過去を振り返る自分史でもある。現地紙へのインタビューによると、彼はしばらくスランプが続き、曲を書けなくなっていた。そんな時に浮かんだのが、自分のこれまでの人生と家族との関わりだった。過去の経験とそれに対する想いをリズム&ブルースのメロディーにのせて世に送り出した。

歌の途中に「아프지 말고(アップジマルゴ=病気などせず、元気でといった意味)」という歌詞を繰り返す部分があるが、ちょうど彼の母が病に伏していたため、自然に出た歌詞だという。父への想い、母への想い、家族への想いが重なる。

雨の中、地下鉄を乗り継いで橋を目指す。南側の最寄駅である堂山駅で下車し、しばらく歩いて北に曲がる。橋に敷設されている歩道を、写真を撮りながら歩く。タクシーが走り去る。立ち止まる。シャッターを切る。タクシーが来るのを待つ。シャッターを切る。しばらく歩くと、真ん中辺りに楊花大橋の象徴であるアーチ型の構造物が見えてくる。またタクシーが来るのが見える。待つ。またシャッターを切る。そんなことを繰り返て橋を渡った。乗るわけでもないのに、こんなにじっくりタクシーが来るのを待ったことがあっただろうか。

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漢江はその大きさのためか、架かる橋には「大橋」という名が付く。中心部だけでも麻浦大橋、漢江大橋、銅雀大橋、盤浦大橋、漢南大橋、聖水大橋――。いつしか聞き慣れた橋の数々が、ソウルの北と南を結んでいる。

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東京なら、地元の隅田川に架かる橋をそらんじて言える。白鬚橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋……。いつも車でよく通った橋や、娘と愛犬を連れてよく散歩した橋。どれも思い入れが深くなった。

大阪といえば八百八橋。父も仕事に出るたび、いろんな橋を渡っていたに違いない。淀屋橋、肥後橋、天神橋、天満橋、難波橋。これらの橋は、ほぼ毎日渡っていたのではないだろうか、と想像してみる。

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「楊花大橋」は誰の心の中にもあると思う。

仕事をするのは自分のためでもあるが、愛する人のため、家族のためでもある。誰もがいつも元気はつらつというわけにはいかないだろう。時には気持ちが渋滞して憂鬱なまま出勤することもある。特に雨の月曜日は足が重くなる。仕事で失敗したりしても、うまく気持ちを切り替えつつ、何とかやってみる。水曜日を過ぎれば週末が見えてくる。だからもう一息。そんな日々もある。それでも、今日も楊花大橋を渡る。自分のために、誰かのために。橋を渡り切れば、また明日が見えてくると信じて。

最後に、橋の北側で全景が写る場所を見つけた。少しずつ場所を変えてシャッターを切る。雨は降っては止み、降っては止みで、いつしか川面にはもやが立ち込めてきた。と、灰色の空に薄い青が見え隠れしたところでまたシャッターを切る。できあがった写真は少し幻想的な風景に仕上がった。それがトップに置いた一枚だ。

少し前にテレビで見た韓国ドラマには、あの世とこの世を結ぶ長い橋が出てくる。橋の真ん中にはさび付いた鉄の構造物があり、あの世の方向にはもやがかかっていて先が見えない。

今目の前に見えている楊花大橋は、その橋に少し似ているなと思った。出発前は、雨で空がどんよりしているから今日は行くのを止めようと思っていたが、こんな景色に出合えるなら来て正解だった。楊花大橋があってよかった。

と同時に、昔読んだ内田百閒の掌編「冥途」を思い出した。目の前の橋を見ていると、まるでその小説の世界のように、夢とうつつの間をたゆたうような感覚がある。土手と橋の違いはあれど、百閒先生に恐れ多いことは重々承知の上で、あの先にあるのは冥途なのではないか、とも思えてくるのだ。

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「お父様」と私は泣きながら呼んだ。
けれども私の声は向こうへ通じなかったらしい。みんなが静かに起ち上がって、外へ出て行った。
「そうだ。やっぱりそうだ」と思って、私はその後を追おうとした。けれどもその一連れは、もうそのあたりに居なかった。
そこいらを、うろうろ探しているうちに、その連れの立つ時、「そろそろまた行こうか」と云った父らしい声が、私の耳に浮いて出た。私は、その声を、もうさっきに聞いていたのである。
月も星も見えない。さっきの一連れが、何時の間にか土手に上って、その白んだ中を、ぼんやりした尾を引く様に行くのが見えた。
私は、その中の父を、今一目見ようとしたけれど、もう四五人の姿がうるんだ様に溶け合っていて、どれが父だか、解らなかった。

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橋の南側のもやでかすむ先に、タクシーを降りた父がたたずんでいるような気がした。あちらで久しぶりにぷかりと一服、紫煙を吐いているのかもしれない。








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