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犬は嗅ぐ、私は見る

小学校低学年の頃だったか、一匹の野良猫をみつけて、しばらく自宅で飼っていた時期があった。いつの間にかぷいっと出て行ったきりになったような気がする。猫の自由気ままなところが好きだったのかもしれない。だからいまでも、町歩きで路地裏に迷い込んだ時などは、町の風景を楽しみながら、いつも猫を探している。

犬といえば昔は、外飼いが一般的だった。田舎の一戸建てで庭がある家では、そこに犬小屋を作って飼っていた。子供たちで通りかかると必ず吠えられる。一度、弟を連れて犬を飼っている友達の家に遊びに行った際、いつもは穏やかなその犬が弟にかみつきかけたことがあった。それも大きかったと思うが、犬は避けるべき存在となっていた。

だが、人生の巡り合わせとは不思議なもの。私のそばにはいま、家族の一員として犬がいる。

まだ小学生だった娘が犬をほしがったのがきっかけだった。「ちゃんと自分で面倒を見る」というのが条件だったが、夫婦共働きで多忙な生活の中、さらに犬まで加われば日常生活がもっと大変になることは分かっていた。子供がいれば、その育て方や教育方針でもめることがあるように、犬がいることでもめ事があるかもしれない。飼った経験がないので、言うことを聞かない犬だったらどうするか、近所に迷惑を掛けるのではないか、病気をしたらと考え出すと、飼うことをためらう気持ちもあった。だが、子供がそうであるように、犬が家族の媒介役として癒やしを与えてくれたり、家族の間をより強めてくれるのでは、との期待の方が勝った。

犬の寿命を考えれば、わが家の誰よりも「後に来て先に逝く」のだ。その前には「老い」もある。それらを全て受け入れて、最期までしっかり育てきることは、娘が成長する過程でこれ以上ない大切な経験にもなるだろう。そう夫婦で話し合った結果でもあった。

理由はもう一つあった。それは、娘が生まれて「子供を育てる」ということの素晴らしさを知ったこと。われわれ夫婦は、それをもう一度味わいたかったのだ。犬はしっかり育てれば、人間の3歳児程度の知能を持つようになると聞いていた。人は3歳までに一生分の親孝行をするとすれば、きっと楽しい生活が待っているはずだ。

だからわが家では、新しい「命」を迎え入れることにした。

埼玉県にあるブリーダーの方の家を訪れたのは、今から5年前の11月26日。何匹かのトイプードルとお見合いさせてもらった。どの子もかわいく、決めるのに苦労しそうだった。ここは直感に頼るしかない。と思っていた矢先、茶色の一匹が何の迷いもなくよちよちと近づいてきて、座っていた娘のかかとにちょこんとあごを乗せてきた。その瞬間、全員一致で家族にすることに決めた。

ただし、これは人間のエゴでもある。この子は自分の家族と別れてうちに来てくれることを忘れてはいけない、と肝に銘じた。

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娘が生まれる前のことを思い出す。新しい命を迎え入れるため、事前に必要なものを買いそろえるのは楽しい時間だった。出産が近づいた日。まだ「命」はやってきていないのだが、物干しには肌触りをよくするために洗った新品のベビー服が並んでいる。それはとても奇妙で、むずがゆいような、たまらなく心地よい瞬間だった。その物干しが「お前は父になる」と教えてくれた。

それに似た経験は、思った以上に楽しいものだった。ケージやご飯の皿、水飲み、トイレシートを買いそろえた。どこに行くか分からないし、何でも口に入れてしまうので、家に来てしばらくはつきっきりで見る必要があった。妻とうまく都合を付けてしばらくの間は交代で愛犬を見守ったことを、昨日のように思い出す。娘の時と同じで初めての経験のため、いろんな教えを請いながら、情報を集めながらの日々だった。

その時の体重はわずか800グラムで、うっかりすれば踏みつぶしてしまいそうになるため、すぐ分かるように首には鈴を付けた。だが、それがいけなかった。新しい生活が始まって数日経ったある日、ふと愛犬を見ると、首の鈴がない。家族で必死に捜したものの、ついにみつからず。きょとしている愛犬を連れて、妻と娘が病院に駆け込んだ。レントゲンを撮ってもらった結果、体の中にははっきりと白抜きの円い形が写っていた。

病院の先生によれば、鈴自体が大きいことと、突起物があってそれが引っかかって出てこない恐れがある。自然に便として出てこない場合、手術で取り出す方法はあるが、まだそれに耐えるには体が小さすぎるとのことだった。口ぶりは「諦めた方がいいのでは」といった感じだったという。帰り道、妻と娘は泣いたという。せっかく新しい家族が増えたばかりだというのに……。

藁にもすがる思いで、ブリーダーの方に連絡を取ると、「こちらでしばらく様子を見てみますので、連れてきてください」とのこと。ここは専門家にまかせてみようと家族で相談し、悲壮な気持ちで埼玉に向かった。それからの数日間、わが家は暗かった。「なぜ鈴など付けてしまったのか」「せめて、もっとしっかりしたものを付けてやればよかった」と、後悔ばかりが浮かんだ。

だが、事態は思わぬ展開を見せる。数日経って受けた連絡には耳を疑った。「今日、動物病院に行ってレントゲンを撮ってもらったら、鈴がなかったんですよ」。鈴が出たかどうか、毎回の便を見ていてくれたそうだが、その日までみつからなかったという。だが、確かに鈴は消えていた。わが家の新しい命はまさに、九死に一生を得た。いまから思えば、この経験があったからこそ、わが愛犬は家族としての存在感をさらに増すことになった。

こんなこともあった。わが家に慣れてくると、今後は別のところに行くとストレスを感じるようになる。ある日、どうしても一晩預けないといけないことになった。だが間の悪いことに、かかりつけの動物病院はその日に限って無理だという。仕方なく、信用できると評判のペットホテルに預けたのだが、慣れない環境でストレスが溜まったのだろう。帰ってくる途中で吐き、帰ってきてからも吐き続け、血便も出した。どれだけつらかったのか。鈴を飲んだことと血便のことは、わが家の「2大つらい思い出」として、しばしば家族の会話に上る。

「育てる」ということは、悲しいこともあるが、うれしいこともたくさん起こる。お手やお座りができるようになった時のよろこび。決まった場所でトイレができるようになった時のよろこび。最初は地面に下ろしてもぴくりとも動かなかったのが、少しずつ歩けるようになり、ちゃんと「散歩」できるようになった時のよろこび。毎日、尿と便を見て体調を確認する。これも娘が赤ちゃんの頃と同じだ。いいうんちを見ると、今日も健康だと安心できる。

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犬との生活は楽しい。それでなくてもぎりぎりになりがちな朝の時間と、疲れて帰宅した後の時間を、散歩の時間に充てる。最初はできるかどうか心配だったが、これが習慣になると当たり前の時間になる。散歩はもっぱら、娘と私の二人で行く。朝のすがすがしさを知る。夜の静けさを知る。季節の移ろいを実感する。犬といることが、自分の新しい生活のリズムになる。

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犬は、そこにいるだけで周りの人間を癒やす。1日のほとんどを留守にしても、家族が帰ってくれば、しっぽを振って100%のよろこびで迎えてくれる。話しかけても、首を傾けるだけで言葉は返ってこないが、不思議といろんなことを理解している気がする。誰かが調子悪くなれば、そっと寄り添い、体を舐めてくれる。犬は人に寄り添い、人も犬に寄り添って生きる。

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娘が小学校時代、夏休みの「調べる学習」で縄文時代を取り上げた。それならばと、日本最大級の縄文集落跡がある青森県の三内丸山遺跡を訪れた。そこでは、すでに人間とともに暮らす犬の姿があった。縄文の時代から、犬は人に寄り添って暮らし、人を守り、狩りをしていたという。そして、人のそばに犬も一緒に埋葬していたことからも、古の時代から人は、犬を家族と同様に暮らしていたと考えられている。人と犬はずっと友だったのだ。


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実際に犬と暮らしてみれば、それがどんな生き物なのかをますます知りたくなる。

「犬であるとはどういうことか~その鼻が教える匂いの世界」(アレクサンドラ・ホロウィッツ著)という本は、「自分がいかに犬という存在について知らなかったか」を教えてくれる。読めば読むほど、愛犬の鼻をじっと見つめてしまう。そんな本だ。

モノの本で、犬の嗅覚は人間の何千倍、何万倍というのを読んだことがあるので、人間には想像もつかない感覚を持っているのだろうくらいには思っていた。なのに、「見る」動物(過去はそうでもなかった)である人間にとっては、犬も目で見て判断すると思いがちだ。もちろん目で見ていることは確かだが、犬は鼻で、つまり「嗅ぐこと」で世界を知る生き物なのだという。

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そのすべては鼻からはじまる。犬は鼻を介して、ものを見、物を知る。

それは確かに、われわれ人間の想像を絶する豊穣な世界に違いないと思わせてくれる。犬にとって人間がどう「見えているか」については、第2章の「わたしたちの匂い」にこう書かれている。

犬にとって、わたしたちはみな匂いの雲で包まれている。わたしたちが鏡に映る自分の姿をよく知っているように、犬は「わたしたちの匂い」をよく知っている。犬にとって「わたしたち」とはわたしたちの匂いである。

それがどういうことを意味するのかをすれば、匂いの世界に住む犬という存在が持つ能力がとてつもなく偉大に見えてくる。

犬にとって、わたしたちは到着する前に到着する。そしてわたしたちが去ったあともとどまるのだ。

「新しい日の匂い」という文章も興味深い。近所に新たな道が無数にあるわけではないし、どうしても犬の散歩コースは限られてくる。朝か夜か、季節はいつかによって同じ道でも感じることは違うが、基本的に見える景色は同じだ。犬にとっても同じパターンで飽きるのではとも思ってしまうが、そうではないらしい。

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犬たちにとって家から出ることは、つねに新しいシーンをもたらす。一度も訪れたことのないシーンだ。毎日、毎時間が、新しい匂いの風景(スメルスケープ)をまとう。(中略)犬にとって「新鮮な空気」などというものはない。空気は濃厚な匂いに満ちあふれている。

犬にとっては、日々の時間も匂いを変えていく。

犬は時間を嗅ぐ。過去は足元にある、地面に降りて休んでいる昨日の匂いだ。朝の最初の風に運ばれて、それとも夜行動物の背中から剥がれ落ちて、メッセージは折りたたまれた新聞とともに戸口に置かれている。未来の匂いは、すぐ先から運ばれる。わたしたちが目を向ける前に、それは犬の鼻孔に届く。犬にとって、匂いはゴムのように時間を引き寄せ、過去と未来のいくらかを現在へと引っ張り込む。

だから犬の鼻は突出している。犬が地面すれすれに鼻を近づけるのは、世界をより「目の前」で詳しく知りたいため。鼻が濡れているのは、できるだけたくさんの匂いを捕まえて鼻の中で吸収するため。くしゃみをするのは、鼻をいったんリフレッシュして新たな匂いを受け入れる準備をしているのだとか。右と左の鼻孔を違ったやりかたで使うこともできるという。右の鼻孔は脳の右半球につながる。日常的な刺激を処理するのはもっぱら左半球で、右半球は恐怖もしくは攻撃的行動に関わることが多いのだそうだ、犬がもし右の鼻孔だけで嗅いでいたら、それは警戒心の表れかもしれないという。

驚くのはこれだけではない。匂い物質を検知するのに使われる嗅細胞の数は、人間の600万に対して犬は2億~10億。匂いについての情報を解読できる嗅覚受容体(レセプター)は800種類以上にも上るというのだ。

嵐のあと、雲を一掃する日没の輝きを伝えるわたしたちの目は、その色彩豊かなシーンを頭の中に描くのに、三つのレセプターしか使わない。800種類を超えるレセプターをもつ犬にとって、その匂いの風景がどんなものかは想像を絶する。

さらに、犬の鼻の最も奥まった部分には、人間にはないオルファクトリーリセス(嗅陥凹)という「匂いのための休憩場所」があるというではないか。

このリセスにきた匂いは、何回もの吸排気のあいだそこにとどまり、すりつけるための感覚細胞を探すことができる。こうして犬は空気を急いで出ていかせる前に、嗅ぎ入れた匂いを反芻するチャンスを手に入れている。

もうひとつ、犬には人間にない一種の「第二の鼻」があるという。口蓋の上、両方の鼻孔を分かつ骨のすぐ下、ふたつの軟骨の渦巻きの中にある「鋤鼻器」がそれ。単に嗅ぎ入れるだけではそこに匂いは届かず、組織に溶け込み、内部に吸い込むことで初めて匂いが到達する。なので、一つの方法は分子に直接触れること。だから犬は、よく知りたければそれを舐める。犬の舌は、鋤鼻器に匂いを送り出す完璧なメカニズムなのだという。

犬は「死」も嗅いでしまう。同書では、犬がしばしば、生きている主人の体内の死んだ細胞に気づく能力が紹介されている。例えばがんを知るということは人間にとって恐ろしいことでもあるが、犬が知らせてくれたため早期発見となり、飼い主の命を救うこともある。人間の肉眼では見えず、もちろん嗅いで知ることなど不可能だが、犬にははっきり「見える」のだ。

人間と違って死という概念にも、視覚への固定概念も縛られない犬にとっては、がんはただの匂いである。

「死」に匂いがあるならば、「生」にも匂いがある。そこは人間の出番だ。娘が生まれてから、私には一つの習慣があった。それは、同書に出てくる調香師のエキスパートであるレイモンド・マッツと同じ「子供の匂いを嗅ぐ」ことだった。私はその匂いに魅了されていた。娘の体から醸し出される「人間」の匂いに乳の匂いが混じっっている。甘酸っぱいような甘いような。生まれたばかりの人間からはこんなにいい匂いがするものか、と感じていた。

外を歩いていて、ふと何かの匂いを嗅いだ瞬間、それがトリガーとなって過去の思い出が芋蔓式に引っ張り出され、それと同じ時間に引き戻されることがある。その答えは同書の「匂い、記憶」に書かれている。一つ目の理由は「嗅覚情報は寄り道せず、まっすぐに前脳部に届くため。二つ目は「嗅覚は扁桃体に入る一番速いルートであるため」。扁桃体は脳の情動センターだから、「嗅覚がもたらす記憶はつねに情動的」なのだ。

そのため、匂いで思い出すのは「方程式やテキストのあるページではなく、おばあちゃんの家であり、入学式の日であり、昔の恋人」なのだという。そして三つ目の理由は「海馬」だ。タツノオトシゴの形をした脳の一部で、記憶を作り出すのに関わる。ここを刺激することで、匂いの波が記憶の裾に忍び込み、匂いそのものがシーン全体を呼び覚ますのだという。ある匂いが、長いあいだ視界から隠されていた記憶に点火する。

人間の鼻も捨てたものではない。

だが、である。人がいくら訓練したとしても、犬のように匂いで世界を見ることはできない。現代人は、「匂い」を判断材料にしていた過去の大切な能力を捨て去ったように思える。食べられるかどうかを判断するのは匂いや味ではなく、パッケージに書いてある賞味期限であり、いまや匂いは「臭い」の同義語であったりする。特に人に対して、「嗅ぐ」という行為は御法度にも近い……。

「犬であるとはどういうことか」は、こんな文章で締めくくられる。

わたしにとってうれしいのは、犬が人間と違っていることであり、彼らが匂いを嗅ぐやり方――彼らの鼻そのもの――が違っているということだ。はるか昔、わたしたちが立ち上がり、歩き去り、忘れ去った世界のものいわぬ蒸留技術者たち、それが犬なのである。

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「少年と犬」(馳星周著)は、人と犬との結びつきや、犬と生きるとはどういうことかについて深く考えさせられる作品だ。東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手の釜石で被災し、飼い主が亡くなってしまった「多聞」という名の犬が、5年をかけて西へ西へと放浪の旅をする。だからといって、擬人化されて人のように振る舞ったり、超人的な力を使ってたった一匹で目的地にたどり着くわけでもない。

犬はもともと一匹で生きてきたわけではなく、一つの群れの中で暮らす生き物であり、多聞もそれは同じ。物語の中では、西へ向かう旅の中でかりそめの群れをみつけてそこでしばし暮らして次に向かう。主人は男、泥棒、夫婦、娼婦、老人、少年と移り変わる。それぞれの主人は多聞を初めて見た瞬間から、その無垢でいて人の心を見透かすような強い意志のある目や、助けを求めていてもどこか超然とした目に惹かれる。出会うのは誰も、苦境に立たされた人間ばかりだ。

声をかけてくれるわけではない。話にうなずいてくれるわけでもない。ただ、そこにいる。それだけで救われた思いがするのはなぜだろう。

登場人物の一人は「多聞には孤独や死を敏感に嗅ぎ取る能力」があるとも語る。確かに誰もが心に傷を持ち、多聞はそれを癒やし、かりそめの主人の生活を潤す。そして彼らは多聞に感謝の言葉を述べ、ずっと友に暮らしたいという気持ちを断ち切って「本当の目的地へ行け」と別れを告げていく。そんな人々のバトンタッチで多聞も救われ、生かされる。

多聞の目は絶えず、南や西など目指す目的地であろう遙かかなたを見つめている。そこに行きたいのはやまやまだが、犬は群れで暮らす生き物であり、一匹だけの力ではどこかでのたれ死んでしまう。だから多聞は嗅ぐのだ。風に乗ってくる人の心の中までを。

「老人と犬」の章で多聞の主人となる弥一が言ったように、犬は「人という愚かな種のために、神様だか仏様だかが遣わしてくれた生き物」なのかもしれない。「人の心を理解し、人に寄り添う動物」だからこそ、人も犬の心を理解したいと思う。それが信頼関係となる。

もし犬が話せたら、もし絵を描けたら、もし楽器を奏でられたら、どれだけ豊穣な世界を見せてくれるだろうか。ただ、ペットの犬は匂いの世界から遠ざけられている。それはある意味、世界を見てはいけないと言われていることにも等しい。

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だから私も時々、「匂いの散歩」に行くことにした。その時ばかりは嗅ぐことをできる限り許す。

愛犬がソウルの街の匂いを嗅ぐ。私はそれを見つめる。

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ここに貼り付けた動画の中で、獣医の先生はこう語る。犬にとっては「誰と住むか」が重要であり、「どこに住むか」はさほど重要ではない。飼い主を気に入れば、そこが例え地獄の果てであっても不安がらない、と。

亡くなった飼い主のおばあちゃんを5年も待ち続けたダル。きっと懐いてくれると信じ続けた新たな主人を、とても気に入ったようだ。




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