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長編小説【三寒死温】Vol.2

第一話 人探しの得意な探偵


【第一章】気の利かない夢

縁側に続く障子戸を開けると、しっとりとした冷たい空気が足音を立てずに忍び寄ってきた。次第に、砕かれた石灰岩のような鼻をくすぐる香りで寝室が満たされてゆく。
朝から降り続く無言の小糠雨こぬかあめが届けるこの個性豊かな芳香は、瞬時に、私を深い憂愁の世界に誘う媚薬へとその姿を変える。まるで時計の針が逆戻りしたかのような真冬並みの寒さも相まって、どうやら私の心身はともに目を覚ますことを拒否しているようだ。

私は、ようやく板についてきたなんば歩きを少しだけ速めてベッドに戻り、白いウールのカーディガンを羽織って目を閉じた。

どこまでも弱く細かいこの時期の雨は、どうにも防ぎようがない。
生まれたての赤ん坊の頬を撫でるような優しい東寄りの風にふわふわと宙を舞い踊り、いつの間にか私たちの身体を芯から濡らしている。傘を差しても、長靴を履いても、レインコートを羽織っても、まるで歯が立たない。

当然、そんな雨具のたぐいはすべて身に着けていたはずなのに、買い物を終え、ガレージに車を置いて戻ってきた使用人は、初めて身にまとう香水につい浮かれて振り過ぎてしまったうら若き乙女のように、全身から雨に濡れた匂いを漂わせていた。
「本日の午後、お見えになるそうです。」
そう言って使用人は、静かに頭を下げた。
湿った寝室にあって、普段よりも少しだけ窮屈そうに空気を震わせるざらついた衣擦れの音が、彼女の仕草を私にしらせてくる。

その時、ひのきの柱に掛けられた振り子時計がとき打ちの鐘を鳴らし始めた。
気の遠くなるような年月を掛けて飴色にくすんだ時計が響かせるそのおごそかな音を、心の中で一つひとつ指を折りながら数える。
全部で11回。来客までにはまだ数時間程度の猶予がある。
「分かりました。昨晩は遅かったので、もう少し休みます。」
予想通り、使用人からの返事はない。彼女は少し間を置いてから、時計の鐘の音の余韻を邪魔しないような控えめな声で言った。
「奥さま、少しでも何か召し上がりませんと。長いお話になるのでしょう?」
私は使用人の問いかけには反応せずに、そっと目を瞑った。

寝室の外に遅めの朝食がすでに用意されているのは、彼女が部屋に入ってきた時から気がついていた。彼女が運んできた雨の匂いに交じって、スクランブル・エッグとハムのサンドイッチ、それからトマトとバジルのサラダの香りが漂っていたからだ。恐らく、アッサムの紅茶も淹れてある。

私の希望としては、できれば毎日でも和食にして欲しかった。
しかし使用人は、「食の細い奥さまにとって、和食だけでは栄養素が足りません」と言って、かたくなに私の申し出を断り続けた。和食と洋食を交互に作り続けるのも、それなりに手間のかかることだと思うのだが、そのリズムは先ほど刻を告げた時計の振り子のように正確で崩れることがない。

もう老い先短いのだから、好きなものを食べさせてくれないかしら。
私は何度かそう訴えてみたが、彼女は意に介す素振りも見せなかった。
悲しいかな、料理を作ることができない身からすれば、諦めて彼女に従うよりほかに方法はない。

私は小さなため息を使用人に聞かれぬようこっそりと一つ吐いてから、軽く頷いた。
「30分だけ、横にならせてちょうだい。それくらいなら、いいでしょう?」
100%の満足とはいかないまでも、それなりの成果を得られて微笑んでいるであろう彼女の表情が、手に取るように分かる。膳を取りに寝室の扉へと急ぐ彼女の両脚は、入ってきた時のそれとはまるで違う、陽気で軽いステップを刻んでいた。

◆ ◆ ◆

「うわあ、ピンクいろのトンネル。」
私の隣で背伸びをする娘が感嘆の声を上げた。懸命に右手を高く挙げても、小さく腰をかがめて肩を下げた私の左手に届くのが精いっぱい。そこまでしてようやくお互いの手を取り合うことができるような、そんな小さくて可愛い娘。かろうじてつながっている彼女の小さな手の指先に、少しだけ力が入るのが分かる。
「いろいろなピンクが、いっぱい。」

南北に長く伸びる土手の上には、両側からそれぞれ反対側の砂利道付近までせり出した枝が交錯する桜並木が続いていた。
満開の季節になると、文字通り桜のトンネルと化す。
染井吉野や枝垂しだれ桜はもちろん、山桜に里桜、八重桜、河津桜とあらゆる種類の桜が咲き乱れる様は圧巻だ。五色ごしきの桜と呼ばれ、はるばる遠方から見に来る人もいるという。

大人の私でさえ、何回見ても、春が来る度に思わず感嘆の声を漏らしてしまうほどの美しさ。しかし、初めて見る小さな子どもの目に、この桜並木はどう映るのだろう。
桜は桜だし、単体では決して見栄えのする花ではない。
どちらかといえば地味な部類に入るだろう。
曇り空の下などでは、桜はかえって汚らしくも見える。

そんな風に考えながらこの桜並木まで来てみたが、私の心配は杞憂きゆうに終わった。猫の目のようにころころと変わる空模様が、ちょうどこの時だけ晴れ間を覗かせてくれたのも幸いしたかも知れない。

自分と同じ冬の花の名前を。
そう思って「椿つばき」と名付けたのだけれど、どちらかといえば向日葵ひまわり凌霄花のうぜんかずらのような、暑い季節に色鮮やかに咲き誇る花が好きな娘だった。そんな彼女が、心寄せる男性の目をまともに見ることのできない初恋のような桜の淡い色合いにも心を動かされている様子を見て、自然と涙が出てきた。

少しだけ鑑賞して家に戻るつもりだったのに、娘はなかなか帰りたがらない。しばらくの間、歪な姿勢を維持しながら二人で土手の砂利道を歩いた。
くねくねと曲がる桜並木には、陽の光の当たり具合や枝葉を透けて見える空の色の変化によって、二つとして同じ景色がない。きっとこの風景をルノワールが見たら、刻一刻と変わりゆく光の移ろいをとらえようと、一日中、絵筆を止めずにキャンパスへと向かっていたことだろう。
どこまで歩いても見飽きることのないそんな景色は、五歳にも満たない娘の心をもつかんで離さなかったようだ。

もうそろそろ帰らないと。
疲れと眠気で機嫌が悪くなってからではたまらない。
そんな危惧が脳裏をかすめた矢先に、娘がぐずりだした。
しまった。少しだけ遅かった。
案の定、娘はその場に座り込んで泣き出し、「だっこして」と繰り返す。
「抱っこで歩いたらお母さんが疲れちゃうから、おんぶでいい?」
なかなか首を縦に振らない娘をどうにかなだめすかして、今、来た並木道を反対側へと向かって歩き出した。

きっと、このまま背中で寝てしまうだろう。
眠ったら静かになってくれるのは嬉しいが、力が抜けてすべての体重が背中に伸し掛かることになるので、とにかく重い。
私は、やれやれと思いながら娘を負ぶって歩き続けた。しかし、五分経っても10分経ってもその地獄のような重さは感じなかった。疲れて言葉は発しないものの、眠ってはいないらしい。
どうやら桜の美しさは、娘の眠気をも打ち負かしたようだ。
「さくらさんって、やっぱりおんなのこ?」
そう言った娘の体が、一瞬だけ軽くなって、ふわりと宙に浮いたような気がした。

いろいろなものを「男の子」と「女の子」とに分ける遊び。
今、娘が夢中になっている遊びの一つだ。その対象は、草花はもちろん、食べ物や乗り物にまで及んでいだ。
「おかあちゃんのすきな『なのはな』は『おんなのこ』だけど、つばきのすきな『ひまわり』は、『おとののこ』だよ。」
まだ上手に「お・と・こ・の・こ」と発音できないところが、可愛らしい。そういえば、私の好きな花を勘違いして覚えている娘に、まだ正しい名前を教えていなかったっけ。
そんなことを思い出しながら、私は背中の娘にそっと囁いた。

「そうだね。桜はきっと、女の子だね。」
「それじゃ、あじさいさんのおよめさんにしようかな。」
そう嬉しそうにつぶやいた娘の体が、もう一度、軽くなってふわりと宙に浮いたような気がした。背中で大きく体を揺すっているわけでもないのに、どうしたのだろう。
気になって後ろを振り向いてみても、娘はそこにいる。
上を向いて、桜の花にじっと見入っている。
昔、どこかで聞いた怪談のように、気がついたら背負った赤子の頭がなくなっていた、などということはない。
ほっとして思わず娘の名前を口にすると、彼女は「なあに?」と返事をしながら桜を見上げていた顔を下ろし、私の方を向いた。

そこには、見覚えのない顔があった。
それは、見ず知らずの小さい女の子だった。

◆ ◆ ◆

目を覚ますと、私は全身にぐっしょりと汗をかいていた。途端に、身震いが全身を駆け巡る。汗を吸い込んで肌に張り付いた寝間着が冷えて、寒い。

また、娘の夢だった。私が彼女の行方を探すようになってからというもの、もう何度、見ていることだろう。
手を変え、品を変え、まるで表面張力が限界に達してコップから溢れ出た水のように姿形を自在に変えては、私の目の前に現れる。

時も場所もばらばら。内容もちぐはぐ。

現実だったらとうらやむような心地良い夢にいつまでも微睡まどろんでいたいと思う時もあれば、この日のみたいに、叫び声を上げたくなるような悪夢に飛び起きてしまう時もある。
そこに私の自由は、一切、利かない。

不思議なのは、私は五歳までしかその姿を知らないはずの娘が、夢の中では勝手に大きくなり、年齢を重ね、成長した姿も見せていることだった。夢の中で娘は、生まれたばかりの愛らしい赤子の姿で登場することもあれば、二十歳の美しい女性として登場することもある。活発な小学生の女の子として登場することもあれば、幼子の手を引く母親として登場することもある。


自らの足で歩き回ることはもちろん、これまでありとあらゆる手段を講じて探してきたが、この世界でただ一人、私の血を受け継いだ存在である娘の居場所に到達することはできなかった。
それどころか、彼女の生死すら、まだ正確に把握することができていない。

もし生きていれば、彼女はきっと結婚し、子どもを持ち、毎日ばたばたと忙しく暮らしていることだろう。いや、年齢を考えたら、もう子どもも手を離れ、落ち着いて自分の時間を過ごしているかも知れない。

そんな、私が手に入れることのできなかったごく当たり前の日常のさなかに、突如として母親を名乗る人物が目の前に現れたとしたら、人はどんな反応を見せるだろう? 誰だって困惑せずにはいられないはずだ。
娘も恐らく例外ではない。

しかし、それが娘の迷惑をかえりみないような自分勝手なことだと分かっていても、止めることはできなかった。私にとって、娘を探し出すことが自分の人生に残された唯一の使命となっていた。生きる拠り所と言ってもいいだろう。一度でも手を出してしまったら最後、二度とまっとうな人生に戻ってくることはできない麻薬のようなものだ。まさに、依存症という言葉がぴたりと当てはまる。

もし実在するのであれば、孫だってもうそれなりの年齢になっているはずだ。私が知らないだけで、彼女の時間は彼女の周りでしっかりと正確に動いている。
私は、思わず苦笑いを浮かべて首を横に振った。
まだ見ぬ孫の姿を妄想するなんて、何とも可愛いものだ。会えないと分かっているのだから、そこには一抹の寂しさが確かに存在する。でも、自分の血を少しでも分けた幼い命が、この世のどこかで生きているかも知れないと考えるだけで、私のような身寄りのない孤独な人間にとっては十分な癒しとなるものだ。
肝心なのは、自分とつながっている人間がいるかいないかであって、会えるか会えないかはまた別の問題となる。

しかし、それも微笑ましいのはあくまでも想像の中だけのこと。自由気ままに膨らませたりしぼませたりできるからこその話。これが夢となって自分の支配下を離れた途端、それは恐ろしい猛獣となって私に牙を剥いて襲い掛かってくる。
良きにつけ悪しきにつけ、私自身の心の内面がどのくらい反映されているのか、夢となってしまっては皆目見当がつかない。
ただ怯えるばかりで何も対策が立てられない恐怖ほど、怖いものはない。
手に負えないものに対する恐怖ほど、怖いものはない。
何とも始末が悪い。


つづく(第一話 第二章へ)


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