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おばちゃんの家の片付け

(書くのに1か月かかった上にすんごい長文です)

「関目のおばちゃん」

私の母は8人きょうだいの末っ子で、私が小さなときは、いちばん上のおばによく会っていた記憶がある。
おばちゃんは北新地にお店をもち、関目にある古いマンションで暮らしていた。未婚で、子どもはいなかった。母は歳の離れたきょうだいであったこともあり、私と弟もけっこうかわいがってもらっていたと思う。

(あとで聞くところによると、母はおばちゃんにけっこうな額の借金をしており、こつこつ毎月返すために会っていたとかなんとか)

おばちゃんには子どもがいないので、店とマンションは私が継ぐのかな、と、なんとなく思っていた。
しかし、実際それを口にしてみたところ、おばちゃんと母から「じゅんこは継がなくていいよー」と言われた。
あ、それは私が責任もたなくていいんだ。となった。17歳の頃のこと。

しばらくして、おばちゃんは店を閉め、いい感じの値段でマンションを売り、大阪を離れ、実家近くに平屋の家をたてた。

おばちゃんは、ばあちゃんを実家からその家に引き取り、介護した。
山の田んぼをしてた元気なばあちゃんも、心筋梗塞を繰り返し、3回目でとうとう寝たきりとなり、入院先に見舞いに行ったのを覚えている。
ばあちゃんを看取ってからのおばちゃんは、一人暮らしをしてたものの、徐々に認知症を発症、身体も悪くなり、入退院を繰り返し、老人ホーム入所となったそうだ。

疎遠になったきっかけは電話だった。
毎年、暮れに「松葉」のにしんを送っていたので、今年はいくつ送ろうか?と聞いても、ちゃんと答えてもらえない。そのうちに、家の電話はかけても出なくなり、もちろん携帯も置き忘れてたり電源が切れたままが多くなっていった。

認知症。
でも本人は、新地で店かまえてずっとやってたプライドも高くて。

気にしていたものの、おコロナさま大流行をはさみ、ようやく会えたのが、この連休だった。コロナが分断したものは大きい。

今回、帰省するにあたり、母に連絡をしたところ「おばちゃんち空いているから泊まろう」「布団とかごはんとかは、ねえちゃんたち(母の姉たち)がしてくれるよ」「ホテルとらなくてだいじょうぶ」となったので、行ってきた。

10年あいてたと思えない家

まず、入った瞬間の家のにおいがそのまま、「関目のおばちゃんち」であり、ここの家のにおいであったことに驚いた。においで、心が子どもの頃に引き戻される。はんぶん化粧をしたおばちゃんが出てきそうな気持ちになる。

母が帰省するときはいつも、ここの家を使うっていうから、そういうものかなと思ってたけど、10年近くあいてた家よね??そんな感じ全くなかった。

あとで聞いたら、近くに住むおばちゃん(おば2)が3日〜1週間おきくらいに来て、神棚と仏壇のお給仕をしてたらしい。
つまりこれが神棚・仏壇パワーか。
単に、人が出入りして空気を動かしていたから、家が朽ちなかっただけか。

10年近くあいている家も、電気と水が通ればちゃんと生活ができた。
台所のIH調理器(ガス火は危ないとのことで20年以上前、新築当時に導入)も、電子レンジも、冷蔵庫も、ちゃんと動いた。
ただ、温水器は壊れていたので、お風呂は使えず、近所のいとこの兄ちゃんの家でもらった(まじで兄ちゃん夫婦ありがとう、兄ちゃんの嫁さん仏)。

ということで家を片付けていく

夜になり、昼間興奮しきったチビたちが就寝したところで、母と片付けをはじめた。

この家、おばちゃんが悪くなってから、全く手付かずだったらしい。
母がここ1年で何度か「食器ちょっと整理した」程度。

引き出しをあけてみると、期限が切れているものがわんさかでてくる。
化粧品類は20年以上前、薬は10年以上前に期限が切れている。

おばちゃんの年齢でいうと70歳くらいまでしか、手が入ってなかったということだ。

そしてこの家、たんすがとにかくたくさんある。

服が入り切らない→新しいたんすを買う→また入り切らなくなる→新しいたんすを買う

といったかんじで増やしたのだろう。なんと、10個以上あった。ウォークインクローゼットもあるのに。古いたんすはいいものだが、買い足されるうちにだんだん安物になっていく。洗面所だけでたんす4個とカラボ5個。どうなってんねん。

たんすの中身は着古されたものばかり

洗面所のたんすには、着古した下着が大量に、乱雑に入れられていた。どれもこれも着古されていて、毛玉だらけだったり、のびていたり、のびていなくとも、色褪せていたり。
たんす2つあけたのに、新品はLサイズのぱんつ2枚しかなかった。
それも「シャルレ」。まじでウケる。
(わかんない人は「シャルレ あやしい」でググってね)
「長く着られますよ」ってんで、たぶん、着古した下着も全部置いてて、さらに新しいのガンガン買ってたんだろうな。わかる〜。そうなるよね〜!私はしないけど。

上だけのパジャマが10枚以上出てくる。ズボンは1枚もない。わかる〜。老人あるあるだ〜。下だけだめになるよね〜。

服は「こんなんどこで買うん?」ていう、いわゆる「ミセス服」から「老人服」まで、びっくりするくらいの「量」で出てくる。どれもが一度は着ているものばかり。似合わないとか着心地が悪いとか買い替えとかで処分せず「もったいないから」で置いておいたんだろうね。しまむらのミセスコーナーが埋まるレベル。枚数とかいうレベルじゃない。とにかく量がえぐい。

エプロンが出てくる。割烹着も。20枚くらいでてきたところで、数えるのをあきらめた。どれもこれも着古している。比較的ましな1枚を着て、作業を再開する。

帽子が出てくる。これも20個以上ある。ひとつ、黒の化繊で気になるものがあり、手に取ったら母が「それ、かあちゃんのや、いちばんよくかぶっとったやつや、こんなとこにあったんか」と。ばあちゃんの遺品だ。

タオルが出てくる。のりが酸化してしゃりしゃりになっている新品のタオル。そうそうお目にかかれないレベル。使ってあるものは、シミが出ていたり、使い古し、やせたタオルばかり。どのみち雑巾は必要なので、避けておく。

ばあちゃんの帽子以外、どれもこれも、愛着が感じられないものばかりで戸惑う。なんだこれ。

片付けという概念は新しい概念である

あらためていう。片付けと称して捨てることは、比較的新しい概念だ。

なんの愛着も感じられない、しょうもないもん置いておくための、スペースとたんす買うお金、もったいないやん。
…というツッコミは、おそらくこの20年くらいで許容された考え方だと私は思っている。

辰巳渚「捨てる!技術」の初版発行が2000年。
近藤麻理恵「人生がときめく片づけの魔法」の初版発行が2010年。

昭和バリバリ人間に「捨てる」は、大変ハードルが高い。

私たち第二次ベビーブーム世代以降が向き合うのは、「もったいない」をネガティブに振り切った昭和の思考の残滓だ。

ムダ毛の処理

ピンクの持ち手の、I字の剃刀があちこちから出てくる。こんなところになぜ?というところに置いてある。引き出し、鏡台、歯ブラシ立て、ペン立て、机の上、カゴの中、棚の奥、たんすの裏…ありとあらゆるところからポロポロ出てくる。
そういえば、小さな頃、おばちゃんが足や手のムダ毛をまめに剃っていたのをぼんやり思い出した。「私もやりたい」といったら「大人になってからね」と言われたんだった。あれか。それにしては使いさしの数が多くないか。
新地で店を構えた、美容に意識が高い、昭和の女の身支度の裏側を見た思い。

消耗品も使いかけ

両開きのガラス扉をあけたら、古い化粧品と混ざった謎の匂いがした。使いかけの洗剤が大量に入っている。
なんで「マイペット」の残り1/3みたいなやつが何本も出てくるのこの家??

私が小さい頃、同居のばあちゃんが、ことあるごとに「消耗品はちゃんと使い切りなさい」「使い切れなかったら次から同じものを買わないこと」「新しく買うときに前のものは捨てなさい」「使い切ることが物を大切にすること」と言っていたのを唐突に思い出した。こういうことか!

あと「アムウェイ」の洗剤類と「タッパーウエア」ががんがん出てくるのまじでウケる。
そういえばウチの母もハマってたわ。実家のプラスチック容器、今でもほぼ「タッパーウエア」やもんね。なつい。情弱の血を感じる。母方由来かこれ。
ちなみに台所のプラスチック容器は全てタッパーウエアでした。ううううん。そうかー。

コンビニで特大ゴミ袋50袋を買ってきた

翌朝5時、コンビニで特大のゴミ袋を買い足した。朝食もそこそこに、仕分けしたものを入れていく。綿のものはほとんどないし、下着もあるから、リサイクルなど考えず、気前よく処分だ。
いにしえの洗剤など、液体ものはあけずにそのまま、衣類にくるんで袋詰め。
粉ものは、埋められるものは庭の土の上にあけ、埋められないものは衣類にくるんで袋詰め。
ビンは衣類で拭い、外で軽くすすいで、リサイクルへ。

洗面所だけで、特大ゴミ袋10個近くになるってどういうことなんだろう。
ねえここほんとに1人の人間の住処だったの?途中で2人になったとはいえ、2人の物量じゃないよ??まじで???

引っ越してきた当初の荷物量を聞いて驚く

めっちゃ荷物多過ぎやん、と思ったので「引っ越しって何tトラックやったん?」と近所に住むおばちゃん(おば2)にきいてみたら、
「3台か4台あったかね」「2tか2tロングやない?」「関目のマンションの荷物、なんも捨てずに全部持ってきとったね」
とのこと。まじか。
「ばあちゃんも家から全部荷物持ってきとったいうても、大したことなかった」
つまりこの物量、ほぼおばちゃんの持ち物か。

私が4人家族で引っ越しを繰り返していたとき、だいたい2tか2tロングで、それでも「多いね」って言われてたよ…つまりおばちゃんは、この家で、単純計算でもウチの家族でいうと12〜16人分の荷物を1人で持ってきたってことでしょ…家たてるときに、やたら間取りと収納にこだわった理由がここで唐突に理解できたよ…

たんす2個とカラボ3個の処分

大物の処分はどうしようもないので、いとこの兄ちゃんに相談する。
自治体の粗大ゴミ回収は月に1回・申込制・チケット購入貼付・家の前に出す、という条件。
「業者にまかせるかなあ〜」とかいってたけど、それなら、家全体終わってから一気にまかせた方がいいと思う。
ま、このへんは、兄ちゃんが引き受けてくれた。母方の面倒ごとには、いつも出てきてくれる。本当にできた人だ。大量に出たごみ袋も半分以上持ってってくれたし、心底尊敬する。私もこうありたい。
遠方の私は労働力を提供するのみだ。

たんすはそもそも、湿気でやられてて、においもついているので、とても使い物にはならない。洗面所に置くのは安物がいいってよくわかる。

においに呼び起こされる記憶

おりたたみの鏡台をあけたら、化粧品のにおいが漂ってきて、一瞬で気持ちがまた「関目のおばちゃん」に引き戻された。

新地の店でみんなで「餅花」を作ったこと。ハーブ漬けの肉と肉の焼ける匂い。香水と化粧品の混ざった夜の匂い。狭いたたみの個室。脂がきれいにしみこんだカウンター。本名もしらない「てるこおばちゃん」「どうろおばちゃん」。店にあがる白いペンキが塗られた壁と階段。お店の重くて茶色いドア。業務用の冷凍庫。積まれたまんが雑誌と文庫本。時代小説。重くて大きな座布団。謎のおそうざい。
お客さんのおじさまたちに私が遭遇しないように、おばちゃんと母の手伝いはいつも、お店のお休みの日だった。

そんな記憶が一瞬で駆け抜けた。どれも、もう、私の脳内にしかない。

化粧品は新しくても2000〜2004年が期限の、使いかけのものばかりだった。あまりきれいに使われてはいない。ファンデーションが指についたままさわったものや、乱雑に絞られたものばかり。

それでも、「もの」たちは、静かに息をしていた。

まだ、おばちゃんは、生きている。
おばちゃんが生きているから、ものも、おばちゃんとつながったまま、生きている。

生きている「もの」

どれもこれもが朽ちずに残っているのは、もしかしたら、持ち主であるところの「関目のおばちゃん」が生きているからかもしれない、と、思った。

私は、お寺に嫁いできてから、お寺のおかあさんとおとうさんを見送り、その中で、家の荷物を整理してきた。とにかく物の多い家だ。ヨメに来るというのにコレなの!?と途方に暮れつつ腕まくりをして、片っ端から片付けていくのが、結婚してから最初に手をつけたことだった。

2階にはおかあさんが「入らないで」という部屋があり、「さわらないで」という大量の荷物があった。その部屋は不思議なくらい静かに、ものたちが出番をうかがっていた。

しかし、おかあさんがいなくなってしまってから、その部屋のものたちは「私たちはもうここの家にいらないでしょ」「あなたには必要ないでしょ」と主張しはじめた。処分をはじめると、急に部屋が明るくなった。

おとうさんが生きていたときは、大量の本たちが出番をうかがいながら、ざわざわとしていた部屋があった。おとうさんを見送って家に帰ってきて、急に静かになったことに気づいた。

おばの家。
ものたちが静かに出番をうかがっている。
そんな感じが、
おばは、たしかに、生きている、ということを教えてくれているように思った。

おばに会いに行く

運良く予約が取れたということで、おばの入所している老人ホームに面会に行った。
そもそも最後に対面で会ったのが10年くらい前。コロナ前までは電話で話していたし、小さい頃はそれこそ月に1〜2回は会っていたので、覚えていてくれるかと思ったけれど、名前のひとかけらも出てこなかった。私がこの10年で15kg近く体重を増やしていることも要因だとは思うけど(大きな要因であると思うけど)、母が「娘のじゅんこが来てくれたよ」といっても、こちらに向けられるのは、完全に見知らぬ他人に向ける視線だった。

隣に座った私の母の名前が、いちどだけ、出てきた。
それもすぐ不安げな視線に変わり、後ろの窓越しに見えるおばちゃん(おば5)ばかりを気にしている。

そして、遠回しな、いやみっぽい発言を、ちくりちくりと言い始めた。

ああ〜そうだ〜こういう人だった〜大阪の夜の女のいやなとこ煮詰めたみたいな発言ちょくちょくしてた〜認知症でこういうとこだけ残ったんだ〜めっちゃわかる〜なつかし〜全然変わってない〜おばちゃんだ〜!!!

業務モードに切り替えて、おばちゃんと話した。
おばちゃんの中に、私は、もういなかった。
ただ、懐かしく思えた。
でもいいや。私が覚えてるからいいんだ。

そして、患者さんの気が散らないような環境を用意することって、認知症対応にはやっぱり必要なんだなって、おばちゃんの態度をみて心底思った。

帰りがけ、おばちゃんは「私も帰るんかね?」「そういえば、新しい家はどうなっとるんかね?」と言っていた。スタッフの方がうまく誘導して、お部屋に戻っていく。

私たちのことは全く振り返らなかった。

やりかけの縫い物と台所

少し観光して、兄ちゃんとおばちゃんたちにお夕飯をごちそうになり(地元のお刺身と手巻き寿司)、家に戻り、少し片付けをすすめた。

「そこに針のついたのあるから、触らんとき」
と母がいうので、見ると、何かよくわからない縫いかけのものが置いてあった。
針抜いて処分しちゃえばいいのかな、と思ったら
「それは、ねえちゃん(おば2)にしてもらうわ、ねえちゃんも一緒にやらんと、やった気持ちにならんやろ」

台所も
「ある程度はねえちゃんたち(おば2・おば5)においとこ」
ということで、わざと触らず残したものもある。

片付けって、気持ちにかたをつけるところもある。それもそうかもしれない。

大量の薬と説明書と謎の健康食品と謎

2泊の予定、もう帰る日になってしまった。
朝うんと早起きして、片付けの仕上げをする。

なぜか台所に置いてあった学習机をあけた。いとこの子のものらしい。なんでこんなとこに。「いらんていうからもらってきたみたいやで」あー、あるある。中は、権利書か?と思ったら見積書だったり、広告めいたものだったりして、不要なものばかりだった。

どんどん出して、古紙回収に出すべく縛っていく。縛るためのヒモや、古紙回収用の袋も、片付けの途中で出てきたものだ。

おばが書き残した着物の縫い方や、編み物の本は、一部私が引き取らせてもらった。お裁縫の本には載っていない、おばちゃんのメモ。

そして、居間兼仏間のテーブルの上と、押入れにあるタンスの前にとりかかる。
そのまま置いてあるだけでは、謎雑貨としか見えない積み重ね。手に取ってみて、ようやくわかった。

薬だ。

シップが、おせんべいの入ってた缶に、ご丁寧に「2010年」「2011年」などと仕分けされている。

いやいや。シップそんなに山ほど持っててどないすんねん!そもそも、洗面所からも他のところからも、開封してあるやつチョロチョロ出てくるやん!

内服薬もある。箱をあけたらプレドニン山ほど。なんつー穏やかじゃないもの持ってんねん!なんで!この量、絶対飲んでへんやろ!!

綺麗に丁寧にたたんである紙は、全て処方薬局でもらう「薬の説明書」だった。厚み20cmくらい。いやどんだけ。

さらに「健康食品」なるものも、各種山ほど出てくる。くらくらしてきた。クロレラっぽいもの、コンドロイチンみたいなやつ、謎の丸薬、謎の米粒みたいなやつ(実家にもあった!子どもの頃飲まされた!!)、キノコっぽいもの、ビタミン剤ぽいもの…全て中途半端に残っている。空き箱も小物入れになっていたりする。

一箱いくらなの。考えたくない。

つか飲まない薬ためこんでこんなもん飲んでたんか。

お灸も出てくる。せんねん灸じゃないガチのやつだ。

おばちゃんは喘息もちで、しょっちゅう体調を崩していたのを覚えている。

…もしかしてさ、薬飲まない+こういう謎の健康食品=悪影響、ってこと…?

以前出会った、輸入の謎サプリでなった薬剤性肝炎の患者さんを思い出す。限りなく近い気がする。

体調の悪さに、いろんなものをどんどん足していくタイプだったんだと、大量の薬と薬ぽいものを眺めながら思った。

特大ゴミ袋2つに詰めてもまだ足りなかった。

あたしらの血税〜!医療費ぃ〜!!なんで病院行っても、もらった薬飲まないの〜!そりゃ医者がこの量を処方するよ〜!服薬コンプライアンスうううう!!!(絶叫)

あとでおばちゃん(おば5)に聞くところ、
「あたしがちゃんと薬管理して、(結構に大きな病院の有名な)先生の言うとおりにしたら、今ほんとに良くなったんよ、プレドニン飲まんでよくなったんよ、あたしがちゃんとしたげたんよ、じゅんこ褒めて!」
だったので、つまりそういうことだ。

大量の靴

玄関の靴箱を何の気無しに開けたら、ぎっしりと靴が詰まっていた。これもやっていこう。特大ゴミ袋は50枚買ってきている。

懐かしい「銀座ヨシノヤ」のパンプスが箱でたくさん出てくる。そうだそうだ、22.5cmの3cmヒール、黒エナメルのパンプス。関目のマンションの、ビニールクロスを貼った四角い玄関のたたきに、きれいに揃えて置いてあった。なつかしー。段差がない玄関が新鮮だったんだよなあ。

草履や下駄も出てくる。「伊と忠」のエナメル草履。カビが浮き出ている。パナマ草履も5足でてきた。夏着物、着てたなー。

靴箱の反対側の引き戸には、介護シューズへふんわり移行する感じの靴が入っていた。パンプスからヒールのない、幅広のフラットシューズへ。ひもつきのスニーカー、ゴム紐の靴、マジックテープの靴。

ぜんぶ、中途半端に履きつぶしてある。どんどんゴミ袋に入れていく。

靴と草履で50足以上あった。私らの世代がミニマリズムに憧れる理由を納得する風景だ。

大阪の女の戦闘服

ということで、本丸というか、母が「いちばん片付けておきたい」と言っていたクローゼットをあける。

ずらりとスーツが並んでいた。

「集金に行くのに、きちんとした格好でないとなめられる」ってよく言ってたらしい。それにしたってバブリーなやつからミセスなやつまで、山ほど出てくる。上質な素材はひとつもない。サイズは若い頃のSから最近の(といっても20年前着ていた)Lまで。

「ダウンジャケットとかダウンのコートがあったら置いてて」とおばちゃん(おば2)がいうので、品質表示タグをみながら仕分けていく。10着以上あるコートのうち、ダウンは1着だけだった。カシミアのコートはカビとシミで変色していた。

母が「コレはお気に入りでよく着てた」というブラウスを残し、ほとんどをゴミ袋に入れた。

着られない・入らないスーツを大量にしまっておくって、どういう気持ちだったんだろう。何を思って、自分の寝床にいちばん近いところにしまったんだろう。

おばちゃんはボケちゃって、もう聞けない。

そもそも、ハッキリしてたときだって、答えてなんかくれなかっただろうけれど。

出てこなかったもの

ここまでやりきって、出てこなかったものがある。

それは「お札」だ。全く出てこなかった。

お金は、小銭が3枚出てきただけだ。ポケットは全てさらった、小物入れもずいぶんひっくり返した、バッグも逆さまにした、にもかかわらず、だ。

通帳類もきちんとひとつ引き出しにまとめてあった。

バブル時代を含めて北新地で店を維持できた人の財布っていうのは、きちんとしていたんだと実感する。

きちんとしていたからこそ、これだけのものが買えた。置いておけた。家も新しく建てられた。

そういうことなんだろう。

引き出しから私名義の「住友銀行」の通帳が出てきた。中を改める。最後の記帳が30年前、1800円くらいの残高だ。そもそもなんのために作ったんだろう。今となっては、もう、全くわからない。

母と相談し、持って帰ることにした。

片付けを通して思ったこと

つーことで半ば片付けするために帰省したみたいな話になりました。

同居のばあちゃんがシンママ・母方のばあちゃんが未亡人・おばちゃんは独身子なし・そのほかのおばちゃんたちには離婚してる人もいる、そんなんもあって、私にとって「独り身の女性」てのは、わりと身近な存在だったんで、人生の仕舞い支度には興味を持っていました。

実際今回手伝ってみて、生活が立ち行かなくなり自分でもわからなくなった時点で医療や福祉につないでくれる人がいるなら、さほどの終活いらなそうでは?とかめっちゃ思いました。

終活なんか、なーんも考えずに生きて、自分が困るわけでなし。おばちゃんは全然困ってなかった(周りが困っただけ)。
自分が病むとか老いるとか死ぬとか全く考えてない人の荷物を片付けて、あ、別に、これでいいのか、ってなりました。

それと、山ほどいる母のきょうだいはまだ誰もなくなっていなくて、おばちゃんたちが欠けていくことが想像できてなかった中、唐突に生前整理に放り込まれて、なんとなく…私が、親族を見送っていくってことを、予行演習させてもらったような気持ちにもなりました。

最後に

帰りの日は雨が降る予報だった。私は傘を持っていなかったので、玄関で見つけた中から、壊れていない折りたたみ傘を1本持っていくことにした。

結局、帰り道に使うことはなくて、6月になって雨の日に広げてみた。

干したら朽ちてたとこ破れた

外に干して、持ち手に名前が彫ってあることに気づいた。

「阿部」

この苗字は、たぶん、私が本名をしらない「どうろおばちゃん」か「てるこおばちゃん」のどちらかだ。

とてもかわいがってもらったのに、そういえば、どうろおばちゃんとてるこおばちゃんが、いったいどこの誰で、どんなふうに老いていったか、ちゃんと知らないな。

幸いにも、傘の骨に書いてあった社名?のようなものから、メーカーがわかったので、布を張り替えて使うことにした。届いたら、また傘の話を書こうと思う。

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以上!大長編、執筆に1か月かかったやつをお読みくださってありがとうございました!!
まだまだ、庫裏も片付けなきゃだし、お寺も片付けなきゃだし、そもそも、父と母を見送るのはきっと私がやることなので、自分の生活をダウンサイジングしながら、やっていこうと思います。

投げ銭はいつでも歓迎でございます🙏