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子どもから「遊び」を奪っているものは何か?

先日、地域の人が企画した地域の人のための研修会に参加した。「遊びが育む子どもの芽」と題した研修は、天野秀昭氏、嶋村仁志氏という子どもの遊びに長らく携わられている両名が子どもにとって遊ぶことの意味合いを語ってくれる内容で、とても素晴らしい研修だった。私はお二人のお話しにくぎ付けになった。

特に印象的だったのは、子どもは大人から見ると危険だと思うような遊びを通じて、本当に危険な事とそうでない事の境目を学んでいく。危なくて、うるさくて、汚い遊びを通じて、生きていく上で大切な力を養っていくという事だった。

振り返ってみると本当にそうだなと納得する。でも、現代は危なくて、うるさくて、汚い遊びがとことん子どもから奪われている。公園の注意書きを冷静に見てみると、どれだけ子どもから危なくて、うるさくて、汚い遊びを奪っているかに気づかされる。

研修に参加した人が「自分が子どもの頃は自由に遊んでいたのに、今自分が親の立場になると公園で子ども完全に自由にはさせてやれていない。それはなぜかと考えてみると周りの親の目が気になるから」と発言されていた。この発言に私は深く共感した。自分も全く同じなのだ。私は、公園で子どもが遊んでいる間、何かハラハラするものを感じる。他の子どもにケガをさせないだろうか、喧嘩をはじめないだろうかと。

実際に子ども同士のいざこざが起きたところで、9割以上の大人はそれをやさしく見守ってくれる。それでも、周りに迷惑をかけちゃいけないと異常なほど過敏になってしまう。

研修の中で、「どんなにステキな場所があっても、大人同士の関係の貧困で子どもは遊べなくなってしまう」という講師の発言を聞いて、私はドキリとした。

これまでは、地域の人とつながりを育むことは生きていく上で必要不可欠だった。でも、現在はどうだろう?都市部の生活において、地域という物理的な場所を共有している人とのつながりは必要と感じるだろうか?場合によっては、余計な事に思えたり、生活をしていく上ではむしろ非生産的に感じるかもしれない。

今は、オンラインで世界中の人とつながることができる。そして、そのオンライン上のつながりで仕事を進めることができる。それは、これまでには考えられなかった新しい可能性を拓いている。でも、その新しい可能性ばかりに注意を奪われて、物理的に近くに住む地域コミュニティの関係性は劣化し続けていないだろうか。

自分が身を置いている構造を考えてみるとこんな感じだろうか。

プレゼンテーション1

今、テクノロジが爆発的な勢いで進化している。オンライン上の可能性広がるループに勢いは凄まじく、華やかでついそちらに注意が奪われる。青いループが煌びやかであればあるほど、赤い地域の関係性劣化ループの勢いも凄まじい。以前から何となくこういう構造の中に自分は身を置いていることは自覚していた。赤いループが回る事で、災害等の非常時のリスクが高まっていることは自覚していた。だから、ゆるやかにでも地域でつながりをつくろうと行動は始めている。でも、赤いループが回る事で子どもから生きる力を育てる遊びを奪っているなんて考えた事も無かった。

時間軸を伸ばして考えた時、子どもから遊びを奪うとどうなるだろうか。

私は子どもに遊びを通じて、生きているという感覚を育てて欲しい。子どもの危なくて、うるさくて、汚い遊びは身体と切り離して考えることはできず、リアルな場所で生まれる。どれだけの力で相手を叩けば、相手は傷ついてしまうのか、どれだけの高さからなら自分は飛べるのかという生身の感覚は、リアルな場所でしか感じられない。そんな子どもたちの場所をつくるためにも、今はコロナ禍で中止になっているけど、収束したらおやじの会に参加しよう。地域の祭りに参加しよう。よくすれ違う人に挨拶しよう。

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