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体はたくさん記憶してくれている

体に記憶されているものってすごいな…とつくづく思う。

先日、外で昼食をとることがあり
サンマルクカフェで、パスタを注文したが

「20分ほどお時間がかかります」

と言われ、目の前にあったハムチーズホットサンドに変更。
飲み物は、カフェにもかかわらず、100%オレンジシュースを注文。
これは、いつもの私。

コーヒーのカフェインで、夜眠れなくなるという
なんともお子ちゃまなまま、歳を重ねた50代。

だから、コーヒーが美味しいことも知っているが
飲むと、その後の生活リズムが崩れてしまうので
よっぽど有名な珈琲店だけしか飲まない。

支払いを終え、注文した
ハムチーズホットサンドとオレンジジュースをトレイに乗せて
確保していた席へと移動。

席について、オーディブルを聴きながら一口

「美味しい・・・」

つい、うっとり。1人で呟いてしまった。
ホットサンドを外で食べるのは初めて。

「この味・・・」

幼い頃の思い出が蘇ってきたのだ。

小学校3年生頃の夏休み。
朝ゆっくりと起き「夏休みアニメ劇場」を見ながら
生意気にもチーズトーストと、いただき物のポンジュースを
朝ごはんとしていた時期を思い出す。

私は、この組み合わせが気に入り
夏休みのあいだ、朝食として食べていた。

私が大好きだった当時の組み合わせが
40年以上経ったサンマルクカフェで蘇った。

そして、今日、夫と植物園へと出かける。
現地へ着くとお昼前だったので腹ごしらえのため
目についたベーカリーレストラン「新々堂北山」に入る。

そこで「手ぎりハムのクロックムッシュ」という
サンドイッチの項目にあった
名前だけを聞いてもあまりイメージができないものが私の目に止まる。
説明にグリュイエールチーズが使われていることが
小さな字で記されている。
美味しいに違いない、と即注文。

私が初めてアルバイトした喫茶店の人気メニューが
「クロークムッシュサンド」だったことと
グリュイエールチーズについては、まったく知らないが
わざわざ書かれているのだから、さぞ美味しいのだろうと判断。

もちろん、飲み物はオレンジジュース。
ここでは100%との記載はなかった。残念。

あのサンマルク以降はじめてのパン、チーズ、オレンジジュース。

店内は、少しずつランチ客が増えはじめ忙しそうだ。
ほんのりパンの匂いが漂う店内で期待して待っていると
席に通された時には、それほど空いていなかった私のお腹も
だんだんと空いてきた。
久しぶりに、子どものようにワクワクし
今日は、自分の注文が運ばれてくるのが待ち遠しかった。

席に運ばれてきたクロックムッシュを見て
「思ったより、小さい…」と小ささと、見た目の地味さに
少しモチベーションが下がっていたが
一口食べて、吹き飛んだ。

「美味しい・・・」

声にならない声で、自分へ呟き
先日のサンマルクでのこと、夏休みの朝ごはんなどを、夫に話す。

夫は「ラタトゥイユモッツアレラチーズのタルティーヌ」という
さらに、想像し難いものを注文しており、私は
「ラタトゥイユって煮込み料理じゃないの?」
という疑問を持ちながらも、まったくの他人ごとで
それ以上のことは考えなかったが
夫は「美味しい、美味しい」と
ピザのようなオープンサンドを頬張っていた。

注文する時
「セットにサラダか、フライドポテトが付きますが?」と言われ
そんなの、ランチには生野菜のサラダに決まってるじゃない
と思いながら、私がサラダを注文。

夫は迷いなく「フライドポテトで」と注文。

「うーん…なんでフライドポテトなんだ?ここでは生野菜だろう?」
と、夫の選択に疑問を感じながらも

夫のフライドポテトの選択にも
重ねられたストーリーがあるのだろうか…と考える。

私の実家はファーストフードを罪悪のように言っていたことと
小さい頃から、ジャンクフードは体に良くない
と教え込まれていた、私のストーリーを思い出す。
フライドポテトを食べる時
無意識に持っていた罪悪感はこれだ。

また思いがけず、私の記憶がいろいろと蘇り
無意識の選択だったことに、自分自身で納得。

無意識は、私たちの意識の外側にあって
自分自身での直接的なアクセスが難しい心の領域。
だけど、私たちの行動や思考に、大きな影響を与えているよ
と、フロイト先生は言っている。

そう思うと
好きだから選んだと思っていた今回のメニューの選択も
子どもの頃好きだった食べものだとか
高校生の頃のバイト先のメニューだとか
ジャンクフードについて親から言われていた言葉だとか
意識上に現れないものも含めて

今まで52年の私の経験から知り得た知見を、最大限に活かし
自分に合う最高のメニューを選択している…
…と想像すると面白い。

そうやって毎日
人の体は、今までの記憶を活用してくれている。
でも、残念ながら
すべての記憶が想起されるかどうかは、わからない。
自分がコントロールできないところにある。
だから、記憶は自分を超えたもの。

想起は、偶然に頼るしかないけれど
日常の快、不快の経験をはじまりとして
体が記憶していることを
私の体は、まだまだたくさんもっている。

私の体であって、私がまだ思いもしないものを
私の体はたくさん記憶してくれている。

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