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ひかりの粒

影があるから光がある

闇があるから光がある

 静と動、男と女、月と太陽、すべては対になっていて陰と陽の世界だなぁとよく思う。それは二元論という話ではなく。陰の中に陽もいる。すべては対の存在があるからこそその存在が浮き出てくる。おかげさまの関係性。

 光のおかげさま。かげのおひかりさま。

 人にはそれぞれ振れ幅があるのではないかなと思う。光を強く放てる人ほど闇が深い。でも生を重ねるうちに、その振れ幅をいかにニュートラルにキープするか、というのは大事になってくるのではないだろうか。良い意味で、一喜一憂しなくなる、ということ。

 わたしは以前、感情の振れ幅がとても幅広かった。とてもハッピーな日々があると、突然何の前触れもなく、どん底に突き落とされたような気持ちになるのだ。どん底の気分は、何を考えても涙ばかりあふれてきて、自分がとても小さく思えていた。でもたった一言や、たったひとつの出来事で急に這い上がる。そのアップダウンは今考えるとなかなかハードな感情の波。笑

 そのアップダウンはごく最近まで、続いていて、ハッピーに浸ると、またあの孤独で何故か悲しい日々がやってくることをとても恐怖していた。それがイマイチなんなのかわかっていないけど、もしかしたら同じ気持ちの人もいたりするかもしれない。特に女性は月経などのホルモンバランスの影響もとても受けると思う。

 そしてまた、よく人の感情の波にも振り回されていたなぁと思う。怒っている人、イライラしている人がいると、わたしが何か悪いことをしたのかなぁ?なんてビクビクしたり、悲しんでる人がいるととても悲しくなったり、もちろん嬉しいことはものすごく嬉しくなったり。人の気持ちに寄り添えるということは、良くもあり、でもそこに境界線が無ければ、自分自身を疲労させていくだけだと思う。実際に人に振り回されていたわたしは、よく疲れていた。

 でも、とある日、第六感の力が強い友達に、靈氣をやってもらったのだけど、その時に自分の中であっちやこっちに振れていた幅が、ピタッとニュートラルにハマった。全てが統合したような感覚だった。

「大丈夫だね。なにをやっても上手くいくよ。ご先祖様がたくさんいる」

 彼女の放った言葉は極シンプルなものだったけれど、わたしの腑に落ちるには容易かった。

 自分の中で感じていた孤独感や不安や恐怖は、ただ自分自身を信じていなかったんだと、その後も内観を繰り返し行い、そんな結論に行き着いた。自分を信じていないということは、これまでわたしの命を繋いできた先人たちのことも信じていないということになるのでは? と。

 でもその悲しみや孤独感、不安や恐怖があったからこそ喜びや充実感、安心や愛を感じられるわけであって、どちらも片方が欠けてしまうと深みは無いものになると思う。だからどちらが良い悪いということは全くなく、波動が低いとか高いとか大事ではなくて、ただその波の動きを楽しんで、ただ波に乗り続けたらいい。

 どちらにせよ光のかけら。光の粒なわたしたち。自分自身の持っている感覚や感情を、ただただ任せてゆだねて、解き放っていくだけ。誰として同じ光り方はしない。それぞれが異なる光を放ち合うから、世界が虹色に輝いている。

 佳い1日を。

All of life comes to me with ease, joy and glory.

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