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A氏のオマージュ(短編ネタメモ)

己のことを小説に書き始めた彼のことを、周囲は彼の文学の敗北、挫折ととらえた。しかし、彼自身はそう思っていなかった。


 文壇から高く評価され、短編の名手とさえ呼ばれた彼には、もう何も残っていないのを自分では知っていたから。


 当時文壇の大御所であった大作家から、処女作が高く評価され、デビュー。華々しいデビュー。作家として知れわたった彼の名。


 しかし、いつしか、寄木細工を作り上げるように精緻な自分の作品を、欠陥だらけと思うようになっていた。

 精緻な構造に、あふれる機知、豊かな典拠。隙一つもない、上質な物語世界。

  目を凝らすと、そこには、何一つ人間は書かれていなかった。人物たちは、己の人間不信の念が凝り固まったものにすぎず、血の通った人間の声、息吹とはかけ離れていた。


 ただ自分の技巧を用いて、己の作品を書いても、つまるところはそれだった。実にあさはかな、浅薄な人物像と、人間への嘲笑が凝り固まったものだった。


 心ひそかに、S氏に憧れる彼を、彼の文学の敗北であり、彼の卑怯さとして、皆は笑うかもしれない。が、まったくの見当違いだ。


 技巧派で知られる彼は、繊細にできていた。自分の技巧の枯渇をうっすらと感じ、じりじりとそちらへ押し出されていく恐怖があった。


 何も書けなくなってしまった。なぜだろう、あのあふれるほどのインスピレーションは、どこへ行ってしまったのか?


 一方、S氏は、三年間も書けなくても、じつに悠々と堂々としている。そんな姿に憧れ、また尊敬すらしていた。


 S氏はありのままの自分や、自分のみた世界を書いて、そこに不純物が入り込まない文体を持ち得ていた。自分を飾ることも、装うことも、演じることもない。地声で太く書かれるS氏の文章に、一切の無駄はなかった。


「完璧なんて無理だよ」

「すべて取ろうなんて無理だよ。結局は、何かを選んだら、何かをあきらめないといけない」

 自分がなるべく完璧にと思っていることですら、完璧というものはない。


(つづく)

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