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あの日のわたしと、背負いたかった震災 #震災から10年

あの日のわたしと、背負いたかった震災

東日本大震災と東京電力福島第一発電所の事故から、10年が経ちました。

2011年3月11日、原宿にいた19歳のわたしは、乗れなくなった東京メトロの代わりに徒歩で、都内の親戚の家に帰りました。それから、TVを付けっぱなしにしながら、次々と飛び込んでくる福島のニュースをタイムラインで貪るように眺めていました。

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避難を余儀なくされた人、福島に残ると決断する人。双葉郡からの避難者を中通りや会津で支える人。ボランティアとしていち早く被災地に飛び込み、働く人。募金や寄付を呼びかける人、言論の場でこれからの社会のあり方を語る人。あるいは、厄災の象徴として悲劇の当事者として取り上げられる子どもたち。

わたしは、その誰にもなれませんでした。

福島県出身というだけで、ただその悲劇に共感するだけの大学1年生でした。自分が何もできない無力感と、自分が自分の町や県のことを学んでこなかった無知とを思い知らされ、疎外感でいっぱいになりました。

わたしは被災者ではない。復興に向けて必死で取り組む地元の人や支援者のように働いているわけでもない。自分の地元の土砂災害や風評被害の復興も、なんか津波被災地のようにクリエイティブに取り組まれているわけでもなく、スポットライトはいつも双葉郡や中核市のキラキラした人に当たっている。

自分の経験には価値がなく、自分の町にも価値がないのではないか。復興の役に立たない人生を送っているのではないか?

あの日原宿にいたわたしは、1学年下の、あの日県内に住所があった若者が、甲状腺検査や健康診断を受けることを、うらやましくさえ思っていました。

当事者にも、支援者にもなれない自分。その罪悪感や疎外感を埋めるために、少しでも福島や双葉や復興により近いところに近づこうとしました。しかし、縁のない地域に飛び込む勇気もありませんでした。

つらい経験をした被災者に自分が向き合えるはずもないという勇気のなさ、当事者ではない立場で語ってはいけないのではないかという罪悪感。そこに自分の地元だって震災前より復興したっていいじゃないかという憤りやその中心にいたいという功利心。

そんな感情が入り混じる中、白河で活動する学生団体に出会い、自分が役に立てることで行動を始めようと思うことができました。

その時活動を始めることができたのは、震災からの復興(≠復旧)とは、震災前からの地域課題を解決することだ、と言われていたことだったと記憶しています。開沼博さんや、吉川徹さんとのシンポジウムやその準備のプロセスで、そのような話をしたのかもしれませんし、山下祐介さんとのゼミでもそのような話をしたかもしれません。

どのまち・むらにいても、課題の形は似ている。復興が地域課題解決なら、自分ごととして取り組める場所で活動を始めることが大切なのではないかと思ったことから、少し気持ちが楽になりました。課題解決に取り組む人が不在の地域なら、自分も役に立てるかもしれない。鶏口牛後で、多少目立つかもしれない。そんな気持ちで、地元白河の、高校生のために活動すれば、自分は当事者ではないという気持ちが解消されるのではないかと感じていたと記憶しています。

”復興を背負わされる”とは何か

大切なものを失った「本当の被災者」を目の前にすると、私は、同じ福島にいながらあまり被害を受けずに平気で暮らしてきたことへの負い目を感じて、いつも居たたまれない気持ちになった。
震災を背負い背負わされた子どもは、10年を経て何者であろうとするのか(小林友里恵さん)

白河市出身の東大生、小林さんはこのように書いています。わたしの8歳年下、当時11歳。わたしからすれば、あの日大きく揺れ動いた福島県で、小中高校生時代を過ごしたことは、当事者であると(検査を受けたり、ガラスバッジを配られたり、自宅が宅地除染されたり)思っていたのにもかかわらずです。

3年前、私たちはようやくふるさとの楢葉町に戻ってくることができました。その後、何度か取材を受けましたが、「何が1番つらかったか?」という質問に戸惑いました。私は、津波で誰かを亡くしたり、転校先でいじめを受けたりしていないからです。しかし、メディアはきっと「そういうこと」を言って欲しいのだろうと察してしまい、自分のつらい経験がちっぽけに思えて話せませんでした。
ー令和2年度東日本大震災追悼復興祈念式『誓いの言葉』(ふたば未来学園高校 政井優花さん)

楢葉町出身の高校生、政井さんは東日本大震災追悼復興祈念式このようにで述べました。まさに避難を経験した双葉郡の、小学生にして楢葉町を避難せざるを得なかった高校生ですら、自分の経験が「ちっぽけに思えて」しまったというのです。

(高校生だった当時の自分を見ると)そんな無理しなくていいよ、そんな目の見えないものに押しつぶされて自分がいなくなっちゃう感じだったら考えなくてもいいんじゃない。話さなきゃいけないとか「べき」みたいなものは、おもわなくてもいいよって言ってあげたいです。
ーNHK福島放送局 わたしたちの物語 沼能奈津子さんの物語より

浪江町出身の社会人、沼能さん。避難を経験し、高校そのものもサテライト校になり、授業と部活とを異なる校舎で間借りした経験もあるそうです。彼女は、原町高校放送部員として、避難区域や津波被災地を発信する活動を行っていた当時を振り返って、このように語っていらっしゃいました。語らなければ、伝えなければ、”被災地の高校生”にならなければ、という重圧を背負っていたら、”自分がいなくなった”とも、番組の中でおっしゃっていました。

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わたしは、背負えないことを、自分が当事者になれないことに罪悪感や疎外感を感じていました。だからこそ、わたし自身も、どこかで福島の役に立たなければ、わたしは福島にいていい存在ではないのだと思っていました。当事者のみんなとは、わたしは違うのだと思っていました。

しかしいま、震災当時の福島で暮らした小学生や高校生だった人たちが、その過程で「被災者」としてあるいは「復興の担い手」としての役割を期待され、自分はちっぽけな存在である感じていたことや、自分はその役割を担わなければ価値ある存在ではないのだと思っていたということを、言葉にして、語ってくれています。原発からの距離や居住地は一人一人異なるものの、みな「本当の被災者」に対して負い目を感じたり、自分らしさが属性に上書きされてしまう感覚を経験したことを、言葉にしてくれているのです。

いま、10代・20代が経験してくれたことを言葉にしてくれている。それに向き合い、次の10年を迎えたいと思うのです。

「当事者から共事者へ」

10代・20代の3人の言葉を読み、聞いて思いかえしたのは、いわき市小名浜のローカルアクティビスト、小松理虔さんの「当事者から共事者へ」というゲンロンでの連載タイトルでした。

「漁業者が納得するように賠償なり何なり決めればいいじゃん」というような思考は、正論のように見えてそうすればするほど漁業者にある種の責任を押し付けていくみたいな話になっていってしまうんです。

大事な問題を国民全体が考えることには絶対つながらない。廃炉の問題も核の廃棄物の問題もそうだと思いますけど、当事者に気を遣えば遣うほど当事者自身に非常に厳しい決断を迫るということを何度も何度も見てきて、ずっとモヤモヤしてきたんです。『新復興論』を出版してからも続けているゲンロンでの連載タイトルは「当事者から共事者へ」としているんですが、この「共事者」という造語もそうしたモヤモヤから生まれました。

例えば取材対象から「あなたが福島にいなかったなら、僕の気持ちなんて分からないと思いますけどね」と言われたら「そしたらもう何も言えないよ」と思うじゃないですか。
(中略)
そういう自分の被災体験みたいなものを、より当事者性の強い被害を受けた人に忖度して語ってこなかったから、震災が他人事になったんじゃないかと僕は考えていて。

「10年間復興から目を背けてしまった人」であっても「ゆるい関わり」を許容する。いわきで活動するローカル・アクティビスト 小松理虔インタビュー

福島県はこの国の裏庭のような場所だと思ったことがあります。社会学の用語でNIMBYと呼ばれる施設や機能が集積しているんじゃないか。発電所や廃棄物処理場、大規模な工場、軍事演習場など。社会や国家のシステムとしては必ず必要だけども、自分の生活環境の中には積極的には設置して欲しくないもの。NIMBY(Not In my backyard - 自分たちの裏庭にはこないで -)と呼ばれるもの。

そういったものを裏庭におしこめておいて、自分ごととして見つめたり語ろうとしてこなかったら、もう一度あの10年前のような経験をする人がもう一度生まれてしまうのではないかと思っています。原発は福島の問題だから福島の人が考えればいい、震災前から原発マネーで潤ってきただろう、など、分断を言葉たち。分断や誤解、偏見は、強い痛みをもたらすことを、福島県の人たちは誰よりも感じてきたと思います。

「本当の被災者」への配慮をするあまり、当事者にのみその問題の責を持たせてしまう。国や社会のあり方を問うような問題への答えを、当事者の方だけが決めればいいと迫ることは、真に復興や創生の責を「背負わせる」行為になってしまうのではないか。

なるべく、ゆるやかに
なるべく、たのしく
なるべく、はばひろく

無力感や疎外感、申し訳なさを感じる必要はない。いつからでも、どこからでも、自分のできること、興味のあることから福島と関わればいい。

"正解はない。だからこそ決めつけず、言葉の先や奥に向き合うことを、自分に対しても、誰か相手に対しても、続けていきたい"と、わたしも思います。自分に対しても、相手に対しても。

大きな穴が埋まったわけではない。原子力災害は、家族のつながりと地域コミュニティーを分断する最大の罪を犯した。しかも現在進行形だ。再起し前進する人と、自立できず心に痛みを抱えたままの人との格差を広げ続けている。行政は、立ち上がれない人を個人の問題と片付けてはならない。私たちも溝を一つ一つ埋める努力を続けよう。
震災10年、奮闘たたえ合い 頑張ろう 福島民友新聞社編集局長 2021年03月11日

折しも、福島県の新スローガンも「ひとつ、ひとつ、実現するふくしま」になりました。「ひとつ、ひとつ」でいいのです。溝を少しでも埋める努力を、ひとつひとつ、していきたいです。

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そんな、震災後に福島に育った大学生、震災後に福島に関わった大学生が、震災後の福島の10年を語り合うシンポジウムが、2021年3月17日 19:00〜オンラインで開催されます。コミュニティ・カフェ EMANONを立ち上げてから、当時高校生として施設を使ってくれていた世代が、福島の大人や有識者と、自分たちの経験から復興や地方創生を語るために企画してくれました。ぜひ、お聞きください。


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