アンフィニッシュト 45-1
サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。
「君はそれでよいのか」
琢磨の問い掛けに、よどみなく柴本が答える。
「もちろんです。少なくとも今の中野さんは、仲間も北朝鮮政府も裏切るようなことをしていません。首領様のために心を入れ替えたと信じます」
それに対して琢磨は、沈黙で答えた。柴本の情けにすがるような態度を示してしまえば、これからも見下される恐れがあるからだ。
「でも、少しでも怪しい行動をすれば、このことを皆にばらしますよ」
柴本が釘を刺してきた。二人の関係において、どちらが主導権を握っているかを明らかにしたのだ。
――つまり、こいつに弱みを握られたということだ。
些細なことでも、柴本の不興を買えば、琢磨の命はそれまでということになる。
「週総括で僕が皆から責められた時は、弁護して下さいよ」
――これからも、こいつには頭が上がらないということか。
胸底から怒りが込み上げてくるが、この場は堪えねばならない。
「分かった」
それを聞いた柴本は突然、走るのをやめて、皆の方に向かって歩き出した。
「君は――」
息を切らしながら追いついた琢磨が問う。
「もう日本に帰りたくないのか」
一瞬、その場に立ち止まった柴本だったが、何も答えずに再び歩いていった。
――迷っているのか。
柴本の気持ちは明らかに揺れ動いていた。故郷に帰りたいという気持ちと、自ら進んで洗脳を受け、そうした未練を断ち切りたいという二つの思いだ。
二人は深刻な話をしていたことをおくびにも出さず、笑顔で皆の方に向かった。夕日に照らされた皆の顔にも、若者らしい無邪気な笑みが浮かんでいる。それは、琢磨が雄志院大学のキャンパスで見てきた学生たちと何ら変わらない。
――だが、ここに自由はない。
今後、彼らは金日成の兵士として、いかに良心に反することでも、黙々と遂行せねばならなくなるのだ。
――俺は真っ平ごめんだ。
琢磨は、これからの不安な日々に思いを馳せた。とくに柴本がいる限り、ぐっすり眠ることもできなくなる。
最年少の上、情緒不安定な柴本である。いつ何時、些細なことから機嫌を悪くし、琢磨の秘密を皆に告げるか分からない。
――早晩、勝負をかけねばなるまい。だが、どうやって。
琢磨には焦りが生じていた。
六
太陽節が近づいたある日のことである。
食堂で談笑していると、厨房の中で、雑役婦たちの会話が耳に入ってきた。
「太陽節の日は式典があるから、警備の人は少ないって」
――何だと。
琢磨の中で何かが反応した。
北朝鮮での生活も三年目に入り、琢磨たちにも朝鮮語の意味が分かるようになっていた。語学センスのある岡田などは、積極的に従業員に話し掛けて実践を積み、日常会話なら普通にできるほどだ。だが従業員たちは、ついそれを忘れてしまうことがある。
「警備艇はいるの」
「いると聞いたわ。でも三人だって。だから夜食は三つでいいわ」
――警備艇だと。
琢磨の頭脳が回り始めた。
――三人なら倒せないこともない。
だが、それは多くの危険を伴うことになる。
――闇の中、背後から迫り、一人ずつ締め技で落としていくとしても、すべてが思惑通りにいくとは限らない。
しかしこの機会を逃せば、次にいつチャンスがめぐってくるか分からない。チャンスを待っているうちに、柴本が琢磨の秘密を皆に告げることも考えられる。
その時、突然、隣に座る岡田が話し掛けてきたので、ぎくりとした。
「太陽節の日は、警備の人が減るようですね」
「君にも聞こえたのか」
琢磨は愕然とした。皆の会話に交じり、一緒に笑い声を上げていたにもかかわらず、岡田はしっかり厨房の会話を聞いていたのだ。
――こいつも同じことを考えているのか。
三年の月日を共にしても、岡田だけは何を考えているのか分からない。底抜けに陽気な半面、その顔に暗い翳を宿すことがある。当初は、岡田だけが労働者階級の出身だからだと思っていたが、ここでの成績はトップクラスなので、学歴をコンプレックスにしているとは思えない。
「警備艇の人たちも、いつもの半分のようですね」
――何が言いたい。
琢磨の顔色から、岡田は何かを読み取ったのかもしれない。
――俺に警告しているのか。貴様は何者なんだ。
岡田はもう皆の話題に戻り、独特の嗄れ声で笑っている。
――やはり思い過ごしだ。
岡田は皆の会話に入ってこない琢磨を気遣い、たまたま耳に入った太陽節の警備状況を語ったにすぎないのだ。琢磨はそう思うことにした。
やがて太陽節の日がやってきた。
この日は、国中が昼のうちから祝賀気分一色で、メンバーもバスに乗せられ、平壌市内を見学させてもらえた。
夕方、ユーチョルの案内に従い、皆で大競技場に入ると、しばらくして式典が始まった。観客席を使ったマスゲームなどが繰り広げられ、最後に金日成が演壇に上り、演説をして幕となった。
メンバーはあらためて金日成の偉大さに感嘆し、中田などは涙ぐんでいた。
琢磨は誰にも負けないくらい拍手をしながら、洗脳の恐ろしさを思い知った。
夕方には宿泊所に帰り、祝賀の宴が催された。それも夜の十時には終わり、それぞれ宿舎に戻っていった。
琢磨は寝床に入り、寝たふりをしながら時が来るのを待った。
――果たして、うまくいくかどうか。
琢磨は、これからの行動手順を幾度となく脳内で反芻した。
やがて柴本が寝息を立て始めた。
琢磨はゆっくりと起き上がり、トレーニングジャージに着替えてナップザックを摑むと、部屋を出ようとした。
「やはり行くんですね」
突然、冷めた声が聞こえた。
背筋に衝撃が走る。だが今更、言い訳はできない。
「ああ、少し走ってくる」
盗聴の心配があるので、琢磨がごまかして言うと、柴本は部屋の外に出て話をしたいという意思表示をした。
寝室の外には、盗聴器が仕掛けられていなかった。これまでもメンバー個々が、注意深く探したが、廊下には仕掛ける場所がないという結論に達していた。
外に出ると、柴本が琢磨に煙草を勧めてきた。
「すまないな」
「せめてもの餞別(せんべつ)ですよ」
二人は声を低くして笑った。
「さすが警察官だ。中野さんは度胸がある。失敗すれば、待っているのは拷問と死ですよ」
「そんなことは分かっている」
「田丸さんの顔も、つぶすことになります」
「その通りだ。あの人に申し訳ないが――」
――だからといって、恩義があるわけでもない。
琢磨は続く言葉をのみ込んだ。
「どうやって逃げ出すんです」
その問いには答えず、逆に琢磨は質問をした。
「君は通報するのか。それとも一緒に来るか」
柴本が弱々しく首を左右に振る。
「そのどちらもノーですね」
柴本は覚えたての煙草をくわえると、火をつけた。一瞬だが、とても十代には見えない冷めた顔が浮かんだ。
「あなたは命の恩人だ。だから通報などしません。だけど一緒に行くこともできません。ぼくは――」
柴本は一拍置くと続けた。
著者:伊東潤(Twitter・公式サイト)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。
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