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アンフィニッシュト 46-1

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

 ――果たして、うまくいくか。
 今になって恐怖が込み上げてきた。だが、もう後戻りできない。
「海図や磁石もありましたよ」
 いつの間にか傍らに来ていた岡田が得意げに言う。
 船内で見つけてきたらしい。
 警備艇は控えめに川波を蹴立てつつ、あたかも定時巡回のように走り始めた。
「うまいじゃないですか」
 岡田が茶化すように言う。
「ああ、四級免許を取っておいてよかった。あんたは――」
「もちろん四級ぐらいは持っていますよ。造船会社にいたんでね。その時に取らせてもらいました」
 琢磨が船首を西に向ける。
「向かうのは黄海ですね」
「ああ、本来なら日本海に出たいところだが、黄海なら四分の一ほどの距離で行けるからな」
 夜中ということもあり、大同江にほかの船舶の姿はない。だが両岸の灯りは、いつもより多く、時折、風に乗って祝宴の歓声が聞こえてくる。
 琢磨は怪しまれないように、ライトをつけて二十ノットほどの巡航速度で進んだ。
「どうやら、ここまではうまくいきましたね」
「ああ、なんとかな」
 安堵した琢磨がため息をつくと、岡田が吸っていた煙草を差し出した。
「このまま何事もなく黄海に出られれば、奴らは追ってこられないはずです」
「だが北朝鮮の領海から出るのは、容易ではないだろう」
 岡田が大同江周辺の地図を見ながら言う。
「黄海に出ても、公海に出ないことには意味がないですからね」
「それは駄洒落か」
 岡田の哄笑が、北朝鮮の夜空に吸い込まれていく。
「いったい、あんたは何者なんだ。もう俺たちは後に引けないんだ。すべてを語ってくれてもいいだろう」
「分かったよ」
岡田の口調が変わる。
「俺は公安さ」
「何だと――」
 予想もしなかった一言に、琢磨は愕然とした。
「学生として奴らの中に潜り込んだ公安は、あんた以外、大半が見破られた。そこで上の命令により、俺は労働者として造船会社に入り、同時に共産党本部の使い走りをやって、田丸に取り入ったってわけさ」
 ――そこまでして、学生運動をつぶしたかったのか。
 琢磨は日本の警察の周到さとしつこさを思い知った。
「学生だと横のつながりがあるので、すぐにばれると分かったんだ。ほら大学生だと、出身校を聞かれた時、ある程度、名の通った高校名を出さねばならないだろう。そうすると、必ずどこかに同期の卒業生がいる。それで見つかるってわけさ。だけど労働者なら、そんな心配は要らないからな」
 岡田が得意げに言う。
 ――つまり中卒なら、高校時代の知り合いがいないので、ばれにくいというわけか。
 琢磨の場合、北海道のさほど名の通っていない高校の出身とされたが、その線からばれなかったのは単なる僥倖(ぎょうこう)だったのかもしれない。
「それで、ハイジャックに参加することを希望したってわけか」
 操舵輪を握りながら、琢磨が岡田に問う。
「ああ。もちろん途中で阻止するつもりでいたんだが――」
「なぜか警察は動かなかった、というんだな」
「そうなんだ、羽田で一網打尽にできたはずなんだが。どうしたわけかやらなかった」
「俺もそう思った。どうしてだろう」
 岡田が首をかしげる。
「おそらく、方針が変わったんだろう」
「方針だと」
「ああ、何らかの理由で、羽田で取り押さえるのをやめたのさ」
「連絡ミスや何かの手違いではないのか」
「よせやい。乗客の命が懸かっているんだ。警察はそんなミスをしない」
「では、どうして、あんなことになったんだ」
「俺にもよく分からないが、何らかの圧力が上から掛かったのかもしれない」
 琢磨には何のことだか分からない。
「圧力とは何だ」
「政治家の圧力だよ」
「待てよ。どういうことだ」
「ここに来てから時間があったんで、俺もいろいろと考えていたんだがな――」
 岡田が首をひねりながら言う。
「われわれを北朝鮮に行かせることに、特定の政治家が、何らかのメリットを感じたのかもしれない」
「誰が、何のために。それは乗客の命を懸けるほどの価値があるものなのか」
「問題はそこだ。下手をすると、乗客も北朝鮮に連れていかれる。少なくとも乗務員はそうなる。何らかのメリットがあっても、そんな危険を冒す価値があるのか」
「その通りだ。下手をすると撃ち落とされていたかもしれないんだからな」
「だが、たとえそうなっても、事実は闇から闇に葬られる。つまり、圧力を掛けた政治家は無傷というわけだ」
「どうしてだ」
「政治家が圧力を掛けるとしたらどこだ」
「公安か」
「そうさ。公安なら口が堅い。どのような結果になろうと、政治家に累が及ばない構造になっているのさ」

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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