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アンフィニッシュト6-1

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 演説を終えた男が一礼し、椅子と机で造られた壇上から下りると、拍手が起こった。

 仲間たちの中でも男は別格であるらしく、メガホンを別の者に託した後も、周囲の者たちから拍手で迎えられている。

 その長髪の闘士が赤城壮一郎であることを、琢磨は写真やテレビを見て知っていた。

 ――あの男に気に入られ、内部に入り込まねばならないのか。

 赤城がタテカンの後ろに消えると、別の者が出てきて、集会の日時や場所を告げている。

 テレビでも、しばしば取り上げられる赤城が出てきたためか、いつしか周囲は黒山の人だかりとなっていた。

 琢磨は、赤城の人となりに強い関心を持った。

 ――生まれついての闘士とは、あの男のことを言うのだな。

 その一挙手一投足には、何かに抗い、何かを壊そうとする闘士の本能が横溢(おういつ)していた。

「お願いします」

 背後から女性の声がした。

「またか」と思いつつ、琢磨が振り向く。

「お願いします」

 その女性は、ガリ版刷りのビラを差し出していた。

 まず、その差し出されたものに目が行った。条件反射として当然だろう。だが、そこに朱字で書き連ねられた空疎な言葉よりも、琢磨の視線は、その指先に吸い寄せられた。それは細い上に長く、透き通るように白かった。その切りそろえられた爪は、日光を反射して真珠のように輝いている。

 最初の衝撃から立ち直ると、琢磨の視線は、その薄青色のワンピースの袖をたどり、行き着くべき場所にたどり着いた。

 ――こいつはまいった。

 それは、学生運動をしている女性のものとは到底、思えないものだった。

 やや面長で目鼻立ちがくっきりとした顔は、日本人には珍しく、その微笑は、中世ヨーロッパの絵画にあるような気品に溢れていた。

 その少し大ぶりなイヤリングからは、この女性の自信が感じられた。

 ――イングリッド・バーグマンに似ている。

 それが琢磨の第一印象だった。実際はさほど似ていないのだが、その醸し出す知的な雰囲気が、バーグマンを連想させるのだ。

「よろしかったら、どうぞ」

 笑みを浮かべた口からこぼれるその歯は、完璧な配列を成しており、透き通るほど白い。

 身長は165センチメートルほどで、ワンレンの長髪が風になびいている。

 ――いかん、これは仕事だ。

 琢磨は一瞬でも、われを忘れてしまったことを恥じた。

 ――これは命懸けなんだ。心に隙を作った時、死は訪れる。

 警察学校への入校が決まった時、父から聞かされた言葉が思い出される。

「警察官には誘惑が多い。金、酒、女によって身を持ち崩した奴を、俺は何人となく見てきた。とくに女には注意しろ」

 よくぶつかり合った父だが、そのだみ声で聞かされた言葉の多くが、今となってはありがたい。

「もらっていただけますか」

 その女性は小首を傾けて微笑んでいた。それは自分の美しさを知る者の笑みだった。

「あっ、はい」

 ビラを受け取った琢磨は、即座に目を落とし、ビラに書かれた空疎な言葉を見ようでもなく見た。そのぎこちない動作が面白かったのか、女性は「うふふ」と控えめな笑い声を上げた。

「学生運動に、関心がおありのようですね」

「いえ、それほどは――」

 どっちつかずの気持ちを表すには、上出来の答えだと思う。

「全くないということではありませんよね」

「ええ、まあ」

 その時、ようやく冷静な気持ちで女性の顔を見たが、染み一つない白い肌に薄く塗られた化粧はなじんでおり、控えめな口紅の色と共に、この女性の繊細な心配りを感じさせた。

「それなら話を聞きに来ませんか」

 見るともなく見ていたビラの中身は、新入生向けの説明会についてである。

「ぼくは田舎から出てきたばかりで、何も知らないんです」

「あら、どちらから」

「北海道です」

「えっ、北海道ですか。素晴らしい故郷をお持ちですね」

 花が咲いたように顔全体に笑みが広がり、うっすらと漂う石鹼の匂いが鼻腔をくすぐる。

「はい。よいところですよ」

 だが女性は、北海道の話を聞きたいわけではないらしく、すぐに言葉をかぶせてきた。

「私も、初めは何も知りませんでした。でも話を聞いているうちに、『自分もやらなきゃ』と思ったんです」

 女性は「やらなきゃ」というところで、両拳を固めて走る仕草をした。それがやけに可愛い。

「そ、そういうものですか」

 琢磨は本心からどぎまぎしているのか、潜入捜査官として演技しているのか分からなくなっていた。

「そういうものです。われわれのやっていることは、世間で過激派などと言われて、恐ろしい者の集まりのように思われていますが、実際は違います。ただ、われわれは世の中をよくしたいんです」

 そこで「私たち」と言わず、「われわれ」と言ってしまうところに、赤城たちの洗脳の欠片が感じられる。

「世の中をよくしたいのですか」

「そうです。われわれは無力ではありません。一人ひとりが自覚を持つことで、世の中はもっとよくなります」

「こんな世の中が、本当によくなりますかね」

「よくなります。集会に来ていただければ、きっと分かります。是非、いらして下さい」

 女性が一瞬、媚びるように琢磨を見た。その切れ長の目に浮かんだ蠱惑的な眼差しは、清楚さの裏に隠された性的魅力を感じさせる。

「集会ですか」

「はい。そこで、またお会いできるのを楽しみにしています」

 思わせぶりな笑みを残し、女性は捕食動物のように次の獲物に移っていった。

 ――それが殺し文句か。

 少しずつ冷静さを取り戻した琢磨は、統学連の巧みな勧誘手法に舌を巻いた。正面で演説に熟達した者が新入生の参画意識を高め、背後から魅力的な女性が、「あなただけよ」とウインクする。うぶな若者なら、容易に引っ掛かってしまうだろう。

 ――しかし、その手法は彼女あってのものだ。

 琢磨に話しかけた女性以外は、どう贔屓目に見ても十人並みで、到底、ノンポリの新入生を集会に誘えるようには思えない。

 気づくと琢磨は、無意識に先ほどの女性を探していた。

 ――いた。

 薄青のワンピースの女性は、いつの間にか三人ほどの新入生に語りかけていた。新入生の方も複数のためか、琢磨のようにどぎまぎなどしておらず、一緒に笑い合っている。

 胸底から嫉妬心がわき上がってくる。

 ――こいつはいかん。

 琢磨は己を取り戻そうとした。

 ――俺は警察官だ。ここには仕事で来ている。

 しかし若い男として、美しい女性に興味がないわけがなく、しかも童貞なので、女性に対する憧憬は人一倍強い。

 ――冷静になれ。仕事を忘れるな。俺はプロじゃないか。

 警察官としての自覚が頭をもたげる。

 先ほどの女性は、三人の男に片手を上げて「じゃあね」という仕草をすると、次の獲物に向かって歩み去った。どうやら誰彼構わず話しかけているわけではなく、こうした運動に加わりそうな新入生を物色しているようだ。

 ――まあ、鴨に見られたのなら、よしとしなければ。

 すっかり警察官に戻った琢磨は、これから始まるであろう仕事に気を引き締めた。

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