アンフィニッシュト5-2
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「やらせていただきます」
こうした時は前向きに引き受けた方が、印象がはるかによくなることくらい、琢磨も知っている。それがどのようなものでも、任務を命じられた時は「喜んでやらせていただく」という態度を取るよう、祖父や父からも教えられてきた。
「もちろん潜入の意味は分かっているな」
横山が険しい声音で問う。
「はい。生活からすべて、潜入者になりきることです」
「その通り。つまり明日から君は、警察の人事記録から抹消され、職場に出てこなくてもよいことになる」
警察官たちは、警察署のことを冗談めかして職場とか会社と呼ぶ。
「君が大学生になる支度は、すでに整っている。後は、君自身がどれだけ学生になりきれるかだ」
「はい。大丈夫です」
「頼もしいな」
笠原は笑みを浮かべたが、横山は真顔のまま続けた。
「連絡手段は逐次、伝える。アジトができるまでは、他大学の学生を装った者と本の貸し借りをするように見せかけ、その中に水溶紙の手紙を挟むという方法を取る」
「分かりました」
「なぜ水溶紙なのかは分かるな」
「はい」
連絡メモが学生活動家に渡らないように、いざという時には、それをのみ込むのだ。
「住む場所や新たな氏名などは、こちらに書いてある」
横山が、先ほど持ってきた分厚い書類綴じを渡してきた。
「このファイルは、こちらで閲覧するだけで門外不出だ。明日までに、すべて頭に叩き込んでおけ」
「明日までにですか」
「当たり前だ」
横山が間髪入れずに言う。
その分厚さに琢磨は驚いたが、警視庁のエリートなら、「明日までに、これを読んでおけ」と言われてドイツ語の原書を渡されることもある。それを考えれば、日本語で書かれたものを渡されただけでも感謝せねばならない。
「何か質問はあるか」
「潜入する大学はどこですか」
「ああ、大事なことを忘れていたな」
横山がにやりとして言った。
「横浜市中区の雄志院大学だ」
「あのおしゃれな大学ですか」
琢磨にとって雄志院大学とは、明るいキャンパスとファッションセンスのいい服を着た女子大生が多いというイメージがあった。
「そうだ。あの大学でさえ、今年はバリケード封鎖のまま越年した」
横山の言葉を笠原が補足する。
「そんな大学は全国に三十余あり、決して珍しくはないが、まさか雄志院がするとは思わなかった。それでだ――」
笠原が見慣れない煙草を取り出した。ラベルには英語で「Seven Stars」と書かれている。
「この大学が次なる闘争の台風の目になると、われわれは見ている」
雄志院大学は明治時代にできた名門私学で、その入学難易度は、早慶上智に次ぐと言われている。学生運動はさほど盛んではなかったが、一千以上の学生活動家を抱えるマルクス共産主義学生連合、通称マル共系のセクトの一つで、極左と目される統一学生連合という団体が、拠点作りを始めたという。
「ということは、統学連に入れと――」
「そういうことになる」
横山に代わって笠原が険しい顔で告げた。
「雄志院大学における統学連の活動の芽を事前に摘み取る。それが君に課された使命だ」
「分かりました」
「とくにトップに気に入られてほしいんだ」
「トップ――」
「統学連のリーダー、赤城壮一郎だ」
赤城壮一郎とは「学生運動のレーニン」とまで謳われる指導者で、このところ学生の代表のように、左がかったマスコミからもてはやされている人物である。
「分かりました。やってみます」
「三橋君――」
笠原の声音が突然、険しくなる。
「やってみますとは何だ。中途半端な気持ちでやると命にかかわる。やるとなったら命を懸けてやる。それが警察官というものだ」
「はっ、はい」
この仕事が中途半端な気持ちでは取り組めないものだと、琢磨は覚った。
――何としても入り込んでやる。
琢磨の胸底から熱いものが込み上げてきた。それこそは、三代続いた警察官としての血なのかもしれない。
五
「ベトナム戦争反対!」「米軍は出ていけ」「日米安保条約自動延長阻止」などと大書されたタテカンを四囲にめぐらせた中央で、長髪の男がハンドメガホン片手に、何事かを語りかけている。
「われわれは大学と交渉を続けてきた。しかし大学側は、かつての帝国主義に彩られた伝統を引き継ぎ、国家側と結託し、その権力を笠に着て、われわれに対して一方的に命令する。大学の自治は、もはや幻想にすぎず、われわれにあるのは、アウシュビッツのユダヤ人と何ら変わらぬ拘束である。大学は権力の末端を担う岡っ引にすぎず――」
そこで笑いが巻き起こった。岡っ引とは江戸時代、奉行所の末端を担った非正規雇用の警察官のことである。
――さすがだな。
真面目一辺倒では聞いている方も疲れる。それを知る演説巧者は、こうしたちょっとした冗談を織り交ぜる。それまで真面目に話していた分、その効果は絶大で、大きな笑いが巻き起こる。
「われわれは、こうした権力の代行機関と正面から対峙し、人民の権利を主張していかねばならない。そして、それを国民運動へと波及させ、最終的には米軍の横暴を阻止し、ベトナムの人々を救うことにつなげていくのだ。われわれの運動は、君たち一人ひとりの参画に懸かっている。君たちの思いや行動が、このおぞましい世の中を変えていくのだ。ぜひこの運動に参加し、共に新しい日本を創っていこうではないか」
ハンドメガホンの音は割れていたが、男の話す内容は、さすがに新入生向けだけあって簡便かつ明快で、誰にでも理解できるものだった。
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