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アンフィニッシュト 41-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

騒動が一段落したところで、田丸が立ち上がった。
「柴本の言う通りだ。主体思想は唯一絶対のものであり、無条件に従うべきものだ」
「あんたは間違っている!」
 背後から中田に羽交い絞めにされながら、吉本が喚(わめ)く。
 ――ここで何か言った方が得策だな。
 琢磨も「よき生徒」として、主体思想を積極的に学ぶ姿勢を示してきた。それをこの場でさらに印象付ければ、皆の信頼を勝ち取れる。
 即座にそれを計算した琢磨は大声で言った。
「吉本さんは間違っている!」
「何だと!」
「主体思想こそ、唯一無二の人民の政治思想です。ぼくはここに来て、それを学び、その素晴らしさを知った。われわれは首領様のご厚意によって生まれ変わったのです」
「ふふふ」
 誰かの笑い声がした。
「何を浮わついたことを言ってやがる。それは本心じゃないだろう」
 中田である。
「いいえ、本心からの言葉です。ぼくは本気で主体思想を学び、首領様と一緒に世界を共産化していきたいんです」
「いい加減にしろ!」
 中田が机を叩く。
「お前は、そうした口から出まかせを平気で並べるから虫が好かんのだ!」
「どうして出まかせだと思うんですか」
 岡田が横槍を入れてくれた。
「いいか、俺がやってきた空手という競技は、相手の繰り出す技を事前に察知しなければ勝てないんだ。俺は勘がいいので、相手の次の手を察知して敵を倒してきた」
 確かに中田は、いくつもの空手大会で優勝したと聞いたことがある。
 ――何てことだ。
 中田が、理屈よりも自分の勘に従って行動する人間だというのは気づいていたが、そこまで自信を持っているとは思わなかった。
「お前だけは皆とは違う臭いを持っている。お前は、いったい何者なんだ」
「そんなことを言うなんて、中野さんに失礼じゃないですか」
 岡田が琢磨を弁護する。
「何だと、このチビ!」
 立ち上がった中田が岡田の胸倉を摑もうとした。だが一瞬早く、岡田は中田の手首を摑んだ。
「放せ!」
「空手の達人なら、こんなチビに手首を摑まれても、放せるんじゃないですか」
 中田は腕を引こうとするが、微動だにしない。
「お前は――、お前は合気道か何かをやっていたのか!」
「やっていませんよ。ただ毎日、肉体労働をしていただけです。これが、あんたらの知らない肉体労働者の力というものなんです」
 中田の表情が驚きから恐怖に代わる。
「この野郎、放せ!」
 中田が身悶えするが、岡田は手首を摑んで放さない。
 ――岡田は侮れない。
 これまでも幾度となくそう思ってきたが、小柄でいつもにこにこしているこの男が、中田よりも、はるかに不気味なものに思えてきた。
「もういい! 二人ともいい加減にしろ!」
 田丸が二人を離す。
「吉本同志」
 吉本は横を向いて憤然としている。
「君の意見は主体思想を歪曲(わいきょく)するものだ」
「田丸さん、本当の気持ちを言ってくれ。あんたも、主体思想が間違っていると思っているのだろう」
 田丸に代わって大西が言う。
「吉本同志は、田丸同志の主体思想解釈が間違っているという言い方で、主体思想そのものを批判した。それは偉大なる金日成同志を批判したと同じことだ」
「何を――、何を言っているんだ」
 安西も同調する
「吉本同志の主体思想解釈は、労働者階級の利益に反するものである」
「貴様もか。この日和見主義者め!」
 吉本は、仲のよかった安西が裏切ったことにショックを受けたようだ。
「中田君、彼をどこかの部屋に連れていき、頭を冷やさせろ」
「来るんだ!」
 中田が羽交い絞めを解くと、吉本が中田の手を払った。
「もういい。自分の部屋に戻る。それならいいだろう」
そう言うと吉本は、自分の宿舎に戻っていった。
 田丸が首を左右に振るのを見て、中田が追うのをやめた。
 この日はそれで終わったが、その後も吉本は荒れた。ある日の「週総括」では、主体思想を受け入れられないとまで言った。それに影響されたのか、青木や若山も、次第に吉本の考え方に同調するようになっていった。
 味方が増えて調子に乗った吉本は、あからさまに主体思想を批判するようになり、メンバー内には、殺伐とした空気が漂い始めていた。
メンバーは田丸、柴本、中田、安西、琢磨の迎合派と、吉本、青木、若山の反対派に分裂し始めていた。大西と岡田は中立の立場で、議論が激しくなった時など仲裁に回るようになった。どうやら大西は、そうした役回りを演じることを田丸に言い含められているらしい。
 次第に吉本は、盗聴を気にすることなく、北朝鮮政府を批判するようになってきた。 
皆、招待所での集団生活に嫌気が差し始めていた。気持ちはすさみ、仲が悪い者どうしは口を利かなくなるほどだった。遂には双方が、中立派の岡田を個人攻撃するようになり、それを琢磨が庇(かば)うという一幕もあった。
 それでもユーチョルら指導員は沈黙を守り、反対派の中には「盗聴なんてされていないんじゃないか」と言い出す者もいた。
 次第に誰もが北朝鮮政府をなめるようになり、遠慮なく声高に自分の意見を述べるようになった。
 吉本に至っては「後進国」「正統性のない国家」「共産主義の産んだ継子(ままこ)」などと平気で言うようになり、さすがに大西にたしなめられることも多くなった。
 田丸はリーダーとしての自信を喪失し、ふさぎ込むことが多くなっていた。彼は腕力があるわけではなく、その活動経歴からリーダーになっただけで、優れたリーダーシップを発揮できるタイプでもなかった。
 そんなある日の真夜中に事件は起こった。
 琢磨が眠っていると、外の騒がしさで目が覚めた。
「どうしたんですかね」
 柴本は、すでに起き上がって窓の外を見ている。
 車のヘッドライトが柴本の顔を照らす。
「誰か来たのか」
 煙草を探しながら琢磨が問うと、喚き声が聞こえた。
「あれは、吉本さんじゃないですか!」
「何だと」
 琢磨が窓際に駆け付けると、ヘッドライトの中、寝巻姿の吉本が兵士に腕を摑まれていた。それを制止しようとした同室の若山は、その場に倒され、兵士に背を踏み付けられている。
「行こう!」と言って琢磨が飛び出すと、柴本も続いた。
 外に出ると、すでにどの宿舎にも灯りがつき、みんなが何事かと集まってきた。
「嫌だ! 放せ!」
 吉本の絶叫が夜の闇をつんざく。
 ――連れていかれるのか!
 琢磨は何が起こっているのか即座に理解すると、外に向かって走り出した。

著者:伊東潤(Twitter・公式サイト)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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