見出し画像

アンフィニッシュト 45-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「田丸さんを裏切れない」
 ――裏切れないのは、田丸ではなく北朝鮮政府だろう。
 その言葉を琢磨はのみ込んだ。
 今は命の恩人というか細い線でつながっているが、日が経てば経つほど、柴本の洗脳が進むのは必然である。
――行動を起こすのがもう少し遅かったら、俺は間違いなく通報される。
領導芸術という悪魔の洗脳技術は、人の精神を根底から変容させるほどの力がある。
――ここは、さっさと行くに越したことはない。
琢磨の本能がそれを示唆した。
「俺と一緒に来ないなら、これが永の別れになる。元気で暮らせよ」
 それだけ言うと、琢磨は柴本の持つ灰皿で吸殻をもみ消した。
「中野さん、うまく行くはずがありません。やめるなら今です」
「いや、やるなら今だ」
 琢磨はその場を後にした。最後に一瞬、柴本の方を見たが、柴本は俯いて煙草をふかしていた。
 ――柴本は迷っているのだ。もしかしたら通報されるかもしれない。
 そうなれば、たとえ警備艇を奪うことができても、大同江の真ん中で御用となる。
 ――それでもやるのか。
 むろん答えは一つだった。 

晩春とはいえ、北朝鮮の夜は冷える。琢磨は動きやすさを考え、黒いトレーニングウエアを着ているだけなので、寒さが身に染みる。
――この寒さとも今日でおさらばだ。
だが一つ間違えば、おさらばどころか、死が訪れる瞬間まで一緒にいなければならない。
どうやら、祝宴の片づけをしていた従業員たちも寝静まったようだ。それでも琢磨は音を立てないように注意しながら、藪をかき分けて小丘の頂に出た。
宿舎の裏手から小丘を越えると、大同江が見える。船着場には警備艇が一艘停泊し、船首と船尾にわずかの灯りがついていた。
慎重に警備艇に近づいていくと、話し声が聞こえてきた。川の中心に向けられた船尾のデッキに集まり、雑談をしているようだ。
声を聞き分けていると、会話をしているのが二人だと分かった。
 ――残る一人は、どこかで仮眠を取っているに違いない。
 胸の鼓動が大きくなる。
 ――待つのだ。必ず一人ひとりになる。
 それから少しして、一人が桟橋に下りてきた。どうやら小用を足すらしい。
 もう一人は定時連絡でもするのか、船室の灯りをつけた。
 河畔まで下りてきた兵士は、暗がりを探して小用を始めた。ライフル銃は置いてきたらしい。
 ――今しかない。
 琢磨は抜き足差し足で、小用を足す男の背後に近づいた。
 ――どうする。
 最後の最後で迷いが生じた。
 ――ここで死ぬことになるかもしれないが、それでも一生ここにいるよりはましだ!
 小用が終わった次の瞬間、琢磨は背後から兵士に飛び掛かった。突然のことに男はもがくが、琢磨は首に回した手を緩めず、ほんの三十秒ほどで落とした。
 その時、その誰かの名らしきものを呼ぶ声が聞こえてきた。船室に入っていった兵士が、小用を足しに行ったもう一人の兵士を呼んでいるに違いない。
 琢磨が船の陰に隠れると、その兵士が近づいてきた。
 次の瞬間、倒れている同僚に気づいたのか、名を呼びながら駆け寄ってきた。
 兵士はしゃがみ、同僚を揺り起こそうとしている。
 その背後から琢磨が襲い掛かった。
「うぐっ、うう」
 締め技で二人目も気を失わせた。
 ――これでよし。
 琢磨が、ナップザックに入れているロープと猿轡を取り出そうとした時である。
「手を挙げろ」
 背後から朝鮮語で声を掛けられた。
 ――しまった!
 ゆっくりと振り向くと、三メートルほど先に兵士が立っていた。その手には小銃がしっかりと握られている。傍らに落ちている包みは、おそらく三人分の夜食だろう。
 琢磨は、自分の人生が終わったことを知った。
 だが次の瞬間、兵士の顔色が変わった。小銃を手から落とすと、首に手を掛けてもがいている。
 ――どういうことだ!
 兵士は後方に倒され、足をばたつかせながら引きずられていく。
 やがて、わずかに見えていた軍靴の動きが止んだ。
 われに返った琢磨が慌てて小銃を拾うと、暗がりから人影が現れた。
「どうか撃たないで下さいよ」
 独特の嗄れた笑い声が聞こえる。
「ま、まさか、君は――」
 暗がりから現れたのは岡田金太郎だった。岡田は、いつものように顔をくしゃくしゃにして笑っている。
「これはいったい――、どういうことだ」
「話は後です。すぐに逃げましょう。警備艇のエンジンをかけておいて下さい。その間に、兵士たちを始末しておきます」
「殺すのか」
「殺さないと、すぐに見つかりますよ」
「殺すな。これで何とかしてくれ」
 琢磨が用意してきたロープと猿轡(さるぐつわ)を渡した。ロープを入手するのは極めて難しかったが、訓練用の備品を入れている倉庫から失敬してきたのだ。
「三橋さんは、本当に人がいいんだな」
 岡田が呆れたように頭をかく。
 ――今、俺の本当の名を呼んだのか。
 琢磨は驚きで言葉もない。
「とにかく話は後にしましょう」
 岡田の言葉にうなずいた琢磨は、操舵室に入るとエンジンキーを回した。緊急の出動に備えてか、キーが差したままになっていたのは幸いだった。
 ブルルという音がしてエンジンが動き出した。
 ――燃料はどうだ。
 燃料計は、ほぼ満タンになっている。
 ――これなら逃げられる。
 琢磨が計器を点検していると、岡田が戻ってきた。
「片付けてきましたよ。念のため、こいつを持ってきました」
 岡田が二着の軍服を示す。
「念の入ったことだ」
「それで、船は動かせそうですか」
「なんとかな。もやいを解いてきてくれ」
 後尾に消えた岡田から、すぐに「OK」という声が返ってきた。
 いまだ宿泊所は寝静まっており、警備艇のことを気に掛ける者はいない。
 ――今夜は特別な夜だから、緊急出動しても怪しまれないはずだ。
 琢磨はギヤをLowに入れると操舵輪を操り、ゆっくりと桟橋を離れた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。よろしければ、Twitterでも「#アンフィニッシュト」で、ぜひ感想をつぶやいてください。いただいたメッセージは、すべて読ませていただきます。サポートも歓迎です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?