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覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子ープロローグ①

──雨、か。
 突然、大地を叩く雨音が迫ってきた。黒々とした雲の中から、腹底に響くような雷鳴も聞こえる。
 ──まさか、仏は怒っているのか。
大極殿の前庭には屋根がないため、そこに整列する武官や史(文官)たちの体も濡れ始めた。
 誰もが不安そうに空を見上げ、小声で何事か話し合っている。海を渡ってきた三韓(高句麗・百済・新羅)の使者たちもそれは同じで、恨めしそうに空を眺めている。
 遠方に目をやると、甘樫丘はかろうじて見えているが、その右手にあるはずの耳成山と香具山は、霧に閉ざされて山麓しか見えない。
 ──果たしてうまくいくのか。
 不安が頭をもたげてきた。長槍を持つ手が震え、頭巾から垂れる雨が視界を遮る。そうしたことが、さらに不安を募らせる。
 足を滑らせて転倒し、武官たちに取り押さえられる己の姿が頭をよぎる。
 ──やはり、やめよう。
 その時、中臣鎌足の言葉が脳裏によみがえった。
「入鹿は厩戸王子を父とする山背大兄王さえも滅ぼしたのです。蘇我氏の血縁に連なっていないあなた様を殺すことに、何の躊躇がありましょう」
 そして鎌足はこう続けた。
「殺らなければ、殺られるだけです」
中大兄王子は、自らの心に芽生えつつある不安や怯懦を捻じ伏せるべく、蘇我入鹿への憎悪をかき立てようとした。

──入鹿よ、そなたは飛鳥宮を見下ろす甘樫丘に巨大な邸を築き、大王(後の天皇)とその一族にしか許されない「八佾の舞」を舞わせて祖先の祭祀を行った。また大王だけが使役できる部曲を無断で徴用し、「今来の双墓」を造営した。これらが謀反の証しでなくて何であろう。
「八佾の舞」とは、大王の一族にだけ許された古代中国の雅楽の編成で、「今来の双墓」とは、蝦夷と入鹿が造営した生前墓のことだ。
 ──しかしそうしたことは、些細なことにすぎない。
 入鹿の最大の罪は、厩戸王子の血脈を受け継ぐ山背大兄王の一族を滅ぼしたことにある。
 ──これぞ臣下にあるまじき行為!
 中大兄は大きく息を吸うと、共に大極殿の脇殿の陰に隠れる佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を見た。二人は韓人の衣装を着けており、手にしている長剣は、韓人の朝貢品の中に隠しておいたものだ。

──鎌足はどこにいる。
 儀式が始まるや、鎌足は配下の者たちを使い、飛鳥宮の十二の門すべてを閉ざす予定になっていた。おそらく手抜かりはないのだろうが、鎌足の姿が見えないだけで不安になる。
 瓦で葺かれた大極殿の屋根を、激しく雨が叩く。それでほかの物音がかき消されることに、中大兄は気づいた。
 ──足音が消せるなら、警固の武官たちが気づくのも遅れる。やはり、やるべきだ。
 決意が次第に凝固してくる。
 やがて十人ほどの群臣を従えた大臣の蘇我入鹿が姿を現した。
 群臣とは、大夫(政府高官)や国造(豪族)たちのことを言う。
 ──何と憎々しい姿か。

入鹿は紫冠をかぶり、紫色の朝服を着て、手には笏を持っている。腰の上に回した長紐は鮮やかな朱色で、紫主体の装束を引き締めている。

紫冠は冠位十二階で定められた五冠を超越したもので、蘇我氏の族長位にある者だけがかぶれることになっている。蘇我氏だけが群臣の中で特別な存在だということを、強く主張するために設けられたものだ。
傲慢さをあらわにして周囲を睥睨した入鹿は、すでに整列している三韓の使者たちに軽く目礼し、いかにも恭しく歩を進めた。雨をものともしないその悠然とした姿は、この国の実質的支配者が誰かを、三韓の使者たちに知らしめようとしているかのようだ。

その時、俳優と呼ばれる道化役を兼ねる案内役が現れ、入鹿に二言、三言、話しかけた。
 この俳優には鎌足の息が掛かっており、「三韓の使者が無剣で儀式を行うことを望んでいる」と告げているはずだ。しかし入鹿は首を左右に振り、腰に手を当てて拒否の姿勢を示した。これまでは儀式で帯剣を外すことなどなかったので、そうした異例を嫌っているに違いない。
 しかし入鹿の背後にいる蘇我倉山田石川麻呂は帯剣を外し、俳優に手渡した。

入鹿が石川麻呂に何か問うと、石川麻呂が答えている。おそらく「三韓では儀式で帯剣を外すことが多いと聞きます。此度は三韓の使者を迎えた大事な儀式なので、かの者たちの望みを容れましょう」と言っているのだろう。
 石川麻呂は入鹿の従兄弟にあたり、一族の重鎮として入鹿からも一目置かれていた。だが石川麻呂は蘇我氏の族長の座に就きたいという野望を持ち、鎌足の誘いに一も二もなく乗ってきた。
 ──外せ。外してくれ。
 中大兄は心から念じた。

石川麻呂が背後に向かって何か言うと、付き従ってきた者たちも帯剣を外して俳優に渡している。それを見ていた入鹿は、致し方なさそうに帯剣に手を掛けた。

それでも躊躇していると、俳優が何か戯れ言を言った。それが入鹿の緊張を解いたのか、笑みを浮かべて帯に手を掛けると、止め紐を解いて帯剣を外した。
 ──これでよい!
 中大兄は心中、快哉を叫んだ。
 自邸内で寝ている時でさえ、剣を肌身離さず持っていると噂される入鹿である。渡来人から剣の稽古をつけてもらっているとも聞く。そんな入鹿を討つには、まずその剣を奪う必要があった。そのために練りに練った秘策がこれなのだ。
 入鹿が俳優に帯剣を渡す。それを確かめた中大兄は、額から垂れる雨混じりの汗を拭い、再び入鹿の動きを注視した。

プロローグ②に続く


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蘇我馬子は実は傑物だった? 日本最古の“悪役”の素顔を歴史作家・伊東潤が語る


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歴史愛好家たちが語る 「日本を造った男」蘇我馬子の魅力とは?【後編】


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