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柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】 【歴史奉行通信】第八十七号

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こんばんは。伊東潤です。
今夜も、歴史奉行通信 第八十七号をお届けします。

〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】
ー本能寺の変から清須会議直前まで

3. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】
ー清須会議 / 柴田勝家という男

4. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】
ー勝家が留守の間の北陸戦線 / 信長の葬儀から長浜城包囲

5. おわりに / Q&Aコーナー / 感想のお願い

6. お知らせ奉行通信
新刊情報 / 読書会情報 / Voicy・ラジオ出演情報


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1. はじめに

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旧暦の四月十九~二十日、北近江で天下の帰趨を決定する大合戦が行われました。
羽柴秀吉と柴田勝家の間で戦われた賤ケ岳の戦いです。

この戦いは柴田方が滅亡したこともあり、敗者の記録は全くと言っていいほど残っていません。
残っているのは羽柴方の記録ばかりで、とくに賎ヶ岳の戦いと言えば、「賤ケ岳の七本槍」という若武者たちの出世譚ばかりが取り上げられます。

しかし『柴田合戦記』や『佐久間軍記』といった敗者側の二次史料を含めた記録を丹念に紐解いていくと、この合戦の実像が浮かび上がってきます。
今回は「柴田勝家と賤ケ岳の戦い(前編)」として、この合戦についての論考を掲載したいと思います。

この論考は、2020年の「お城EXPO」で、参加者にお配りしたレジュメの短縮版になります。
なお一次史料重視は十分に分かりますが、
記録が乏しいので合戦の全容を再構成するためには二次史料の使用もやむを得ないので、
そこのところは、ご理解下さい。


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2. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】
ー本能寺の変から清須会議直前まで

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■本能寺の変から清須会議直前まで

天正十年(一五八二)六月二日、本能寺で信長が横死した後、
山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を倒し、信長亡き後の織田家の主導権を握った。
しかし各地に展開する織田軍団は健在で、家臣たちによる主導権争いが始まる。

織田家の各方面軍は、北陸が柴田勝家、関東が滝川一益、中国が羽柴秀吉、四国が神戸信孝(信長三男)、
伊勢・伊賀方面に北畠信雄(信長次男)といった布陣だ。
彼らの誰が明智光秀を倒すかで、新たな権力構造が構築されていくことになる。

信長が本能寺で倒れた六月二日、柴田勝家率いる北陸方面軍は上杉景勝の魚津城を攻撃中で、翌日には落城に追い込んだ。
だがその日の夜、本能寺の変の一報が届く。

翌四日、勝家は本拠の越前北庄城へと戻り、明智光秀討伐の兵を挙げた。
しかし勝家らが北国街道を南下して余湖北端辺りに達した十六日、羽柴秀吉によって光秀が討ち取られたという一報が入る。
致し方なく勝家は、その足で清須城に向かい、今後の方策を練るべく織田家の重臣たちを招集する。

さて、しばしばここで話が出るのは羽柴勢の迅速さと柴田勢の鈍重さだが、
秀吉がいた備中高松から京都までは235km、勝家がいた越中魚津から京都までは310km。つまり距離は1.3倍強も勝家が不利になる。
さらに比較的整備されていた西国街道を東上して京都に戻る羽柴勢二万強と、
アップダウンの激しい山岳地帯を通る北国街道を南下する柴田勢二万弱では、条件に違いがありすぎる。
とくに補給面では、山岳地帯を四苦八苦しながら兵糧を運ぶ荷駄隊の負担は、想像を絶するものがある。

それだけではない。羽柴勢は備中高松城で毛利方と和睦した上で引き揚げてくるのに対し、
本能寺の変当日に魚津城を攻略した柴田勢は、上杉方と和睦のしようがなく、後方を警戒しながら南下せねばならなかった。
この差は大きく、一日違いで魚津城を落としてしまったがゆえに、行き足を鈍らさざるを得ないという勝家の運のなさが際立つ。

しかも途次に、神戸信孝・丹羽長秀勢一万四千や池田恒興、中川清秀、高山右近、加藤光泰、木村重茲ら
摂津衆および近隣諸将一万と合流できる羽柴勢は、行軍に疲れても彼らを先手に使えるので(現にそうした)、
明智勢との戦いを有利に運べる公算が高い。
それにひきかえ柴田勢は、下手に畿内に突入すれば、山越えで疲弊したところを返り討ちに遭うリスクがある。
つまり柴田勢は慎重に事を運ばねばならなかった。


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3. 柴田勝家と賤ケ岳の戦い【前編】
ー清須会議 / 柴田勝家という男

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■清須会議

二十七日、清須城において織田家中の四宿老(羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興)による重大な会議が行われた。
世に言う清須会議である。
この会議は織田家の家督と遺領(主に信忠の領国)や闕所(光秀と光秀与党の領国)の配分が主な議題だった。

実は最新研究により、家督については織田家嫡流の三法師が継ぐのは既定路線であり、
問題は名代を信雄と信孝のどちらにするかだったと判明した。
結論として政務の執行は四宿老が担当し、三法師の傅役には堀秀政が就き、名代は空席となった。

続いて遺領や闕所の配分が行われ、加増分について信雄は尾張一国、信孝は美濃一国、勝家は近江三郡(長浜城を含む)、長秀は近江二郡と決まる。
また秀吉は山城・丹波両国と河内の一部を獲得し、勝家に与えた近江三郡を手放している。

秀吉が光秀を討伐したことから、秀吉の取り分が大きいのは当然だが、
勝家にとって、日本の中枢部を秀吉に押さえられたことは実に痛かった。

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