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アートは主観的である。

先日、車を運転していた時にSpotifyからある曲が流れてきた。
イントロは日曜日の晴れた朝、窓を開けて聴きたくなるような心地良いメロディーから始まり、軽快なリズムが入ってくる。一瞬でいい曲だ、好きだなって思った。

その声は宇多田ヒカルだった。彼女の新しいアルバムの一曲「BADモード」

彼女の曲はいつの時代も色褪せることなく、常に時代を先駆けているように感じる。メロディーやリズムだけじゃなく、彼女が歌詞に用いる言葉は特に魅力に溢れ、それも宇多田ヒカルというアーティストのセンスや才能だと思う。

信号待ちでふと画面に目をやると一瞬目を奪われた。
彼女のアルバムジャケットが何とも言えなかった。

コロナ禍の自宅で撮られたのだろうか。ラフな家着のような上下のスウェットを着て廊下の壁にもたれかかっていて、彼女の横を通り過ぎたかのように走り去った少年が見切れている。多分彼女の息子だろう。何気ない家の風景をただ切り取ったような一枚の写真。先ほど聞いていた曲の洗練さとは打って変わってある種ごく普通のアルバムジャケットだったことが気になってしまった。今までの彼女のジャケット写真はほとんどがスタジオで撮影された、いわゆる"キマっている"写真が多かったし、ほとんどが顔のアップだった。

歌詞を改めて読み、全ての曲を聞いてみるとそんな日常の家の風景の一枚が合っている。むしろこれが今回のアルバムに対しての答えだとさえ思ってしまう。今回の曲のイントロから始まり、歌詞に用いる言葉、音にハマった韻、特に残り1分くらいからはこの曲の醍醐味と言っていいくらい音がかっこいい。僕はそれら全てがなんてことない写真と共に作品であり、アートだと思った。アートと言ってしまうと大袈裟に聞こえるかもしれないけど、単なる作品という言葉だけで終わらせたくない。そう思わせるほど彼女の作品は歌詞、メロディー、ジャケ写など全てがバランスが良く、完璧に思えた。今の宇多田ヒカル、今の私はこうなんですよと言わんばかりの彼女の主張を感じた。

Hikaru Utada Official Websiteからの引用




話変わって、先日ある女性と食事に行った時の話。彼女は写真に言葉を付けるのが好きな方だったのでいくつか僕の写真を見せては言葉を付けてもらった。

僕は基本的に自分の写真に題名やキャプションを付けるのがあまり好きではなく、よっぽど何かを伝えたいことがない限り、写真だけを世に出すようにしている。
その理由は簡単で見た人に写真を委ねたいというもの。人それぞれ様々な感性を持っていてそれをどう受け取るかは自由であり、むしろどう受け取ったか、どう見えたか、どう感じたかを後から聞くほうが面白い。

彼女に見せたうちの一枚。

この写真には特にコンセプトはなく、単純に差し込む朝の光が綺麗だったのでふと撮った一枚。

少し考えた末に彼女が言った言葉は「桜隠し」だった。

それを言われた時に僕はその言葉を知らず、その場で意味を調べた。

-桜隠しというのは、上信越や東北地方で使われている季語で桜が咲いているのに雪が降り、雪が隠したと表現されて出来た言葉-

その言葉の持つ音と意味に心を奪われた。

人の感性に触れると嬉しくなると同時に色々な興味が湧いてくる。彼女は今までどんな人生を歩み、どんなことを考え、どんなことを感じて生きてきたのだろう。

人の持つ感性というものは簡素に言葉で表すことができない。彼女は熟考した上で出てきた言葉というより、まるでこの時間を予期していたかのように言葉がスッと出てきていた。なぜその言葉が出てきたのか?なぜその言葉を選んだのか?そんな疑問を投げかけても意味がない。人の感性というものはなんとなくそんなものだと思う。

多分、到底僕には思い付かないだろう言葉が人の感性によって生まれ、写真が新たな意味を持ち、また違った視点で見れる。これこそが僕が写真を見た人に委ねたい理由。


アートは主観的である。

この言葉は先日シャネルのギャラリーで行われていた写真家の堀 清英さんの展示にあった言葉からの引用。
※展示は2/20に終了しています。

写真は撮る人によって意味が変わる。ある人が撮ればアートにもなるし、ある人が撮れば広告にもなる、またある人が撮ればそれは日常の記憶や記録にもなる。

芸術作品もそう。僕からしてみれば幼稚園児が捏ねて作った粘土のようなものがある一定の世界では数十万、数百万という価値で行き交っていたり、誰かがいたずら書きしたような絵が数億円で飛び交っている。

結局アートというものは、曖昧で勝手で自由なものだと思う。アートは創った本人がそれをアートと言うか、言わないかということではなく、生み出した作品に対して本人の主観的な感性や想いや考え、その人自身が持つエネルギーが投影されていて、その作品を見た人がそれらを感じ、多数の人が賛同することによってアートという域になるのかもしれない。

宇多田ヒカルの曲や歌詞….写真に対して紡がれた言葉….

それらもアートであり、主観的な感情である。

そして写真はアートだと思っていると同時に、僕の写真は曖昧で勝手で自由とはまだまだ程遠いところにある気がしている。



写真家 / 石橋純

東京を拠点に世界中を飛び回り、海外に行く度に様々な国や地域の自然に触れ、その美しさをカメラに収めていくことに喜びを感じ、写真家を志す。
海外の自然から改めて日本の自然の美しさに気付かされ、登山家としても活動。Canon Image Gateway写真展 [極楽・風景時間]では数ある風景写真の中から10人のトリを飾る。
被写体は自然などの風景はもとより、東京・青山にあるBlue Note Tokyoではオフィシャルカメラマンとしてトップアーティストを撮影し、国内外モデルのポートレイトやストリート写真、 雑誌やカメラ機材のレビュー、メッセージ性を込めたアート作品を撮影するなど幅広いジャンルを独自の感性で撮影するフォトグラファーである。
また、ユネスコの無形文化遺産であるブラジルの伝統芸能「カポエイラ」を23年学び、Contra Mestre (副師範)の位を持つ。15年以上を子供から大人まで国内外で教えながら、TVやCM、アーティストのMVや広告などでカポエイラの監修や指導、そして自身もパフォーマー兼モデルとして活動する。

After taking up hiking and realizing how magnificent nature is in Japan, Tokyo-based photographer, Jun, enjoys capturing its beauty through photographs in his home country and abroad. Besides nature, his work covers a wide range of genres such as landscape, portrait, artwork, and street photography.

In addition, for more than two decades, he has been a practitioner of Capoeira, an Afro-Brazilian martial art recognized as a UNESCO Intangible Cultural Heritage of Humanity, and has risen to the rank of Contra Mestre.


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