「文章」について考える② 言葉の選び方はどう考えればよいか
国民総SNS時代になって久しく、誰もがブログやX、Facebookなどで自分の日常や考えなどを言葉で発信するようになった。誰しも、出来れば一人でも多くの人に見てもらいたい、読んでもらいたいと考えているのではないだろうか。インフルエンサーなどという言葉もあり、影響力の強い一般人も既に多く存在する。そうなりたければ、まずは扱うテーマが重要になってくるのは間違いないが、もう一つ重要なのは、私は「どんな言葉を使っているか」だと思う。簡単な言葉がいいのか?文章の構成はどうすればいいのか?口語体がいいのか?文語体がいいのか?結論から言うと、「伝えたい事をなるべく簡潔な言葉で書く」になる。どういうことか説明していこう。
皆さんも小説というものを読んだことがあるはずだが、まずは学生時代に国語の時間で「坊ちゃん」や「山月記」などに触れたはずだ。その漱石の冒頭が有名な「草枕」の序盤の一文がこれだ。
名文ではあるが、読みやすくはない。これには理由があって、漱石は芸術作品としてこの小説を書いているので、文体や語彙の美しさやリズム、文章自体を鑑賞してもらうのを目的として書いているからなのである。小説は物語を楽しむものではあるが、短歌や俳句、詩文のように文章そのものを吟味する媒体でもあるので、このような文章になり、一般的な新聞記事などとは違う存在である、と認識しておいてほしい。また、発行された時代も考慮する必要もある。明治頃に翻訳された海外の小説は、翻訳者の感性や能力にもよるが、かなり凝った文章になっているものがある。ゲーテやロマン・ロラン、ヘッセなどは文章自体をやはり芸術的存在と見做していたので、訳文も高尚なものになっているが、重ねて言うが、これは文章自体を、絵画や音楽のように芸術作品と考えているからで、そういうものを書くつもりでなければ、瀟洒で絢爛な文体は控えるのがよいだろう。では、次の画像を見てもらいたい。
これはいわゆるライトノベルの一部なのだが、「僕の妹は漢字が読める」という作中で提示されている、23世紀の「漢字が消滅した日本国」における小説なのだが、一読してどう思っただろうか。バカにしてんのか、とか思ったはずだ。いくら何でもこれはない、と。文法とかも消滅しているように思えるし……。となるはずだ。では、次の文章を見てもらいたい。
江戸後期に書かれた「南総里見八犬伝」の冒頭だが、かろうじて読めるが、旧漢字だらけで読みにくいことこの上ない。しかもこれは書き下し分であり、原文は「初里見氏之興於安房也。徳誼以率衆。英略以摧堅。平呑二總。傳之于十世。威服八州。良爲百將冠。當是時。有勇臣八人。各以犬爲姓。因稱之八犬士。雖其賢不如虞舜八元。忠魂義膽。宜與楠家八臣同年談也。」これである。読めません。第一回でも書いたが、言葉が変遷しているのをこの三つの引用で実感出来ると思うが、果たして「おなのこ みゃあっ」まで日本語は簡略化されていくのか、いくべきなのか、は是非考えてみてもらいたいが、テレビやネット動画など、映像文化の台頭もあって、若者の活字離れはおそらく止めることは出来ないし、これはやむを得ないと思う。話を本筋に戻すと、結局私たちは、基本的にはニュース記事などに書かれているレベルの文章、語彙を利用し発信すべきなのだと思う。一方で、政治のスローガンのような、人に支持してもらいたい、影響を与えたいと考える場合、工夫が必要であるとはNOTEに何回か書いたところだ。次回は、文章の起承転結、どのような組み立てが望ましいか、について書こうと思う。
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