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「文章」について考える② 言葉の選び方はどう考えればよいか

 国民総SNS時代になって久しく、誰もがブログやX、Facebookなどで自分の日常や考えなどを言葉で発信するようになった。誰しも、出来れば一人でも多くの人に見てもらいたい、読んでもらいたいと考えているのではないだろうか。インフルエンサーなどという言葉もあり、影響力の強い一般人も既に多く存在する。そうなりたければ、まずは扱うテーマが重要になってくるのは間違いないが、もう一つ重要なのは、私は「どんな言葉を使っているか」だと思う。簡単な言葉がいいのか?文章の構成はどうすればいいのか?口語体がいいのか?文語体がいいのか?結論から言うと、「伝えたい事をなるべく簡潔な言葉で書く」になる。どういうことか説明していこう。

 皆さんも小説というものを読んだことがあるはずだが、まずは学生時代に国語の時間で「坊ちゃん」や「山月記」などに触れたはずだ。その漱石の冒頭が有名な「草枕」の序盤の一文がこれだ。

土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾らのために道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩きよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿くって、その頂点が真中を貫いていると評してもよい

夏目漱石「草枕」より

 名文ではあるが、読みやすくはない。これには理由があって、漱石は芸術作品としてこの小説を書いているので、文体や語彙の美しさやリズム、文章自体を鑑賞してもらうのを目的として書いているからなのである。小説は物語を楽しむものではあるが、短歌や俳句、詩文のように文章そのものを吟味する媒体でもあるので、このような文章になり、一般的な新聞記事などとは違う存在である、と認識しておいてほしい。また、発行された時代も考慮する必要もある。明治頃に翻訳された海外の小説は、翻訳者の感性や能力にもよるが、かなり凝った文章になっているものがある。ゲーテやロマン・ロラン、ヘッセなどは文章自体をやはり芸術的存在と見做していたので、訳文も高尚なものになっているが、重ねて言うが、これは文章自体を、絵画や音楽のように芸術作品と考えているからで、そういうものを書くつもりでなければ、瀟洒で絢爛な文体は控えるのがよいだろう。では、次の画像を見てもらいたい。

「僕の妹は漢字が読める」より

 これはいわゆるライトノベルの一部なのだが、「僕の妹は漢字が読める」という作中で提示されている、23世紀の「漢字が消滅した日本国」における小説なのだが、一読してどう思っただろうか。バカにしてんのか、とか思ったはずだ。いくら何でもこれはない、と。文法とかも消滅しているように思えるし……。となるはずだ。では、次の文章を見てもらいたい。

初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。其れ賢虞舜の八元に如ずと雖ども、忠魂義膽、宜しく楠家の八臣と年を同して談ずべきなり。惜い哉筆に載する者當時に希し。唯だ坊間の軍記及び槇氏が『字考』、僅かに其姓名を識るに足る。今に至て其の顛末を見る由し無し。予嘗て之を憾む。敢て残珪を攻めんと欲す。是より常に舊記を畋獵して已まず。然ども猶考据有ること無し。

「南総里見八犬伝」序文

 江戸後期に書かれた「南総里見八犬伝」の冒頭だが、かろうじて読めるが、旧漢字だらけで読みにくいことこの上ない。しかもこれは書き下し分であり、原文は「初里見氏之興於安房也。徳誼以率衆。英略以摧堅。平呑二總。傳之于十世。威服八州。良爲百將冠。當是時。有勇臣八人。各以犬爲姓。因稱之八犬士。雖其賢不如虞舜八元。忠魂義膽。宜與楠家八臣同年談也。」これである。読めません。第一回でも書いたが、言葉が変遷しているのをこの三つの引用で実感出来ると思うが、果たして「おなのこ みゃあっ」まで日本語は簡略化されていくのか、いくべきなのか、は是非考えてみてもらいたいが、テレビやネット動画など、映像文化の台頭もあって、若者の活字離れはおそらく止めることは出来ないし、これはやむを得ないと思う。話を本筋に戻すと、結局私たちは、基本的にはニュース記事などに書かれているレベルの文章、語彙を利用し発信すべきなのだと思う。一方で、政治のスローガンのような、人に支持してもらいたい、影響を与えたいと考える場合、工夫が必要であるとはNOTEに何回か書いたところだ。次回は、文章の起承転結、どのような組み立てが望ましいか、について書こうと思う。

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