「他者」について考えること

みんなが好き勝手に生きていける社会

 「みんなが好き勝手に生きていける」。これが理想の社会だと、私は思う。なんの制約もなく、ただ思ったことを行う。自分を常に満たせる。そして生涯を終える時「幸せだった」と心から言える。そんな社会であれば、どんなに素晴らしいだろう。私は、これを「自由」な社会だと感じる。

 もちろん現実の社会は、そうではない。家柄、お金、学歴、職歴、国籍、ジェンダー、宗教など、さまざまな要因に現在も制約されながら、人々は日々生きている。「好き勝手生きている」と思っている人でもそうだ。
 そして、その制約度合いも人それぞれだ。「インターセクショナリティ」という言葉にも代表されるように、人は1つの要因のみに制約されているわけではない。そのため、それぞれの人が「私の気持ちなんて分かるわけがない」と感じるのではないか。

 私自身を振り返ってみても、他の人からの参考になる意見はこれまで数多くあった。しかし、完璧に自分と同じ環境の人はもちろんいない。そのため、自分の悩みと少しズレているなという答えもある。これとは反対に、私が発言した言葉や、行動に対して「ズレている」、「意味が分からない」など、ネガティブな感情を抱く人もいるだろう。
 それは当たり前の話である。そもそもが、異なっているからだ。本質的には異なっている。しかし、「人類」という概念に当てはまるとされる者同士が、一応同じ者たちであるとして生活している。そこにはもちろん、完璧な一致は存在しない。「共感」も、一致していると「錯覚」しているだけだ。

好き勝手生きていくために「他者」を考える

 では、そこに「自由」はないのか。私は、あると信じたい。そして、そのためには、分かるはずのない「他者」を追い求めることでしか達成できないと感じている。
 最初に、みんなが好き勝手生きていける社会が理想の社会である、と述べた。ここで重要なのは、「みんな」という部分である。「私」ではない。(正確には「私だけ」ではない)「私」が好き勝手生きていけることで、「みんな」の内の1人が好き勝手生きていけなければ、それは理想ではない。
 そして、「他者」を知ることをまずしなければ、「みんな」が好き勝手生きていくことは出来ない。「みんな」それぞれの抱えている制約を、まず把握しなければそれを乗り越えた「自由」は得られないからだ。
 しかし「みんな」の内、私以外の「他者」は完全に知ることが出来ない。そこの隙間は、埋まることはない。しかし、埋める努力は出来る。また、ひょっとしたら少しは隙間を縮められるかもしれない。縮められることで、みんなが好き勝手に生きていける道筋が出来るかもしれない。私は、そこに「自由」があると信じたい。
 そしてその希望を持って、私はこれからも「他者」について考えていきたい。少しでも分かる部分が増えれば、また他の部分への理解に向けて考える。そうすることで、「みんな」を理想の方向へ進められるのではないか。

「みんな」の構成員である「私」と「私」という「他者」

 そして、「みんな」を理想の方向へ進めるためには、その1人である「私」も考える必要がある。思えば、「私」とは何者だろうか。文筆家の池田晶子さんは、「自分が、世界なんだ」(『14歳からの哲学』p.67)と述べている。
 それを踏まえて考えてみれば、「他者」について考えるということは、結果的に私の「他者」に対するとらえ方を変えることに過ぎない。それを思えば、私が理想だと思う方向へ「みんな」を進められるようにするということは、「私」が「みんな」への認識を、そのように変化することに他ならない。
 また、「私」を完璧に私は理解しているだろうか。「私」とは、私にとって1番近い「他者」なのではないか。そうなると、私以外の「他者」について考えるのみではなく、1番分かっているつもりになっている、「私」についても再考する必要がある。
 その「私」という「他者」に対しての隙間を埋めることが、もしかすれば1番理想の社会へと近づく行動なのかもしれない。茨の道のような気もするが、そこはのんびりと時間をかけて気楽に行うことにする。



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