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【連載評伝】劇秦美新~王莽~最終話「予は天子。漢兵に何が出来ようぞ!」

王莽の昆陽の戦い後の混乱を描いた物語

昆陽の戦いの後、王莽の新朝は大きな打撃を受けました。かつての確固たる権威は揺らぎ、彼の統治は危機に瀕していました。この物語は、王莽が直面した内外の圧力と、彼の統治の崩壊への道を探ります。


第一章:敗北の影
昆陽の戦いでの敗北は、王莽にとって予期せぬ出来事でした。彼は自らの不死性と神聖な支配を信じて疑わなかった。しかし、現実は残酷で、彼の軍は敗走し、彼の権威は崩れ去り始めました。

第二章:疑念の種
王莽の心は疑念で満たされ始めました。彼は自らの側近たちを信じられなくなり、陰謀が彼を取り巻いていると感じました。彼の決断は不安定となり、彼はますます孤立していきました。

第三章:反乱の火種
敗北の知らせは帝国中に広がり、多くの人々が新朝に対する反乱を起こしました。王莽はこれらの反乱を抑えるために苦闘しましたが、彼の努力は徒労に終わりました。反乱は燃え広がり、彼の統治はさらに弱まりました。

第四章:崩壊への道
王莽は最終的には自らの運命を受け入れざるを得ませんでした。彼の新朝は崩壊し、彼の夢は灰となりました。彼は歴史の中で独裁者として記憶されることになりますが、彼の野望は終わりを告げました。

王莽の昆陽の戦い後の物語に登場する他のキャラクター

昆陽の戦いの後、王莽の新朝は混沌とした状態に陥りました。この物語は、王莽だけでなく、彼の周囲の人々の視点からもその時代を描き出します。

第一章:忠義の士
劉秀は、昆陽の戦いでの勝利の立役者であり、王莽に対する反乱軍のリーダーでした。彼は、王莽の専制政治に反対し、漢の復興を夢見る理想主義者です。彼のカリスマと戦略は、多くの人々を惹きつけ、新たな希望を与えました。

第二章:猜疑心の女
王莽の妻である王皇后は、夫の権力が揺らぐ中で、自らの立場を守るために苦悩します。彼女は、宮廷内の陰謀と裏切りに常に警戒し、自らの影響力を保とうと奮闘します。

第三章:野心の将
王莽の甥である王邑は、叔父の失敗をチャンスと捉え、自らの野心を抱きます。彼は、王莽の弱体化を利用して、自らの権力を拡大しようと画策します。しかし、彼の計画は予想外の障害に直面します。

第四章:民衆の声
農民である陳牧は、新朝の圧政に苦しむ一人です。彼は、王莽の政策によって生活が困窮し、反乱に同情的な心を持ちます。彼の物語は、庶民の視点から王莽の統治の影響を描き出します。

この物語は、王莽の昆陽の戦い後の混乱を、さまざまな登場人物の目を通して描いています。彼らは、それぞれの立場から歴史の転換点を生き、自らの信念と欲望に従って行動します。王莽の物語は、彼だけのものではなく、彼と時代を共に生きた人々の物語でもあります。彼らの選択と行動が、歴史の流れを形作っていくのです。

それでは下記に「漢書」王莽伝から、彼の末路を辿っていきましょう。

ついに反乱軍は、常安の王莽の居住する城まで迫り乱入してきました。

地皇4年10月に未央宮に到達する反乱軍。。。。

この様を見た、王莽は叫ぶのです。


「天生徳於予、漢兵其如予何!」

「天は予に天子となる徳を与えたのだから、漢の兵士もどうすることができようか」

と、王莽は往生際の悪いセリフを吐いています。

莽遣使者分赦城中諸獄囚徒、皆授兵、殺豨飲其血、與誓曰「有不為新室者、社鬼記之!」更始將軍史褜將度渭橋、皆散走、褜空還。衆兵發掘莽妻子父祖冢、燒其棺椁及九廟・明堂・辟雍、火照城中。或謂莽曰「城門卒、東方人、不可信。」莽更發越騎士為衛、門置六百人、各一校尉。

十月戊申朔、兵從宣平城門入、民間所謂都門也。張邯行城門、逢兵見殺。王邑・王林・王巡・䠠綠等分將兵距撃北闕下。漢兵貪莽封力戰者七百餘人。會日暮、官府邸第盡犇亡。

二日己酉、城中少年朱弟、張魚等恐見鹵掠、趨讙並和、燒作室門、斧敬法闥、謼曰「反虜王莽、何不出降?」火及掖廷承明、黄皇室主所居也。莽避火宣室前殿、火輒隨之。宮人婦女謕謼曰「當奈何!」時莽紺袀服、帯璽韍、持虞帝匕首。天文郎桉栻於前、日時加某、莽旋席隨斗柄而坐、曰「天生徳於予、漢兵其如予何!」莽時不食、少氣困矣。

(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)対訳。

王莽は使者を派遣して城内の囚人たちを赦免し、武器を授け、豚を殺しその血を飲ませて「新王朝のために働かない者は、土地の神がそれを記録する」と誓いを立てさせた。

更始将軍の史褜が彼らを率いて渭橋を渡ったが、みな散り散りになってしまい、史褜は一人虚しく帰ってきた。

兵たちは王莽の妻子や父祖の墓を暴き、棺桶や九廟・明堂・辟雍を焼き、その火が城内を明るく照らした。

ある者が王莽へ「城門の兵士たちは東方の人間であり、信用できません」と言ったため、王莽は城門の兵を越騎の兵士たちと交代させ、門ごとに六百人と校尉一人を置いた。


十月一日戊申、兵が宣平門から入ってきた。民が都門と呼んでいる門である。張邯は城門を巡回していて入ってきた兵に遭遇して殺された。王邑・王林・王巡・䠠綠らは分担して兵を率いて北の正門の元で守った。漢の兵は王莽を得て諸侯に封建されたいと思って戦った者が七百人余りいた。日が暮れると、役所や官舎の人間は皆逃亡していた。


二日己酉城内の若者の朱弟や張魚らが捕まって戦利品になってしまうことを恐れ、皆で走って騒ぎ回り、作室門を焼き、敬法闥を斧で破壊し、「王莽よ出てこい」「反乱者王莽、なぜ降伏しない?」と大声で触れ回った。

火は掖庭の承明殿にまで及んだ。黄皇室主(王莽の娘、平帝の皇后)のいるところである。

王莽は火を避けて宣室前殿へ行ったが、火は王莽を追ってきた。宮女は「どうすればいいのでしょう」と泣き叫んだ。


この時王莽は紺色の服を着て皇帝の璽綬を帯び、虞帝の匕首を持っていた。天文郎が占い道具を使って王莽の前で占いを行い、王莽はその間席の周りで威斗の柄の部分に従ってぐるぐる回り、それから座って


「天は予に天子となる徳を与えたのだから、漢の兵士もどうすることができようか」


と言った。


王莽は食事をせず、少しばかり気力が衰えていた。

ついに終末のラッパが聞こえてきた。

長安城に乱入してきた周囲の反乱者、そして蜂起した城内の民。

「越騎」とは諸説あるが越人による異民族騎兵部隊であると言われている。

つまりこの時の王莽は東方の人間よりも越人の方が信用できると判断したことになる。

后立歳餘、平帝崩。莽立孝宣帝玄孫嬰為孺子、莽攝帝位、尊皇后為皇太后。三年、莽即真、以嬰為定安公、改皇太后號為定安公太后。太后時年十八矣、為人婉瘱有節操。

自劉氏廢、常稱疾不朝會。莽敬憚傷哀、欲嫁之、乃更號為黄皇室主、令立國將軍成新公孫建世子襐飾將毉往問疾。后大怒、笞鞭其旁侍御。因發病、不肯起、莽遂不復彊也。

及漢兵誅莽、燔燒未央宮、后曰「何面目以見漢家!」自投火中而死。

(『漢書』巻九十七下、孝平王皇后伝)

「黄皇室主」とは王莽の娘で平帝の皇后となった女性のことである。

最終的には火の中に飛び込んで死んだというから、自分の宮殿に火が回ってきたこの時の事であるのかもしれない。


なお、火といえば漢王朝の徳の象徴であるから、天命を象徴する予兆などを駆使してきた王莽やその周囲にとっては、「火がこちらを追いかけてくる」というのは我々が想像する以上に恐ろしい事態と映ったかもしれない。実際はただどんどん延焼しているだけなのだとは思うのだが。


三日庚戌、晨旦明、羣臣扶掖莽、自前殿南下椒除、西出白虎門、和新公王揖奉車待門外。莽就車、之漸臺、欲阻池水、猶抱持符命・威斗、公卿大夫・侍中・黄門郎從官尚千餘人隨之。

王邑晝夜戰、罷極、士死傷略盡、馳入宮、間關至漸臺、見其子侍中睦解衣冠欲逃、邑叱之令還、父子共守莽。

軍人入殿中、謼曰「反虜王莽安在?」有美人出房曰「在漸臺。」衆兵追之、圍數百重。臺上亦弓弩與相射、稍稍落去。矢盡、無以復射、短兵接。王邑父子・䠠綠・王巡戰死、莽入室。下餔時、衆兵上臺、王揖・趙博・苗訢・唐尊・王盛・中常侍王參等皆死臺上。

商人杜呉殺莽、取其綬。校尉東海公賓就、故大行治禮、見呉問綬主所在。曰「室中西北陬間。」就識、斬莽首。軍人分裂莽身、支節肌骨臠分、爭相殺者數十人。公賓就持莽首詣王憲。憲自稱漢大將軍、城中兵數十萬皆屬焉、舍東宮、妻莽後宮、乗其車服。

(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

三日庚戌の朝、群臣は王莽を抱えて前殿から南の椒除という道を通って西へ向かい白虎門を出て、和新公の王揖が門の外で馬車で待っていた。王莽はその馬車で漸台へ行って池で相手の侵攻を阻もうとした。なおも予言の書や威斗を抱きかかえ、三公・九卿や侍中・黄門郎や侍従たちがなおも千人以上が付き従った。

王邑は昼夜問わず戦い続けたが疲弊の極みになり、兵士もみな死傷したため、宮殿内に入り、苦労して漸台へ至り、そこで自分の子の侍中王睦が衣服や冠を脱ぎ捨てて逃亡しようとしているのを発見した。王邑は王睦を叱りつけて戻るように命じ、親子で王莽を守った。


軍人たちが殿中に入り、「反乱者王莽はどこだ?」と叫んだ。後宮から宮女が出てきて「漸台におります」と答えた。兵士たちは王莽を追い、数百重ねにも連なって包囲した。漸台の上から弓や弩で撃ちかけてある程度倒したが、矢が無くなり、近接兵器で応戦するしかなくなった。

王邑親子・䠠綠・王巡は戦死し、王莽は部屋の中に入った。夕方、兵士たちが漸台に登り、王揖・趙博・苗訢・唐尊・王盛・中常侍王参らは皆漸台の上で死んだ。


「商人の杜呉が王莽を殺害」し、その印璽の紐(綬)を奪い取った。東海の人である「校尉の公賓就」は元は大行治礼であったためその紐に気付き、杜呉にその持ち主がどこにいたかを尋ねた。杜呉は「部屋の西北の隅にいた」と答えた。公賓就は王莽の遺体を発見し、

王莽の首を取った。兵士たちは王莽の遺体を争って切り刻み、奪い合って数十人が殺し合った。


「公賓就は王莽の首を王憲」の元へ持って行った。

王憲は漢の大将軍を自称し、城内の兵数十万が皆彼に属した。


東宮に寝泊まりし、王莽の側室たちを自分の妻とし、王莽の衣服や馬車を使った。

王莽、死す。

だが王莽を判別できない者に殺されて死体は一旦は放置されていたということだ。

公賓就が経験したという「大行治礼」というのは大鴻臚に属する官署「大行」の官僚ということである。つまり公賓就は衣服その他の格式などについて知識があり、杜呉が持っていた紐が王莽の使っていたものだとわかったのである。


賞金がかかっていた者の身体を一部分でも持って行けば賞金にありつけるに違いない、というのは以前項羽の時にあったことであるが、その時は五分割だったのが、今回はもっと細かく寸断されたようだ。


さらに原文が続きます。


光武因復徇下潁陽。〈縣名,屬潁川郡,故城在今許州。(集解)先謙曰在今許州城西南〉會伯升為更始所害,光武自父城馳詣宛謝。〈父城,縣,古應國也,屬潁川郡,故城在今許州葉縣東北。以伯升見害,心不自安,故謝。(集解)先謙曰父城潁川県在今宝豊県東四十里県志有父城保〉司徒官屬迎弔光武〈(集解)通鑑胡注伯升官属〉,光武難交私語,深引過而已〈(集解)引為伯升之過〉。未甞自伐昆陽之功,又不敢為伯升服喪,飲食言笑如平常。更始以是慙,拜光武為破虜大將軍,封武信侯。

 光武因みて復た潁陽を徇(めぐ)り下す。〈縣名なり,潁川郡に屬す,故城は今の許州に在る。(集解)先謙曰ふ今の許州城の西南に在り〉伯升の更始がために害する所に會ひて,光武父城より馳せ宛を詣で謝す。〈父城は,縣なり,古への應國也,潁川郡に屬す,故城は今の許州葉縣の東北に在り。伯升を以て害されるを見て,心は自ら安じられず,故に謝せり。(集解)先謙曰ふ父城は潁川県の今の宝豊県の東四十里に在り。県志に父城保有りと〉司徒官屬は弔して光武を迎ふ〈(集解)通鑑胡注に伯升の官属とあり〉,光武は私語を交わし難く,深く引きて過ぐる而-(のみ)(集解)伯升が為引きて之を過ぐるなり〉。未だ甞て自ら昆陽之功を伐(ほこ)[1]らず,又敢へて伯升が為服喪せず,飲食言笑することは平常の如し。更始は是を以て慙じ,光武を為して破虜大將軍を拜し,武信侯に封ず。


 光武はこれによって再び潁陽をめぐり下した。〈縣名である,潁川郡に属している,故城は今の許州にある。(集解)先謙はこう言っている。今の許州城の西南にあると〉伯升が更始によって殺害されたことによって,光武は父城より馳せ参じて宛(の更始帝)に拝謁して罪を謝った。〈父城は,縣である,古の應國である,潁川郡に属している,故城は今の許州葉縣の東北にある。伯升でさえ殺されてしまうことを知って,安心できなくなり,故に謝った。(集解)先謙はこう言っている。父城は潁川県の今の宝豊県の東四十里にある。県志には父城保があると〉司徒の官属は光武にお悔やみを述べて迎えたが〈(集解)通鑑の胡注に伯升の官属とある〉,光武は私語を交わす事を避け,深く引いて通り過ぎるだけだった。〈(集解)伯升のために引いて通り過ぎたのだ〉。帰ってからは昆陽の功を一切誇るようなことはなく,また敢えて伯升のために喪に服することもなく,飲食して笑い話していることは平常のとおりだった。更始はこの姿を見て恥じいって,光武を拝して破虜大将軍とし,武信侯に封じた。


九月庚戌,三輔豪桀共誅王莽,傳首詣宛。〈三輔謂京兆、左馮翊、右扶風,共在長安中,分領諸縣。淮南子曰:「智過百人謂之豪。」白虎通云:「賢萬人曰傑。」時城中少年子弟張魚等攻莽於漸臺,商人杜吳殺莽,校尉公賔就斬莽首,將軍申屠建等傳莽首詣宛。(集解)萬松齢曰朱監本作于宋本作宋案前書莽伝作朱恵棟曰三輔旧事屠児杜虞手殺莽東観記亦作杜虞呉虞古字通〉

 九月庚戌,三輔の豪桀が共に王莽を誅し,首を傳へて宛を詣でる。〈三輔とは京兆、左馮翊、右扶風を謂ふ,共に長安の中に在り,諸縣を分けて領す。淮南子に曰ふ:「智が百人を過ぐるを之を豪と謂ふ。」白虎通に云ふ:「萬人に賢きを傑と曰ふ。」時の城中の少年子弟張魚等は莽を漸臺に攻め,商人杜吳が莽を殺し,校尉公賔就が莽の首を斬り,將軍申屠建等は莽の首を傳へて宛を詣でる。(集解)萬松齢曰く朱監本の作す宋本の作す宋の案ずるに前書の莽伝に朱と作ると。恵棟曰ふ三輔旧事に屠児杜虞は莽を手ずから殺せり。東観記は亦た杜虞に作る呉と虞、古くは字通ぜり〉


 九月庚戌,三輔の豪傑が共に王莽を誅して,首を携えて宛の更始帝に拝謁した。〈三輔とは京兆、左馮翊、右扶風をいう,共に長安の中にあり,その諸縣を分けて管掌した。


淮南子ではこういっている:「智恵が百人の中で最も素晴らしいことを豪という。」白虎通ではこう言っている:「一万人より賢いことを傑という。」時の城中の少年の子弟であった張魚等は莽を漸台に攻め,商人杜吳が莽を殺し,校尉の公賓就が莽の首を斬り,


「將軍の申屠建」等は莽の首を携えて宛の更始帝に拝謁した。
(集解)萬松齢がいうには朱監本の宋本の宋における解釈では前書の莽伝に朱と作ると。恵棟がいうところでは三輔旧事に

「屠殺業者であった杜虞で、莽をその手で殺した」とある。東観記は杜虞としるしている。呉と虞は、古くは字が通用していた。〉



王莽の遺体について使われている「臠」というのは肉の「切り身」のこと。細切れになったということらしい。

二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 9


王莽は全身をなますの如く切り刻まれて、その遺骸は更始帝の元へ護送され、舌を引き抜かれて、先を競って食われたという余りにもむごい末路を迎えています。


それでは、班固による、王莽についての評に目を通していきましょう。


上記の陳崇の上奏文や、揚雄の「劇秦美新」のような王莽の同時代の評価に対して、『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。


王莽は外戚から身を起こして、節を曲げて、行いにつとめ、名誉を求め、相続からは孝と称され、友人からは仁の心があると認められた。

高位についてから政治を補佐して、成帝や哀帝の頃は、国家のために勤労し、道にそって行ったため、称えられるようになった。

これはいわゆる、「家にありても必ず聞こえ、国にありても必ず聞こえ、色に仁を取りて、行いは違うものではないか?


王莽は元々から仁の心がなく、よこしまな素質があり、四人のおじ(王鳳・王音・王商・王根)の歴代の権力に乗じ、漢王朝の衰退にあって、国の血統が三回絶えて(成帝・哀帝・平帝)、太后の王政君が長生きして一族の宗主になったことを利用して、その邪悪な心をほしいままにすることができ、ついには帝位を簒奪して盗み、わざわいを成し遂げた。


このことを推測するに、これはまた天の時であり、人力のいたすところではなかった。そして、帝位を盗んで、皇帝に即位してもそれは依るべきところはなかったため、その転覆する勢いは夏の桀王や殷の紂王よりも激しかった。


それなのに、王莽は自分のことを黄帝や舜が再来したものであると安心して、政治をはじめて欲しいままにふるまい、脅しといつわりを振るい、天をあなどり、民を虐げ、凶悪を極め、毒害を中華に流し、戦争を夷狄にまで及ぼしたが、それでもなお、その欲を満たすには足りなかった。


そのため、四海のうち、民は生きることを楽しむ心を突然に失い、内外の民は怒り怨んで、遠近ともに反乱を起こすようになった。城は守られず、天下の肢体は分裂し、ついには天下の城邑は空しくなり、王莽の先祖の墳墓は暴かれ、害を民にあまねく及ぼしたため、その罪は朽ちた骨にまで及んだ。歴史書に記されている乱臣賊子や無道の人物を探るに、その禍と失敗は、王莽ほど甚だしいものはいない。


かつて、秦は『詩経』や『書経』を焼いて、自分の考えを立てたが、王莽は六芸をとなえながら、邪な言葉を飾った。秦と王莽は、やり方は異なったが、同じ結末となり、ともに滅亡し、ともに、亢龍が気を失い、非命となる運命であった。


王莽は(五行の色のどれでもない)紫色や邪な淫声のような(歳月の)閏にも似た余分なものであり、


「聖王である光武帝(劉秀)🐉に駆除」されたのである。



この物語は、権力の頂点から落ちた一人の男の物語です。王莽は、自らの理想と現実の間のギャップに苦しみ、最終的にはそのギャップに飲み込まれました。彼の物語は、歴史の教訓として残ります。権力は常に揺らぎ、絶対的なものではないという教訓です。



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