見出し画像

コミュニケーションはいつも一方的

「蒟蒻(こんにゃく)問答」という落語が人間のコミュニケーションの本質を捉えていて面白い。

この落語のあらすじ話すと

にわか住職になったこんにゃく屋の主人が,「お寺破り」の旅の修行僧に問答をしかけられるが、何もわからないため、口もきけず耳も聞こえないふりをしていると、変な身振り手振りをしていると、修行僧はその身振り手振りを意味を取り間違え、「参りました」と言って帰ってしまう。

このトンチンカンな話は、ある意味コミュニケーションの本質を捉えているように思える。

詳しい話はこちら 

私もそうですが、日頃誰かとコミュニケーションをするとき、無意識のうちにフィルターをかけていると思うんですよね。

例えば、

つまらない会社の会議で話を聞く時と、

自らお金を払って尊敬する人の講義を聞く時では

明らかに異なるフィルターを使って話を聞きますよね。

おそらく全く同じ話をされても、環境や聞き手の意思で、入ってくる情報は全く異なります。

受け取った情報が、話し手の意図とは異なっていても、そんなことは関係なく、聞き手の意思(フィルター)で情報の受け取りは異なってきますよね。

「蒟蒻問答」の話でも、修行僧はこんにゃく屋を住職だと勘違いし、

訳のわからないジェスチャーを拡大解釈して、勝手に負けを認めて満足して帰っていくわけです(笑)。

今も昔も、こんな一方的なコミュニケーションが成り立つわけです。

そして、聞き手も話し手も、時に意図が伝わらなくても一方的なコミュニケーションで満足できるんですね。

この成田悠輔さんの話は本当に面白いです。


コミュニケーションは誤解の余地がある

この「蒟蒻(こんにゃく)問答」の話を聞いて思い出した書籍があります。

内田樹先生の「先生はえらい」という書籍です。

皆さんも、恩師と呼べる人が一人はいますよね?

この本で述べられているのは、「恩師」がその師の意図ではなく、
私たちが求めた時に、偶然であった人を勝手に「恩師」だと認識する
と書かれています。

まさに「1人合点」をしただけで、
たいてい場合、恩師が意図したことではない。

このようにコミュニケーションとは、「一方的な誤解から生まれる」
ということがこの本ではずっと述べられています。

という私の一方的な解釈をしました。

コミュニケーションは「誤解」や「謎」があるからこそ、「満足」や「好奇心」を生む。
だからこそコミュニケーションは楽しいのかもしれませんね。

分かりやすかったら、コミュニケーションは続きませんもんね。


勝手な解釈を書いたところで、
一生分かり合えない、この記事の一方的なメッセージを終えたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?