幻のNWA世界王者となった不運の電光男【1981年の国際プロレス外国人レスラーファイル/マイク・ジョージ編】
国際プロレスとは?
1967年1月5日大阪府立体育会館大会で東京プロレスとの合同興行として旗揚げされ、1981年8月9日の北海道・羅臼大会を最後に崩壊するも、今なおオールドファンの心に残り続けるプロレス団体・国際プロレス(ここからは国際と形容)。
日本プロレス界においてのの功績は計り知れない。
レスラーとの契約書の作成、巡業バスの導入、日本人マスクマンデビュー、日本人同士の世界タイトルマッチ、金網デスマッチ、外国人留学生の受け入れ、日本初の選手テーマ曲の導入…。
国際は現在の日本プロレス界の基盤となっているあらゆる事例のパイオニアだった。
国際の日本人選手は他の団体から関心されるほど練習の虫とも言える猛者が多かった。見た目は地味でも実力者が揃っていた。
国際といえば、大物、技巧派、パワーファイター、怪人レスラー、マスクマン、曲者、新鋭などありとあらゆるタイプの個性の強い外国人レスラーを多く来日させている。
またヨーロッパの選手を呼んだのも国際がパイオニアだった。ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)、エドワード・カーペンティア、ホースト・ホフマン、ダイナマイト・キッド、マーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)、ミレ・ツルノなどの強豪の招聘に国際は成功し、中にはロシモフのように国際から巣立ち、世界のスーパースターになっていった者もいる。
アメリカのメジャー団体の一角AWAとの提携時代にはバーン・ガニア、ニック・ボックウィンクル、レイ・スチーブンスといったトップレスラーを呼んでいる。
さらにカナダやメキシコといったテリトリーからの強豪は来日している。
また国際はテクニシャンやパワーファイターだけではなく、マッドドッグ・バション、ジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマタ、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、セーラー・ホワイト、キラー・ブルックス、モンゴリアン・ストンパーといったラフファイトやデスマッチに強い"流血外国人"レスラーの巣窟でもあった。
1981年の国際プロレスに来日した外国人レスラーたちの物語
そんな国際プロレスが崩壊する1981年に来日した外国人レスラーはどんなメンツだったのだろうか?
以前、私は昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんと「テーマ曲から考える国際プロレス論」と題して対談を行った際に、 末期の国際の話になった。
自転車操業で経営難、しかも1981年3月を持って東京12チャンネル(テレビ東京)からレギュラー中継を打ち切られている国際。
私はどうしてもこの頃に来日したレスラーが歩んできた人生が気になって仕方がなかった。
"電光男”マイク・ジョージ
そこで「1981年の国際プロレス外国人レスラーファイル」と題して、1981年の国際に参戦した外国人レスラーを取り上げてみようと考えたわけである。
記念すべき初回は、1981年1月に開催された新春パイオニアシリーズに参戦したマイク・ジョージを取り上げたい。
マイク・ジョージと聞いて思い浮かぶのは二つある。
それは新日本プロレスで初代タイガーマスクの試合後に、はぐれ国際軍団の助っ人として私服姿で乱入し、タイガーに得意のショルダーバスターを見舞ったこと。
もうひとつはアメリカのセントラル・ステート地区(ミズーリ州とカンザス州)で武者修行をしていた蝶野正洋(現地ではマサ・チョーノというリングネームで悪役として大暴れしていた)とライバル抗争を繰り広げていたこと。
どれも国際参戦以後の記憶である。
「電光男」「ミズーリの活火山」と呼ばれ、ショルダー・バスター、ペンジュラム・バックブリーカーを得意にし、186cm 125kgと恵まれた肉体を誇った正統派パワーファイターであるマイク・ジョージはどんなレスラー人生を歩んだのだろうか?
将来有望の若手レスラー
1950年ミズーリ州セントジョセフで生まれたジョージは1969年にプロレスデビューすると、地元のセントラル・ステーツ地区でレスラーとして経験を積んでいく。1974年3月21日にはボブ・ブラウンを破ってシングルのセントラル・ステーツ・ヘビー級王者となる。
実はボブ・ブラウンというレスラーは、後にセントラル・ステーツ地区に遠征に訪れた蝶野正洋のパートナーを務めた人物である。
初来日は1975年4月の全日本プロレス「第3回チャンピオン・カーニバル」だった。予選トーナメントで高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)に敗れたが、このシリーズに来日した同世代のボブ・オートン・ジュニア、スティーブ・カーンと共に将来有望な若手レスラーとして期待されるようになる。それにしてもオートン、カーン、ジョージという並びはなかなかアクの強さを感じてしまうメンツである。
そこから地元のセントラル・ステート地区やフロリダを転戦していくジョージは、テリー・ファンクが保持していたNWA世界ヘビー級王座に何度も挑戦する機会を与えられていた。NWA世界タッグ王座は6度も戴冠し、NWA世界ヘビー級王者候補とまで言われるレスラーにまで成長していった。
MSWA参戦がきっかけで国際プロレス来日
1979年にミッドサウス地区のMSWAに参戦し、数々のタイトルを獲得したことにより、MSWAと提携していた国際への来日(1980年4月『'80ビッグ・チャレンジ・シリーズ』)を果たし、ラッシャー木村が保持しているIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。国際の至宝であるIWA王座に挑戦していることから国際からも期待されていたことが分かる。
セントラル・ステート地区やフロリダでは正統派だったが、MSWAでは荒々しいヒールレスラーだった。
そんなジョージに国際は"伝説のプロレスラー"ルー・テーズの冠がついた「ルー・テーズ杯争奪戦」に招聘する。
「ルー・テーズ杯争奪戦」は経営不振に喘いでいた国際の社運がかかった企画だった。優勝者にはルー・テーズから寄贈されたチャンピオンベルト(テーズ・ベルト)が贈られることになっていた。予選リーグは、「'81新春パイオニア・シリーズ」で前期予選、「'81スーパーファイト・シリーズ」で後期予選を実施。日本人選手は前期・後期各予選の通算勝率上位4名が決勝リーグへの出場権を獲得、外国人勢は前期予選・後期予選とではメンバーが異なり、各ブロック首位もしくは敗者復活戦に勝利した選手が決勝リーグへ進出するものとされた。秋に開催予定だった決勝リーグは、予選を勝ち抜いた選手以外にも、テーズと国際プロレスが推薦した選手が出場する予定だった。
ジョージは「'81新春パイオニア・シリーズ」に来日し、前期予選にエントリー。見事Cブロック1位となり、決勝リーグ戦進出を決めた。
だが、決勝リーグ戦は団体が崩壊したことにより開催されることはなかった。「ルー・テーズ杯争奪戦」は幻となった。
幻のNWA世界ヘビー級王者になるも…。
「ルー・テーズ杯争奪戦」予選リーグ戦から4か月後の1981年5月にジョージは時のNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスに挑戦。そこでフォール勝ちを収めたにも関わらず、不透明決着で幻の世界ヘビー級王者となってしまう。
その後もMSWAで活躍し、NWA世界ヘビー級王座にも幾度も挑戦する機会を得るも遂に世界王者になることはなかった。
また新日本ではぐれ国際軍団の助っ人として参戦するも目立つことなかった。
その後、自動車ディーラーに転身するもリングに復帰すると、1988年1月にセントラル・ステーツ地区で誕生したローカル団体WWAの初代世界ヘビー級王者に輝いている。
蝶野は1988年2月26日にミズーリ州セントジョセフ・シビックセンター大会でジョージを破り、第2代WWA世界ヘビー級王者となった。蝶野にとってこのタイトルは三度目の挑戦でも戴冠だった。日本にも「若干24歳(当時)の蝶野が敵地で世界王座戴冠」という情報が流れた。この年の7月に闘魂三銃士のひとりとして一夜限りの凱旋を果たした時も実況でこのニュースについて触れられている。
その後は、AWAに参戦し、髪をブロンドに染め、"ザ・タイムキーパー" なるニックネームのベテラン・ヒールとなるも活躍することはなかった。
そして、1991年に引退し、第二の人生として以前から取り組んでいた自動車ディーラー業に専念している。
もしも予定通り「ルー・テーズ杯争奪戦」決勝リーグ戦が開催されていたら…。
よく若手時代に将来有望や次期世界王者ともてはやされたにも関わらず、結果が伴わないで、引退していくというレスラー人生のパターンは多い。
ジョージも最終的には幾度もチャンスは与えられたにも関わらず、開花することはなかったレスラーのひとり。
さまざまな要因があると思われるので一概には言えないが、NWA世界王者になるには実力だけではなれない。世界各国津々浦々とありとあらゆるタイプのレスラーを相手に防衛ロードを歩まないといけない。その技量や器量、あと政治力。ここらあたりは当時、世界最高峰と呼ばれていたNWA世界ヘビー級王者として資質が足りなかったのかもしれない。
ただ国際での「ルー・テーズ杯争奪戦」がもしきちんと決勝リーグ戦が行われていたら、ジョージのレスラー人生は少しは変わっていたのかもしれない。
不運の電光男マイク・ジョージは今年(2021年)で71歳。彼は今どのような余生を送っているのだろうか…。
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