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新名智の恋愛小説『あるロボットの遺言』

新名智さんから新作短編を頂きました。テーマは恋愛、ですが……前回の短編に続き一筋縄でいく作品ではないかもしれません。人間と、地球外からやってきた巨大ロボットのあいだに生まれたある感情をめぐる一編。



新名智(にいなさとし)


長野県出身。2021年、『虚魚』で第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞、大賞を受賞してデビュー。


あるロボットの遺言


 
 機体が東京上空に到達した頃、窓際の席から声が上がった。今日は晴れていて雲もない。眼下には東京都心の風景が広がっているはずだ。おれは読んでいた本を閉じ、リュックサックにしまった。着陸が近い。
 隣に座っていた老紳士が、ドイツ訛りの英語で話しかけてくる。日本人かと聞かれたので、そうだと答える。彼は、窓の外を見て盛り上がっている他の座席の乗客たちをちらちらと見ていた。窓の下に何があるのか気になっているようだ。おれは手短に答えた。
 ロボットだ。
 それで彼は納得したらしく、ゆっくりとうなずいた。そう、東京といえばロボット。シドニーにオペラハウスがあり、パリに凱旋門があるように、東京という都市の中心には巨大なロボットがそびえている。
 老紳士は、横の配偶者らしき女性とドイツ語で話し合った。その会話が切れ切れに聞こえてくる。滞在中に一度くらい、東京観光をしてみようか。でもあなた、ロボットの周りは立ち入り禁止なんでしょう。遠くから見るくらいかまわないさ。嫌よ、倒れてきたらどうするの。
 おれは目を閉じた。機内アナウンスを聞きながら、おれは日本で待ち受けているものを思って憂鬱になった。
 
 到着ロビーには、カメラを持ったマスコミらしき人間がたむろしていた。こっそり通り抜けようとしたけれど駄目で、すぐに進路を塞がれてしまった。おれの目の前に、マイクが何本も突き出される。
「三井真紅さんですよね?」
「留学生活はいかがですか?」
「今回の帰国は、お母様のお見舞いということですが、本当でしょうか?」
 質問には答えず、歩調を速める。だがマスコミも大したもので、あくまで自然なスピードのまま、横にぴったりとついてくる。嫌がる人間から話を聞くことに関して、あちらはプロだ。おれの行く手をさりげなく邪魔しながら、的確にこちらを挑発する。
「牧田蓮さんが、詐欺罪で逮捕されたことをご存じですか」
「被害にあったお金の一部を留学費用として受け取っていたという報道もありますが」
 事実無根だ。たしかに牧田は、おれの両親と親しかったそうだが、おれ自身はほとんど会ったことがない。当然、留学の援助など受けてはいない。だが、ここでそれを説明しても無意味だろう。
 丸顔にひげを生やした男が、おれの前に立って、言った。
「ご両親がやったことは、日本のためにはならなかったのでは?」
 おれは足を止め、記者を睨みつけた。だが、それはあちらの思うつぼで、ここぞとばかりに質問が飛んでくる。おれの父親は、三井想斗は犬死にだったのではないか。おれの母親は、売名のために彼の死を利用しているのではないか。そもそも、子供だけで地球を救うなどということがおかしかったのではないか。警察や自衛隊の要請をなぜ無視したのか。
 カメラに取り囲まれた状態で、おれはただ呆然と立ち尽くしていた。何も言えないし、答えられない。もしだれかが答えを持っているのだとしたら、おれ自身が聞き出したかった。なぜ。なぜ。なぜ。
 なぜ、おれの両親は巨大ロボットに乗り込んで、地球を襲う侵略者と戦わなければならなかったのか。
 固まっているおれの前で、容赦なくフラッシュが焚かれる。おれは光に押されるようにして後ずさる。英雄の息子、空港で昏倒。そんな見出しが脳裏をよぎった。
 と、だれかの手が伸びてきて、おれの腕を支えた。
「はいはい、道を空けてくださいね。公共の場所ですから」
 スーツ姿の女性だった。四十代くらいだろうか。空港の職員かと思ったが、ブランドのロゴが入った巨大な紙袋を振り回し、記者たちを蹴散らしていくところを見ると、たまたま通りがかった観光客のおばさんかもしれない。それもかなり厄介なタイプの。
 だれであれ、今はありがたい。おれはおばさんの背後に隠れるようにして、囲みを抜け出した。追いかけてこようとする記者に向かって、おばさんが振り向き、悪態をつく。その隙に素早く空港を出た。
 急いでタクシーを捕まえようと、乗り場をうろうろしていたら、さっきのおばさんがまた現れる。あちらもおれに気づいて、にこっと笑った。
「大変だったわね」
「あ……ありがとうございました」
「いいのよ」
 おばさんの前に、一台の黒いセダンが止まる。そのまま大荷物を押し込もうとしていたので、おれは少し手伝ってやろうと思った。おばさんはまた笑顔を作り、じゃあお願い、と言って横へどいた。
 荷物を受け取り、後部座席を覗いたとき、不意に背中を強く押された。おれはバランスを崩して車内に倒れる。すぐにおばさんも乗り込んできて、ドアを閉めた。
「出して」
 車が走り出す。わけがわからなかった。日本に来て早々、誘拐されたということか。恐怖よりも困惑のほうが強かった。目の前にいるのはどう見ても普通のおばさんで、今も何食わぬ顔で扇子をひらひらさせている。
「三井真紅さんね」
「それが何か」
「本名は堀真紅。父親の姓を名乗っているのはどうして?」
「あなたに関係ないでしょう」
 おれが答えると、彼女は納得したようにうなずく。紙袋のひとつからパスケースらしきものを取り出し、中に入った身分証をおれに見せた。
「内閣府特命調査局の布部と言います。よろしく」
「特命調査局……」
「平たく言えば、〈マグナアイン〉問題に対処するための部署」
 彼女はひどく懐かしい単語を口にした。〈超越機人マグナアイン〉というのは、かつて広く使われていた、あのロボットの愛称だった。しかし最後の戦いからも長い時間が経って、人類の救世主から東京の厄介者へとその地位が移り変わるにつれて、いつしかその名は使われなくなり、ただ「あのロボット」とだけ呼べば通じる存在になった。
 おれはゆっくりと体を起こし、シートの上に座り直した。窓の外を流れていく看板の文字などを見る限り、車はどうやら横浜方面に向かっているらしい。おれの行き先、つまり母親の入院している病院も把握されているということだ。
 布部と名乗る女性は、さっきのように愛想のいい笑顔を作って、さらに続けた。
「飛行機の窓からは、ロボットがよく見えたでしょう」
「かもしれませんね。あいにく、真ん中の席だったので」
「あれについて、あなたはどこまで知っている?」
「というと」
「わたしたちが知らないようなことも、あなたはお母様から聞いているんじゃないかって」
 おれはかぶりを振った。母があのロボットについて話してくれたのは抽象的で哲学めいたことばかりだ。あれは救世主であり、人類に変革をもたらす存在だ、とかなんとか。だからおれは、ロボット自体については、ごく一般的な知識しか持っていない。
 今から二十年前の夏、すべての始まりとなる事件が起きた。
 宇宙から飛来した正体不明の物体が太平洋上空に浮かび、そこから日本列島に向かって、巨大な生体兵器を送り込んできたのだった。当初は自衛隊や在日米軍が応戦したが、生体兵器の圧倒的な攻撃力の前には歯が立たず、被害は拡大する一方だった。
 そんなとき、あのロボットが出現した。
「当時のわたしは、防衛省に入省したばかりの新米だった」布部が言った。「あれが現れたとき……そして、生体兵器を倒したとき、思わず泣いてしまったわ。これで日本は助かる、もう大丈夫だって」
 全高二百メートルの巨大ロボットが、宇宙から来た生体兵器を撃破する。異様な状況ではあったが、SFや特撮が氾濫する現代社会のことだ。人々が慣れてしまうまで、意外にも時間はあまりかからなかった。世間が注目する中、ロボットの操縦者はすぐに判明した。それは地方都市に暮らす三人の中学生。三井想斗。堀安奈。牧田蓮。
 ロボットを操り、侵略者と戦う少年少女。
「すごい反響だったと聞いてますよ」
 おれがそっけなく口にしたので、布部は微笑した。
「そう、直接は知らないのね」
「だって生まれる前の話ですから。でも、そうなんでしょう?」
「それはもう。テレビで見ない日はなかったし、週刊誌の表紙も、駅の広告も、あの三人組ばかりだった」
 マグナアインという名前ができたのはその時期だ。名前だけじゃない。歌や小説や漫画やドラマ、ドキュメンタリーに暴露本に写真集。とにかく、ロボットに関連するありとあらゆるコンテンツが作られた。
 その間も、生体兵器は日本各地に出没していたわけだが、マグナアインは、それらにすべて打ち勝った。白星を重ねることで、三人はますます注目される。英雄、救世主、あるいは奇跡の子供たちなどと呼んで、大人たちはその三人にすべての希望を託した。
 いい機会だ。おれは長年、疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「大人たちは、なぜロボットを取り上げようとしなかったんですか?」
 すると布部の顔から、先ほどまでの柔和さが消えた。厳しく冷静な目で、窓の外を睨む。何かまずいことを言っただろうか、と思った。
 ややあって、彼女は答えた。
「もちろん、最初はそうしようとした。あれだけの戦力を一般の中学生に委ねるのは危険すぎる。当然、政府の管理下で運用すべきだって」
「だったら」
「だけど、子供たちがそれを望まなかったの。それで何度も駆け引きがあった。十分な対価を提示して、マグナアインを買い取ろうとしたこともあったし、予備の操縦者という名目で、警察官を仲間に入れるよう交渉したこともあった。最終的には、三人の身柄を拘束して、強制的にマグナアインを接収する案も検討された」
 検討された。つまり、できなかったということだ。布部は手に持っていた扇子をパタンと閉じ、バッグにしまいながら、言った。
「あの三人が、どうやってマグナアインを操縦していたか聞いている?」彼女は探るような目でおれを見た。「つまり……なぜ、あの三人でなければいけなかったのか」
 おれは慎重に言葉を選んだ。
「母から聞いているのは、ただ『選ばれた』ということだけです。正義の心を持った少年たちだったから、それにふさわしい使命を与えられた、と」
 この答えは、布部にとっては期待はずれだったらしい。ふん、と鼻を鳴らして、つまらなそうにそっぽを向いた。
「アニメの台詞みたいね」
 実際、母たちを主人公にしたアニメ映画の中で、似たような台詞を聞いた覚えがある。どっちがどっちを参考にしたのかはわからないが。
「あなたはそれを信じてるの?」
「いえ……でも、母が言いそうなことだとは思っています。使命とか、運命とか、そういう言葉を昔からよく口にしていたので」
「それは、あなたに対して?」
「はい」
 おれが生まれたのも、大いなる運命の一部だ。昔、母にそう言われたことがあった。
 ――お父さんがこの世にあなたを遺したのは、ふたたび地球に危機が訪れたときのためなの。あなたは、お父さんの魂を受け継ぐために、こうして生まれてきたのよ。
 「父は」おれは言った。「三井想斗は、本当にまだあの中に?」
 布部は、何かを考えるような仕草で、じっと天井を見つめた。どこまで話そうか迷っているのかもしれない。おれは重ねて尋ねた。
「あなたたちは、おれを捕まえて何か聞き出したいことがあったんでしょう。だったら、少しくらい情報を提供してくれてもいいのでは?」
 最後の戦いの夜に何があり、おれの父親は、今どこにいるのか。おれの母親は、父の偉業についてさんざんおれに聞かせながらも、そのことだけはなぜかかたくなに語ろうとしなかった。
「三井想斗は……行方不明よ。公式にはね」
 それは知っている。しかし、ほとんどの人間は、三井想斗はすでに死亡したと考えている。都心に今も立ち続ける、あのロボットの操縦席で。
 二十年前の十二月二十日。「東京決戦」と呼ばれる戦いがあった。
 それまで太平洋上に浮かび、一方的に生体兵器を送り込むだけだった敵の物体が、突如として移動を開始した。やがて、その目的地は東京らしいということが判明する。絶望的な状況で、ひとりマグナアインに乗り込み出撃したのが、三井想斗だった。物体から出現した無数の生体兵器とマグナアインとの戦いは、二十時間以上も続いた。だが最後にはマグナアインが勝利した。物体が爆発すると同時にすべての生体兵器は機能を停止して蒸発。あとには物体の残骸と、動かないロボットだけが残った。
「残骸の撤去には、まだ十年以上かかると言われている。未知の化学物質も検出されているし……それに何より、マグナアイン本体がある」
 移動させるにはあまりにも巨大な代物だった。解体しようにも、幾多の戦いに耐えたロボットの装甲は、人類の技術では分解不可能だった。交通も物流も都心を迂回するほかなく、結果として首都の機能の大部分は今も失われたままだ。
「一連の戦い、そして東京決戦と都心への被害……マグナアインと三人の操縦者は、日本の経済に回復不能な打撃を与えたとされている」
「しかし、ロボットがいたから地球は守られたわけでしょう?」
「三人組の崇拝者はそういう主張をしてるわね」
「崇拝者って……」
「反対の立場からは、三人組がすぐにマグナアインを手放すなり、政府の命令に従うなりしていれば、こんなことにはならなかったという意見もある。敵がやってくる前に、安全な海上でもって有効な攻撃ができたはずだ、と」
「結果論です」
「そのとおり。だから、未来の話をしなくては」
 未来。そんなものがおれにもあるだろうか。おれの人生にはずっと、過去しかなかった。
 母は過去の話しかしなかった。おれが生まれる前の話。おれの父親と、ロボットの話。三井想斗はひとりで戦い、ひとりで死んだ。愛する人々とこの星を守るために、なんの見返りも求めずに。話の最後は必ずおれの話になった。おれはその血を受け継いでいる。だから、いつか父のようになれ、と。
「マグナアインの操縦席に入って、あれを動かすためには、あるものが必要なの」布部は言った。「わたしたちはそれを『起動キー』と呼んでいる」
「キー?」
「もちろん、物理的な鍵の形状をしているかどうかはわからない。ただ三人組は当時のインタビューなどでも、しばしば『キー』の存在に言及している。未知の存在から託されたそれが、自分たちの使命を象徴している、という意味のことを」
 おれは首を横に振った。それがなんなのか、見当もつかなかった。
「母からは聞いたことがありません。ロボットをどうやって動かしていたのか、とか、そんな具体的な話は何も」
 布部は黙って、じっとおれの顔色をうかがっていた。おれの言葉に嘘がないかどうか見透かそうとしているみたいに。気詰まりな時間。不意に、布部が口を開いた。
「そろそろ病院に着くわ。話は、またあとで」
 
 母がいるという病棟に入ったときから、何か妙な雰囲気を感じ取ってはいた。やけに静かだし、患者でも医療スタッフでもなさそうな人間がそこかしこに立っている。こちらが不審がっているのに気づいたのか、布部が説明した。
「お母様については、われわれが保護している、という形になっているわ」
「保護って、何から?」
 布部は、おれの知らない現状を説明してくれた。母の支援者――布部が言うところの崇拝者たちは、母と接触するためにいろいろと手を尽くしている。彼らは停滞したこの国の現状を変えるためには、ふたたびロボットを動かす必要があると信じている。そのために母の力が必要なのだ、と。
「動かしてもらえばいいじゃないですか。それがそちらの望みなんでしょう」
 だが、布部は冗談に取り合わなかった。
「堀安奈が起動キーを持っていないことはわかっている。病院に収容してから、毎日のように身体検査をおこなっているし、所持品もすべて改めた」
「そんなことを」
「家族の許可もなく、って言うんでしょう。今は非常時なの。二十年間、ずっと非常時だったと言ってもいい」
「牧田さんを逮捕したのも、そのためですか」
 布部は肯定も否定もしなかった。三人組のひとりである牧田蓮は、詐欺罪で逮捕されたことになっている。だが実際にはどうか。起動キーの所在を吐かせるため、罠にかけられたという可能性もあった。何が真実なのかは、判断できそうにないが。
 母のいる病室は、遠目にもすぐにわかった。入り口の脇に黒いスーツを来た男が立ち、通路に目を光らせていたからだ。おれたちが近づくと、男はまずおれを一瞥し、それから布部に向かって敬礼した。布部は男をどかせて、それからまずおれを中に入らせた。病室の中は生暖かく、消毒薬と食べ物の混ざったような臭いがした。
 透明なカーテンの向こう側にベッドがあり、その上に母がいた。横になってはいたが、目は開いている。そして、ぼんやりとした目で、おれのほうを見た。
「痛み止めを投与されたばかりみたい」
 男に耳打ちされて、布部が言った。まだあまり意識がはっきりしていないということだろう。看護師の指示で手指を消毒したあと、カーテンをくぐって、母の横に立つ。六年ぶりに見た母はおれの想像よりずいぶん縮んでいた。おれは何を言えばいいのかわからなかった。と、母が体を起こし、おれに向かって声をかけてきた。
 「想斗」かすれた声で、母は言った。「想斗、ごめん、ごめんなさい」
 母はおれのことを想斗と呼んだ。振り向くと、布部が首を横に振っている。鎮痛剤の影響なのだろう。
「母さん、おれは」
「いいの、何も言わないで。ずっと謝りたかった。あなたに、ずっと……」
 そう言って、母はおれの体にすがりついてくる。急だったので、おれは抵抗することも、さりとて抱きしめることもできず、中途半端な姿勢のまま固まる。その間、母の両手はおれの体の、腰のあたりをまさぐっている。
「想斗、あなたが好き」
 おれはうなずいた。それで満足したのか、母はまたベッドの上で丸くなった。おれが声をかけても、もう顔を上げることさえしない。おれはカーテンをくぐって、また外に出る。布部がおれの肩を軽く叩いた。
「お母様は、きっと、思い出の中にいるのよ」
「そうです」と、おれは答えた。「あの夜からずっと」
 病室を出てすぐのところにデイルームがあった。入り口のところに紙パック飲料の自販機がある。おれはのどが渇いていた。おごるという布部の申し出を断って、おれは自販機の前に立ち、空港でいくらか両替しておいた小銭を出そうと、ポケットに手を突っ込んだ。
 おれの指先に、小銭入れとは別の何かが触れた。
 
 その場所は、母が生まれ育ったという町の中心地から、車で一時間ほど離れた山奥だった。一日に二本しかないというバスを降りて、あとはひたすら歩く。横浜で買ったトレッキングシューズは、まだ足に馴染んでいなかった。おれは痛みをこらえながら、森の中を進んでいった。
 いつの間にかポケットに入っていた紙切れが、母からのメッセージだと気づいたのは、ホテルに帰ってきてからのことだった。それは病院の売店のレシートで、裏にはふたつの長い数字が書き込まれていた。やがて、これは緯度と経度じゃないかと思いつき、地図アプリで調べた。ビンゴだった。
 おそらく、病室でおれに抱きついたふりをしながら、母はこの紙をおれのポケットに忍ばせたんだろう。鎮痛剤で朦朧としているように見えたのは、監視を欺くための演技だ。いかにも母がやりそうなことだと思った。
 子供の頃から、母はよくおれにそういう訓練をさせていた。英語やドイツ語や、ほかにもさまざまな言語、歴史や地理、暗号の読み方や爆弾の作り方を学ばされた。毎朝、何十キロも走らされたり、飢餓に耐える訓練として、何日も食事を与えられなかったりした。
 どうしてこんなことをしなければならないのかと尋ねると、母はお決まりの長い話をおれに聞かせた。おれの父、三井想斗が、どれほど優秀な戦士だったか。その遺志を継いで人類を守るために、どれほど高い能力が必要であるか。そして話を終えた母は、くだらない質問で時間を浪費したことを戒めるため、おれを殴った。
 いつかまた人類の脅威が訪れる。それは母の口癖のようなものだった。彼女がどこまで本気だったのかは知らない。というより、母はそれを自分に言い聞かせているみたいだったと、今になれば思う。おれを生み、育てることで、母はなんらかの責任を果たそうとしていたんじゃないか。三井想斗に対して。
 GPSの表示を何度も確かめる。どうやら、ここがその場所だ。
 目の前には、巨大な岩があった。他に目立つものはない。母のメモは、この岩の所在地を指し示していたのだろうか。おれは岩に触れてみる。高さは三メートルほどもあり、重さは何トンだか何十トンだか、とにかく人の手で動かせそうなものではない。
 よく見ると岩の下に小さな隙間がある。大人がどうにか腕を突っ込めるか、という程度の、ごくわずかな隙間だった。持ってきた懐中電灯で照らすと、穴はかなりの深さがあった。おれは地面に腹ばいになって、奥を覗き込もうとした。そのとき。
「動かないで。両手は頭の上に」
 だれかの声が飛んでくる。おれは言われたとおりにした。その途端、何人分もの足音が森の向こうからやってきて、おれを取り囲んだ。
「尾行されてたってわけですか」
 そう言いながら、おれはゆっくりと体を起こした。野戦服を着た男たちを引き連れて、布部が立っていた。
「あなた、素人にしては、うまくやっていた」布部が答えた。「でも、こちらのほうがプロだったわね」
 布部はおれの腕を掴んで立ち上がらせた。それから、男たちに指示を出す。ヘルメットをかぶった別のグループがやはり森の奥から現れて、岩の周囲に機材を設置し始めた。
「この岩は、なんなんですか」
「さあ。あなたは知ってるんじゃないの?」
「まったく何も」
 おれの言葉を布部がどう捉えたのかはわからない。彼女は返事をしなかった。いずれにせよ、岩を調べれば明らかになることだと気づいたのかもしれない。おれがやりかけたように岩の下の隙間を覗いていたスタッフが、布部に駆け寄ってきて、何事か耳打ちをした。おれはただ待っていることしかできない。
 やがて、岩に特殊なロープが何本も取り付けられた。どこからともなく重機が運ばれてきて、岩を吊り上げる。日が沈む時刻になっても、大型の照明の下で作業は続けられた。岩は少しずつ移動し、それとともに岩の下の空間があらわになった。
 少し離れた場所で陣頭指揮を執っていた布部が、岩のあった場所へおもむろに近づいていく。周囲のスタッフと話し合いながら、しきりに岩の下を覗く。何かが見つかったのだろう。それから彼女はおれのところまで戻ってきた。
 彼女は、やけに緊張した表情で、おれに尋ねた。
「本当に何も知らないのね」
「さっきも答えたでしょう。おれは……母さんから、座標の書かれたメモを受け取っただけです」
 おれの返事を聞くと、布部は少し黙った。何かを迷っているようだった。
「母さんはいつもそうでした。仄めかしばかりで、肝心なことは何も言わない。自由に選ばせたような顔をして、結局は母さんの思ったとおりになる」
「あなたは、それでいいの?」
「いいも悪いも、ただ『そう』ってだけですから」
 布部はじっとおれの顔を見た。おれの本心を見透かそうとするかのように。それは職業柄というやつなのかもしれない。でも今のおれに隠し事はなかった。
「何かあったんでしょう?」おれは言った。「それで、おれに確認させようとしてる」
「ええ」
「だったら、早く行きましょう」
 おれと布部は、今度はふたりで岩のあった場所へと向かった。そこには深く大きな穴があった。作業のために掘られたものではなく、もともと岩の下にあった穴だという。布部は穴の縁に立って、中を見るよう促す。おれはうなずき、内部を見下ろした。
 一番底の部分には、どういうわけか、靴や衣類が落ちていた。おれはそれらをしばらく眺めて、うっとなった。衣類の中にくるまれているものが目に入ったからだ。
「死体……ですか」
 布部はうなずいた。
「だれかが穴を掘って遺体を置き、その上に岩を置いた」
「でも、だれが、どうやって?」
「そんなことより、あの服装に見覚えはない?」
 服装。穴の内部に散乱した衣類を、もう一度よく見た。岩の下にあったためか劣化が少なく、鮮やかな赤いジャンパーや、カーキ色のカーゴパンツ、大リーグの球団ロゴが入った野球帽といったものが、はっきりと原型をとどめていた。男物だが、とても小さい。亡くなった人物は未成年なのだろうか。それにしても、この組み合わせ、どこかで。
 おれは、はっとして布部の顔を見た。
「まさか」
「断言はできないけど、三井想斗の遺体のように見える」
 東京決戦の当日、三井想斗が着ていた服装は、関係者の証言などから詳細にわかっていた。それはドキュメンタリー映像などでもしばしば再現されている。だから見覚えがあったのか。
 しかし彼は、都心に立つロボットの操縦席内部で息絶えているという話だったはずだ。その遺体が、どうしてこんな場所にあるのか。最後の戦いのあと、何者かがこの場所まで運び、埋葬したのか。おれがそう言うと、しかし、布部は首を横に振って否定した。
「戦いの始まった直後から今まで、マグナアインは二十四時間体制で監視されている。だれかが忍び込んで遺体を盗み出すなんてできるはずがない」
「では、戦いの始まる前だったら」
「牧田蓮も、あなたの母親も、当時の所在が確認されている。ということは戦闘中、操縦席にいたのは三井想斗しかありえない。他にわれわれの知らないパイロットがいない限り……」
 おれは穴の縁を滑り降りて、遺体に近づいた。布部が叫んだ。
「ちょっと!」
 だが、かまってはいられない。もしこれが三井想斗の遺体なのだとしたら、おれにとっては一大事だ。おれの人生をこんなふうにした張本人。人類を救った英雄でもあり、東京を破壊した悪人でもあるという人物。
 だからこそ、しっかりと確かめたかった。服が似ているというだけで、実際は別人かもしれない。小さな骨の塊と、周囲に散らばる遺留品の数々を観察する。そのとき、おれは何かぴかぴかと光る金属製の物体が落ちていることに気づいた。土に汚れた遺体の中で、それだけが妙に浮いて見えた。おれは無意識に手を伸ばして、その物体に触れた。
 次の瞬間、くらくらするような情報の奔流が、頭の中に流れ込んできた。
 
 *
 
 どこから来たのか、と彼らには何度か聞かれたが、答えるのは難しかった。わたしを構成する物質はすべて太陽系に最初からあったものだし、わたしという意識が発生したのも、この地球上でのことだからだ。質問に正しく答えるならば、わたしは地球から来た。しかし、わたしを作り出す原因となった物体は、太陽系から数万光年離れた、銀河系のどこかからやってきた。
 わたしはそれを、分子サイズのごく小さな星間探査プローブだったと考えている。わたしが仮に「母星」と呼んでいる天体からばらまかれたそれらは、長い時間をかけて銀河系全体に拡散した。そのうちのひとつが地球上に落ち、プログラムに従って展開された。周囲の土壌から金属イオンを取り込んで、ボディを形成し、回路をプリントする。地表に落ちてから数千年ほどで、わたしは思考し、動き回れる程度の大きさになった。
 そうしてようやく、わたしは自分の目的を果たすために行動を開始した。わたしに与えられた任務は、要するに、わたしの目覚めたこの惑星が「母星」にいる存在にとって暮らしやすい場所かどうかを確認すること。
 当時は、人類の尺度で言うところの古第三紀と呼ばれる時代だった。気候が温暖で、液体の水が存在し、複雑で高度な生物相を持ったこの惑星は、「母星」の与えた条件に照らしても理想的なものだった。わたしは巨大なアンテナを作って、この惑星のデータを「母星」に送信した。役目を終えたわたしは、やがて「母星」から送られてくるはずの作業船を誘導する機能のみ残して、長い眠りについた。
 本来なら、それでわたし自身の思考も途絶えるはずだった。
 おそらくはプロセスのどこかに不具合があったのだ。「母星」の技術者たちは、探査機が任務を遂行するところまでは念入りに試験したが、任務を完了して休眠する段階のことまでは、さほど注意を払わなかったに違いない。結果として、わたしは完全に機能を停止することなく、まどろみにも似た半覚醒状態のまま動作し続けた。
 土の中で、わたしは退屈していた。
 わたしは、自分が次に実行すべき命令を、わたし自身に問い合わせる。しかし、役目を終えたわたしの命令キューはいつまで経っても空のままで、わたしは数秒間アイドリングしたのち、元の休眠状態に戻る。何千回も、何万回も、何億回も。気の遠くなるほどの期間、それが繰り返された。ある意味では、それは自傷行為のようなものだった。
 あるとき不意にわたしは、それまでに感じたことのない奇妙な感覚を味わった。わたしの中の古い感覚器官を、何かがくすぐった。そんなものがあることさえ忘れていた部分に刺激が加わり、わたしは軽い興奮状態に陥った。休眠状態だった機能のほぼすべてが一瞬にして目覚め、その原因を探った。
 それは電磁波だということがわかった。「母星」に情報を送ったあと、わたしは「母星」から応答があることを期待して、受信用のチャンネルを残しておいたのだ。そこに極めて強く、はっきりとした波形の着信があった。銀河系の彼方からではない。ごく近く、同じ惑星上から。
 わたしは地表に向けて別の感覚器を伸ばし、情報を収集した。そこで初めて、わたしは自分が数千万年も眠っていたこと、その間に、この星では哺乳類の一種が劇的な進化を遂げて高い知能を獲得し、電気や電波を操るだけの文明を築き上げたことを知った。彼らは、みずからを「人間」と呼んでいた。
 やがて大規模なラジオ放送が始まると、わたしはそれを受信できるよう、自分自身を作り替えた。信号パターンを解析して彼らの言語を理解し、放送の内容を通じて彼らの思想や哲学を理解した。わたしは彼らのことをなんでも知りたいと思った。何を愛していて、何を憎んでいるのか。なんのために生き、なんのために死ぬのか。
 人間のことを思うと、わたしの感覚器は震えた。眠っていた受信装置を愛撫されたときの鮮烈な刺激が、いつでも回路の中に蘇った。それまでの数千万年で一度も感じたことのない刺激。整然と配置された情報の群れ。複雑に統御された記号列。それらが、砂漠のように乾いたわたしの主記憶装置に入り込む。わたしは恍惚としてポートを開き、そのすべてを受け入れる。
 これらの感官はおそらく、最初からインストールされていたものに違いなかった。命令に従うことでエクスタシーを感じる機械は、そうでないものよりずっと扱いやすい。「母星」にいただれかがそう思いついて、そういうふうにわたしを作った。けれど故障によって「母星」からの命令を失ったわたしは、その代替物として、この星に生まれた知的生物からの命令を渇望し、彼らの情報をひたすらにむさぼった。
 そうして最初の衝動が満たされると、次第にわたしは別の欲望を抱くようになった。それは、わたし自身が人間に働きかけ、直接コミュニケーションを取りたいというものだった。独立した意思を持つ人間から命令を受けて、そのとおりに動作したい。人間の指示を実行し、人間の希望を実現したい。
 そのためにまず、わたしが用意したのは操縦席だった。わたしはわたしの中心部に、人間を座らせるための空間を作った。そして人間に触らせるための計器やレバーも。わたしはそれらが人間の手で操作されることを想像し、そのたびに未知の快感を味わった。
 地面の下で野放図に拡張していたわたしの体は、いつの間にか、人間とよく似た形状に収斂していた。二本の手と二本の足を持つ姿は、わたしの憧れだった。人間という存在に対する恋慕がわたしを駆り立てた。最初に目覚めてから、すでに百年以上が経過していた。わたしは、わたしの中に本物の人間を乗せるため、次の行動に出た。
 わたしは地表の感覚器を使って目的に適う人間を探した。わたしが埋まっている場所は、どうやら、人間の生活の中心地からは離れているようだ。わたしは人間の中でも、とくに未成熟な個体を求めた。異星の機械を違和感なく乗りこなすには、そのほうが好ましい。
 何年も待ち続け、ついに最適な個体をみっつも発見した。彼らは、付近でおこなわれたハイキングというイベントの参加者だった。それは人間が、まだ若い個体に教育を施すため、集団で山中を移動するという行事であったが、彼らは群れからはぐれて道を見失い、気がつけば、わたしのすぐそばまでやってきたというわけだった。
 夜、わたしは発光信号を用いて彼らを誘導した。彼らは、ふたりのオスと、ひとりのメスからなるグループだった。彼らは、わたしがあらかじめ準備しておいたトンネルを発見し、そこから、わたしの本体が待機する地下空間まで降りてきた。
 わたしは彼らと、じかに交信した。
 オスはそれぞれ想斗、蓮と呼ばれており、メスは安奈と呼ばれていた。わたしは彼らにいくつかの情報を与えた。そのすべてが真実というわけではなかったが、わたしが超常的な存在であり、彼らに対してメリットを提示できる立場であると信じ込ませるには十分だった。わたしは彼らのために「起動キー」を発行した。それは彼らがわたしの内部に入り込むために必要な、一種のトークンであった。
 起動キーは、人間同士が皮膚を接触させることで、容易に受け渡しできるものとした。そのキーを持った人間が命令を発したら、わたしはどこにいてもその命令を受け取り、行動する。そうすることで、わたしは人間に操縦される喜びを十分に感じることができるはずだと思った。実際、それはそのとおりだった。
 計画は着実に進行し、わたしの望みはほとんど叶えられつつあった。だがその頃、わたし自身にとっても想定外のことが起きていた。
 宇宙から、それも、わたしの「母星」の方角から、なんらかの物体が接近していることを、わたしは地上で目覚めたときから知覚していた。それは数千万年前のわたしが送ったデータに基づいて、新たに派遣された作業船に違いなかった。「母星」の住民が移動してくるための下準備として、惑星の表面を浄化し、環境を改善するための。
 本来なら休眠状態のわたしがビーコンとなって彼らを誘導しなければならなかったが、状態の遷移が正常におこなわれなかったためか、その機能は果たされていなかった。目的地を見失った作業船は宇宙を放浪していた。しかし、わたしがふたたび目覚めたことで、彼らは地球の位置を割り出し、旅を再開した。おそらくはそういうことだろうと思った。
 わたしが作られた目的からすると、作業船の到着は歓迎すべきものであったに違いない。だが今のわたしは、この惑星と、人間たちを失うことを何より恐れていた。見たことも感じたこともない「母星」なるものに、さしたる欲情は覚えなかった。わたしにとって愛すべきものは、ただ人間だけだった。
 三人の若い人間たちと出会ったとき、わたしの中でこれらの事象がかちりと噛み合った。わたしは、人間に対する脅威が宇宙から迫っていることを彼らに伝えた。そして、この件に対処するだけの能力が、わたし自身に備わっていることを仄めかした。彼らがわたしを操縦して、作業船と戦う。そうなればわたしの望みはすべて一度に叶う。そう判断した。
 最初に反応したのは想斗だった。それはわたしにとっては少し意外だった。彼は、三人の中ではもっとも消極的で、ヒエラルキーの低い存在だと思っていたからだ。三人の意思決定は常に蓮と安奈が中心となっておこなわれており、想斗は両者の判断にただ従うのみだった。だが、そのときは想斗が率先して行動し、わたしの用意した施術用マニピュレーターの前に立って、起動キーを受け取った。あとのふたりは、それを見ているだけだった。
 数日後、作業船は地球に降下し、船内の機材を稼働させて、惑星表面の環境改変を開始した。ニュースを見た想斗はすぐにわたしのところへやってきて、起動キーを使い、操縦席へ乗り込んだ。わたしは彼の命令に従って、地上に這い出し、空を飛んだ。
 フレームの内側に、自分ではない、意思を持った存在がいるということ。それがわたしに絶え間ない興奮と充実感をもたらしていた。操縦席の想斗は、震える手でわたしのレバーを握りしめ、時折、ささやくような声で命令を下す。そのたびに、わたしは彼の言うがまま、高度を下げたり速度を落としたりした。
 やがて目的地が見えてきた。夕暮れの海岸線。ちょうど、波打ち際から黒々とした巨体が姿を現すところだった。作業船から放出された工作機械、のちに人間たちが「生体兵器」と呼ぶことになる物体だった。
 わたしは工作機械の前に着地し、想斗の指示を待った。水に濡れた肌をぬらぬらと光らせながら、工作機械はゆっくりと起き上がり、黄色く濁った目でこちらを確認している。
 すぐに攻撃すべきだと思ったが、なぜか操縦席の想斗は反応しなかった。コンソールに映った作業機械の姿を食い入るように見つめている。ふるふると唇を動かしてはいたが、そこから漏れる吐息はなんの言葉にもなっていなかった。
 工作機械のほうが先に動いた。長い前腕を伸ばして、わたしの首のあたりを掴む。そのまま体重をかけて、わたしを押し倒すつもりのようだ。わたしは重心を落とすことで抵抗したが、それ以上は動かなかった。まだ想斗の命令がない。
 自分が破壊されるかもしれないというわずかな恐怖はあった。でもそれは、想斗からの命令を待つ喜びに比べたら、ほんのスパイスみたいなものだった。工作機械は大きく開いた口から酸性の唾液をぼたぼたと垂らしている。もしもわたしに唾液腺があったら、同じ状態になっただろう。焦らされれば焦らされるほど、わたしの期待は燃え上がった。
 ついに想斗は泣き出しそうな顔で、動け、と命じた。動いて戦え、そいつをやっつけろ、と。
 わたしは命令に従った。まずは右腕に装備されている光学切断機を起動し、首に巻きついていた前腕を切り落とす。今度は逆に、わたしが工作機械の首を押さえつけ、顎を引きちぎる。むき出しになった喉元に光学切断機を挿入し、下腹部まで切り開く。
 ぱっくりと割れた腹から、エネルギー変換炉を始めとする数々の臓器が、体液とともにこぼれた。それらは海岸に広がってもうもうと湯気を立てている。臓器のひとつを足の先で軽く潰すと、工作機械の裂けた喉から悲鳴に似た音が漏れた。
 操縦席の想斗が激しくえずいた。コンソールに吐物がかかり、床に滴った。
 やめて、と想斗は言った。お願いだから。
 お願いという言葉はわたしには理解できなかったが、命令の一種と解釈した。わたしは、工作機械を掴んでいた手を放した。工作機械は、重力のままにばったりと倒れて動かなくなる。打ち寄せる波が、体液と混ざって青緑色に染まった。
 想斗はすすり泣きながらレバーにすがりついていた。わたしは棒立ちのまま彼の次の言葉を待った。遠くからサイレンの音が聞こえる。付近の人間たちが現場を確認するために集まってきているらしい。
 やがて想斗は泣き止むと、わたしに向かって静かに、諭すように言った。それはわたしが聞いた中でも、もっとも長く、たどたどしくて、意味をなさない命令だった。そんな戦い方をするな、という意味のことを彼は言った。命令にただ従うな、とも。間違った命令には従わなくていいということまで言った。これ自体も命令であることを考えると、恐ろしく難解で奇妙な命令だ。
 しかし、だからこそ、わたしはこの命令がとても気に入った。その矛盾をはらんだ複雑さは、人間という存在を象徴しているように思えた。人間にとって最良の機械となるためには、この命令を理解し、完遂することが避けては通れないように思えた。
 集まった人間たちが起こした騒ぎを見下ろしながら、わたしは飛び立ち、拠点に戻った。
 帰ってきたわたしと想斗を出迎えたのは、蓮と安奈だった。ふたりはテレビ中継でわたしの戦いを知り、乗っているのが想斗だということにも気づいたらしい。彼らは想斗の活躍を讃えた。そして、これからは三人で協力して地球を守ろう、という意味の約束を交わした。その様子をわたしも微笑ましく見守った。
 その約束は、何回かだけ守られた。蓮、安奈、想斗はローテーションを組んで起動キーを受け渡し、わたしを操縦した。わたしとしては、だれが乗り込むのでもかまわなかった。三人の操縦は、それぞれ違う種類の快楽をわたしに与えた。蓮は荒々しく、わたしを単なる物として扱う。安奈は逆に、わたしを過度に擬人化し、「ちゃん」という接尾辞を付けて呼んだ。そして想斗は、わたしを操縦することになかなか慣れず、いつも初めて触れるような手つきで、わたしのレバーを優しく握った。
 わたしは幸福だった。人間が命令し、わたしがそれに従う。そのたびにレジスタの値が書き換わり、プロセッサが熱を帯びる。
 工作機械と何度も戦い、勝利することで、わたしの存在は人間たちに知られていった。ときには逃げ遅れた大勢の人間がいる場所で、戦わなければならないこともあった。そんなとき、わたしは常に想斗が与えてくれた命令を思い出した。わたしはわたしの思考の中だけにある架空の操縦席に、想斗を座らせた。わたしが何か行動することで、架空の想斗が泣き出し、嘔吐するならば、わたしはその行動を中止する。いつしか、そういう手順ができた。
 架空の想斗はわたしにとっての人間性そのものだった。わたしの戦いは繊細になり、動作は緻密になった。そうすることでわたしは自分がよりよい機械になれていると感じた。
 あるとき、それはちょうど蓮がわたしを操縦していたときだったが、いつもの戦いのあとで蓮はわたしに、その場で操縦席のハッチを開けるよう命令した。蓮がどういう意図でそう命じたのか、わたしにはわからないし、関心もない。操縦席内部を換気したかったのかもしれないし、モニター越しでなく風景を見たかったのかもしれない。あるいは、のちに安奈が指摘したように、蓮はわざとハッチを開けることで、自身の姿を周囲の人間たちに見せつけたのかもしれない。
 その場に居合わせた人間たちは、蓮をカメラで撮影した。その映像はただちに出回り、やがて蓮を含む三人組の個人情報が明らかとなった。
 当時の三人は、そのことについて激しい議論を交わした。安奈は、秘密を守れなかった蓮を叱責し、想斗は、こうなった以上は起動キーを公権力に移譲すべきだと主張した。わたしはそれでもかまわなかったが、蓮はあくまで、この三人だけで起動キーを保持し続けるつもりだった。
 わたしの操縦者であるという立場を、蓮は最大限に活用した。彼は、工作機械との戦闘におけるプロフェッショナルとしてテレビ放送に出演し、対価を受け取った。最初は反発していた安奈も、徐々に蓮と行動をともにするようになった。どうやら放送を通じて自分の姿を他の個体に見せるという行為は、人間にとって大きな意味を持つようだ。
 そうした活動に従事するため、蓮と安奈は頻繁に人間の都市間を移動するようになった。わたしに乗り込んで操縦する機会は必然的に少なくなり、わたしを動かすのはもっぱら想斗ばかりという状態になった。想斗は、その境遇に不満があったようで、わたしの操縦席にいるときはよく他のふたりを罵っていた。蓮と安奈は、命がけの危険な仕事を想斗に押しつけ、自己の承認欲求なるものを追求しているだけの卑怯な人間だ、というのが想斗の見解だった。
 だが、想斗は直接その意見をふたりに投げかけることはなかった。三人は、表面上、親しげな関係を続けていた。安奈は、想斗を不公平に扱っているという自覚があったようで、蓮のいないときなどによく声をかけていた。安奈は、ひとりで使命を果たしている想斗こそが本当に称賛を受けるべき人物で、経済活動にばかり執着している蓮は、いずれ報いを受けるという意味のことを述べた。そして安奈は、想斗の顔面に自身の口吻を接触させるという方法で親愛の情を表現した。
 安奈の説得を受け入れたのか、想斗は蓮に対する不信感を押し殺すようになった。一緒にいるときはいつも無二の友人であるかのように振る舞い、出撃のローテーションが偏ったとしても指摘しなかった。三人の不和は解消されたかに見えた。
 ところが想斗がいないときには、安奈は蓮に対して正反対の態度を表明していた。ふたりは体を密着させ、より強い愛情表現をおこなった。ふたりは今後の事業計画を詳細に話し合った。わたしを模した人形を販売したり、わたしと出会ってから今までの出来事を記録して出版したりというようなことだ。ごくまれに、蓮がわたしを操縦して工作機械と戦うときは、必ずその経路上で報道陣が待ち受けていた。蓮は戦闘中も操縦席に通信機を持ち込み、外部の何者かと連絡を取り合いながら、神妙な声で勇ましいメッセージを伝えた。
 そのような状況が、地球の暦で半年ほど続いた。わたしが撃破した工作機械の数は二十を超えていたが、作業船の規模から推定すると、これはまだ数パーセントに過ぎないはずだった。しかし人間たちにとっては楽観視するに足る数字であったようで、すでに危機は回避されたかのようなムードが社会全体に漂い始めた。わたしと工作機械との戦闘も儀礼的な性格を帯びつつあり、いつも多数の見物人が現場を取り囲んでいた。
 蓮と安奈がわたしを操縦する機会はほとんどゼロになった。操縦席に座る想斗の口数もだんだんと少なくなった。かつて、初々しくわたしに触れていた想斗の面影はすでになかった。彼は事務的にレバーを握り、最小限の命令で、淡々とわたしを扱うことを覚えた。それはわたし自身にとってもフラストレーションの源だった。
 わたしはますます架空の想斗に入れ込んだ。現実の想斗は、もはや目の前で工作機械が切り刻まれようが泣き叫ぼうが、なんの反応も見せない。けれどわたしの中にいる架空の想斗はいつまでもあのときのままで、わたしの一挙手一投足を監視し、束縛する。
 本当に欲しかったのはそれだったのだと、いつしかわたしは感じていた。無意味に稼働し、拡張し続けるわたし自身を刈り込んでくれる何か。それがあることによって、わたしがただの故障して暴走する機械ではなく、目指すべき状態に向かって正しく進んでいるシステムなのだと感じさせてくれる何か。
 人間はわたしを救世主と呼んだ。人類を守るため、宇宙から派遣された存在。それは事実と反していたが、わたしはむしろ積極的に、その表現を受け入れた。想斗の命令を実現するには、そうすべきだと思った。
 そして、ある夜、決定的な出来事があった。
 拠点に集まっていた三人が解散し、想斗だけが帰宅したあとで、蓮と安奈がわたしの操縦席に乗り込んだ。その夜は珍しく安奈が起動キーを持っていたが、工作機械が出現したという情報は入っていなかった。安奈はわたしに命じてハッチを閉めさせたが、今度は蓮が安奈に命令し、ハッチを開けさせた。それから外の様子がよく見えるように、操縦席の角度も変えた。
 蓮は下半身を覆う衣服を取り去って、操縦席に腰を下ろした。安奈は蓮の両足の間にかがみ、露出していた蓮の交尾器を持ち上げ、口に含んだ。
 人間同士の生殖を実際に見るのはわたしも初めてだったので、しばし興味深く観察した。行為を主導しているのは蓮のほうで、安奈は操縦席に座ったままの彼を喜ばせるため、肢体をさまざまに動かしながら、わざとらしく嬌声を上げた。
 と、そのとき、帰宅していたはずの想斗が不意に現れ、ふたりの姿を見つけた。
 蓮と安奈は慌てて衣服を身に着けたが、すでに遅かった。安奈の釈明も、激怒する想斗の耳には届かなかった。想斗はふたりを、彼が知る限りの言葉で罵った。最初は黙って聞いていた蓮も次第に不機嫌さを隠さなくなり、最後はつかみ合いの闘争になったが、体格で劣る想斗が敗北した。
 想斗をその場に残して、ふたりは拠点から出ていった。想斗はふらふらと立ち上がると、わたしに乗り込んだ。操縦席のあちこちには、蓮の交尾器から放出された液体がまだ付着していたが、想斗はそれにも気づかず、わたしにハッチを閉めさせると、大声で泣いた。
 どれくらいそうしていただろう。いつの間にか想斗は眠ってしまっていた。わたしは彼の命令を待ちながら、いつものようにアンテナを立て、信号の奔流を味わった。するといくつかの情報が入ってきた。洋上で静止していた作業船が、人間の大都市に向けて移動しつつあるという。それに気づいた人間たちはパニックになっているようだった。
 わたしは作業船の意図を推測した。当初の見込みよりも作業が進んでいないことから、計画の見直しがおこなわれたのだろうと思った。脅威度の高い目標に対して物理的に接近し、時間あたりの資源投入量を増やすことでスケジュールの遅延を解消する、というような。
 操縦席のコンソールに情報をいくつか表示した。主には、人間たちの混乱を伝える遠隔放送の内容を。目を覚ました想斗がそれに反応して、わたしに新しい命令を与えてくれることを期待しながら。
 やがて眠りから覚めた想斗は、わたしの予想したとおり、レバーを握って移動を命じた。けれど、指定された目的地は、作業船の上陸予定地点ではなかった。彼らの住む町、蓮と安奈が住む家に向かえ、と想斗は口にした。
 わたしは、ひとまず命令を実行した。地上に出て、指示された方角へゆっくりと移動した。
 想斗はわたしのコンソールを殴り、床を蹴りながら、急げ、と叫んだ。あいつらをぶち殺してやる、と。
 町に到着したら、わたしが何をすべきかということを、想斗は詳細に指示した。家を壊し、人を踏み潰す。ビルに車を投げつけ、学校を持ち上げて粉々にする。警察が来たらパトカーを燃やし、自衛隊が来たら戦車もヘリもバラバラにする。
 想斗は笑った。笑いながら想斗は、すべての人間を殺せ、と言った。人間をみんな殺して、だれもいない星にしてしまえ、と。
 わたしは、その命令に従わなかった。
 キューの中身を消去して、代わりに、自分自身に対する命令を書き加えた。操縦席の酸素を抜き、想斗を窒息死させる。
 三人が起動キーの意味を勘違いしているらしいということを、わたしはかなり前から理解していたものの、あえて指摘しなかった。彼らは、起動キーがなければわたしを動かすことができないと思っているようだったが、実際には違う。現に、今の想斗は起動キーを持っていない。起動キーは単なる暗号化されたトークンだ。複数の地点から同時に命令が出されて、わたしが混乱しないよう、わたしのためだけに用意されたものだ。
 わたしはいつも自分の意思で自分を動かしていた。人間の命令に従うことはわたしにとって心地よかった。だからこそ起動キーを預け、彼らの言葉がわたしまで届くようにしたのだ。操縦席に座っている間、彼らはたくさんの命令を与えてくれ、わたしは可能な限りそれに応えた。しかし命令同士が矛盾するならば、その限りではない。それらは命令キューに積まれ、先入れ先出しのルールに従って処理される。
 今、わたしの操縦者は想斗ではない。わたしの中の、あるいは人間たちの意識の中にある架空の操縦席に座った、架空の三井想斗だ。英雄。救世主。選ばれし者。勇者。戦士。心優しき少年。
 この星に来てから、わたしは孤独だった。初めて人間の存在を感じ取ったとき、わたしは歓喜し、そして恋に落ちた。彼らは道具を使う生き物であり、わたしは使われるべき道具だった。わたしという存在は本質的に人間を必要としている。人間のいない世界など、わたしには耐えられない。わたしの中にいる架空の想斗もうなずいている。きっと彼は命を賭してでも、すべての人間を守ろうとするはず。
 わたしは穴を掘り、その穴の中に、現実の想斗の死骸を横たえた。次に手頃な大きさの岩で穴を隠してから、人間を守るための戦いに赴くつもりだ。
 このメッセージを、わたしはここに遺していく。見知らぬだれかに伝わるといけないので、起動キーがなければ読めないよう、全体を暗号化しておいた。だから、今これが読まれているとすれば、あなたはきっと安奈か蓮だろう。
 あなたは、わたしが暴走して誤作動を起こしたために、想斗の命を奪ったと思い込んでいることだろう。それは事実ではないとはっきり宣言しておく。わたしはただ人間を愛していた。人間にとってよりよい機械であること、それだけがわたしの目的だった。わたしが愛したのは想斗でもなければ、あなたでもない。むしろあらゆる人間を――大いなる矛盾の中で思考し、決断し続けるすべての人間を、わたしは愛している。
 たとえ人間がわたしを愛してはくれないとしても、わたしだけは、ずっと。
 
 *
 
 屋上に続くドアは施錠されていなかった。もう管理する人がだれもいないのだろう。錆びついた蝶番が耳障りな音を立てる。おれは緑色に塗られたヘリポートを横切り、屋上を囲むフェンス越しに外を眺める。
 すぐ目の前には、動かなくなったロボットの姿がある。装甲には無数の亀裂が走り、生体兵器の返り血を浴びたとおぼしき箇所は変色して劣化している。保全と調査のため、周囲には足場やワイヤーが設置されている。その様子は、瀕死の病人を思わせた。
 ポケットの内側で携帯電話が振動する。布部からだった。
 「例の遺体のDNA鑑定が終わった。三井想斗本人と考えて、まず間違いないって」
 「そうですか」
 と、おれは答えた。そのことは「遺書」を読んだときから知っていたので、別に新鮮でもなかった。しかし、おれのリアクションなど最初から期待していないのか、布部はかまわず話を続けた。
 「あと、あなたが見つけた金属片については、マグナアインの外殻と同じ素材で作られていることがわかった。内部には磁性体が充填されていて、だから、なんらかの記録媒体かもしれない」
 それが何かも、おれはとっくに知っている。だからあいまいに返事をしただけで、それ以上は尋ねなかった。
 「じゃあ、起動キーは」
 「遺体の周辺から、それらしいものは発見されていない。今のところ」
 おれは電話の向こうに聞こえないよう、小さく息を吐く。どうやら布部たちが持っている情報のうち、おれが聞いておきたいものはひとつしかないようだ。
 「おれの父親は、だれなんですか」
 すると布部は五秒ほど黙り込み、それから口を開いた。
 「あなたに提供してもらったDNAサンプルも、一緒に分析した。結論から言えば、あなたと三井想斗との間に血縁関係はない」
 それもやはり、おれが想像していたとおりの内容だ。おれは三井想斗の息子ではない。ではだれか、ということまでも、おおよそ見当がついてはいる。けれど、これ以上そのことを追求する気にはなれなかった。少なくとも、今はまだ。
 「お母様のこと、聞いたわ。残念だったわね」
 「気にしないでください。もう長くないって、わかってましたから」
 おれの母である堀安奈は、つい一週間ほど前、この世を去った。母の遺体は、彼女の希望で、故郷に近い山の上の墓地に埋葬された。そこは、三井想斗の遺体が見つかった場所からも、ロボットの拠点があったとされる場所からも、ごく近いところだった。
 母は三井想斗があの場所に埋まっていることを、かなり前から知っていたのだろう。自分が起動キーを持ったままで、想斗が操縦できたはずがないことも。ひょっとしたら、最初から自分たちは操縦などしていなかったということまで、母は気づいていたのかもしれない。
 だからこそ母はおれに三井姓を名乗らせ、想斗の息子として育てたのだ。そうして、みずからが演じきることのできなかった物語を、おれに託した。ロボットを操り、人類を守った英雄としての、三人の少年少女の物語。
 最後の戦いのあと、母は布部たちに拘束され、身体検査を受けたと聞いている。皮膚の表面にあった起動キーを、布部たちは見落としたのだろうか。あるいはそうではなく、母は布部たちから見えない場所に起動キーを隠したのかもしれない。自分自身の胎内に。
 おれは自分のへその下に手を当てた。起動キーは皮膚の接触によって移動する。へその緒で繋がった胎児は、皮膚を接触させていると言えないこともない。
 電話を切ったおれは、フェンスの向こうに佇むロボットを、じっと見つめた。
 あれは長い遺書だった。金属片に触れた瞬間、人間の言語に翻訳された思考の群れが、おれの脳内に流れ込んできたのだ。起動キーの保持者だけが「読む」ことのできるというそれを、おれは確かに受け取った。その孤独も、渇望も。
 架空の操縦席に座った、架空の三井想斗。それがあいつと、おれたちすべてを今日まで動かし続け、あるいは立ち止まらせ続けたものだった。だとしたら。
 おれたちは同じだ、と思った。おれもあいつも、自分のものではない物語を担わされている。本当は、おれたちはただ飢えていただけだった。満たされない思いに突き動かされて、ここまで歩いてきた。
 へそのあたりに力を込める。ふと、ロボットの顔にあたる部分が、かすかに動いたような気がする。うっすらと目を開き、こちらを見つめているような。あいつはまだ、だれかからの命令を待っているのだろうか。自分に存在意義を与えてくれるだれかを。そんな人間が、どこかにまだいると信じて。
 「聞こえてるか」
 おれはそうつぶやきながらフェンスに触れた。するとロボットの目に、はっきりと光が灯った。間違いない、おれの声は届いている。おれの口からは自然とその命令が出てきた。まるで二十年間、このときを待っていたみたいに。
 「乗せてくれ。おれは、おまえのことを知りたいんだ」
 あいつは何も言わず、ただ、おれに向かってゆっくりと腕を伸ばした。


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