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試し読み【アフターコロナの恋愛事情】『アエノコト』 柴田勝家

1.

 僕と彼女は非接触同棲をしている。
 こう言うと、多くの人が首をかしげてくる。それぞれの単語の意味は理解してもらえるが、全部が並ぶと不思議な顔をされる。たしかに不自然な組み合わせの言葉だと思う。食用食品サンプルみたいな。
 でも、これからの時代には僕らのような生き方はありふれたものになるかもしれない。それこそ、寂れた街の洋食屋が本物の料理を見本として使っているくらいには。

「ただいま、逢(あえ)」
 バイト先から帰宅して、まずは彼女の名前を呼ぶ。返事が返ってくることはないが、玄関脇の棚には『おかえり、隆(りゅう)ちゃん』と書かれたメモ用紙が一枚。
「今日はさ、店長に怒られた。こっちが悪いのはわかってるから、ま、反省だよね」
 リビングの電灯をつけ、廊下の壁に貼られた「今日はどうだった?」という付箋へ返答する。そのままキッチンへ移動して、手洗いとうがいをしてから作り置きの料理をレンジへ。タッパーには『今日は煮込みハンバーグにしたよ』の言葉。
 それから茶碗にごはんをよそいつつ、炊飯器の蓋に貼られた文字列に笑って、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、体調を心配する一言にお礼を言う。剥がした付箋はひとまとめにして、食事中にそれを見返しながら彼女の声音を思い浮かべて会話する。
 ふとテレビをつける。いくらか音量を下げておく。早朝のニュース番組に映るのは傘マークのついた天気図と、それから昨日の感染者数の情報。どっちも気が滅入る。
 世間では昨今、人と人とが触れ合わないよう過ごすことが推奨されている。コンビニ勤めの僕には関係ないけど、テレワークの仕事も増えたし、ラジオ番組だってリモート収録だ。厄介な流行病は人々の時間と距離を変えてみせた。
 不安になるようなニュースも多い。とはいえ、僕は世間に役立てる人間ではない。治療もできないし、薬を作ることもできない。ならせめて、病気にならないように生きて迷惑をかけないようにしよう。
 そういう意見が、彼女と一致したのだ。
「逢、夕飯は何食べたい? 作っておくよ」
 テレビを消して食器をかたす。それから最後の付箋に語りかける。シンクで皿を洗いつつ、彼女のために用意する夕飯のことを想像した。
「最近、スーパーも入場制限してるんだ。大変だよな。僕らみたいに生きてればさ、病気がうつることもないのにね」
 その返事は、束になった付箋の中のどれか。
「いや、無理かと思ったよ。でもさ、意外と非接触同棲ってのも続けられてるよなぁ、って」
 これが僕たちの新しい生活。
 別にお互いに嫌ってるわけじゃない。今も彼女は同じ屋根の下にいるし、なんなら数メートル先の部屋で就寝中だ。ただ夜勤の僕と日勤の彼女で生活時間が合わないだけ。
 それならいっそ完全に接触しないで同棲しようって、これはどっちが言い始めたんだったか。とにかく二人とも納得できた。
 ちなみに非接触同棲のルールは三つ。お互いの部屋には入らないこと。対面する時は事前に相手の許可を取ること。会話は付箋に書いてすること。最後の一つはLINEとかじゃ味気ないから、っていう彼女の発案だ。
 最初はどうなるかと思ったけど、いざ始めてしまえば快適なところもあった。余計なケンカもしないし、一人暮らしの気楽さを残しつつ寂しさは消すことができる。お互いに触れ合えないことは不便かもしれないが、これまで十分すぎるほどに一緒の時間を過ごせたから、その気持ちの貯金はまだ残っている。
「まぁ、たまには寂しいよ。僕もね。でも大切な人には、病気になってほしくないし」
 彼女も同じ気持ちでいてくれる。だから、こんな生活を送ることができる。顔も見れないし、声も聞けない。でも、同じ場所にいることができる。
 キュッと蛇口を締める。最後の仕上げに用意した除菌シートで辺りを拭いておく。あとでテーブルやリモコンも消毒しておこう。外から病気を持ち込むわけにはいかない。
 その後はどうしよう。僕も付箋に今日あった出来事を書いておこうか。彼女からの返信も楽しみだ。
 僕は短い廊下を進み、彼女が休んでいる部屋の前を通る。寝息なんて聞こえない。わかってるけど立ち止まる。
『おやすみ、隆ちゃん』
 ドアには一枚の付箋。これは必ず貼られている。
「おやすみ、逢」
 そして自室の前へ行けば、そこの扉にも付箋がある。これは僕が寝る前に見る最後のものだ。
『大好きだよ』
 僕はその紙を丁寧に剥がした。

2.

 僕と彼女は幼馴染みの間柄だ。お互いにそう信じている。

 あれは僕が小学生の頃だ。いつもは夏休みの間に訪れていた父方の実家、その年は学校の創立記念日と土日が重なったので、十二月の頭に行くことになった。
 石川県の輪島市、父の生まれた土地。灰色の空と降りつける雪、それを拭う車のワイパーの動きを覚えている。
 その時の僕は気にしなかったけど、父の故郷では、この時期に大事な行事があるらしい。父もそれを紹介するつもりで、短い家族旅行を計画したようだった。
 結論から言えば、僕はその行事を見て泣き出すことになる。
 僕らが到着した日の夕方、いつの間にか紋付き袴に着替えた祖父が出かけていった。
「じいちゃん、どこ行くの?」
 僕が祖母にそう聞けば、
「神様を迎えに行くんだよ」
 と、返ってきた。この時点では意味がわからなかった。
 祖父の帰りを待っていると、やがて玄関の戸が開く古臭い音がした。家族総出で迎えに行けば、提灯を持った祖父が暗闇に視線を向けていた。鼠色の袴が雪に濡れている。
「さぁ、どうぞ」
 祖父が暗闇にいる誰かを招いた。僕には見えなかったけど、祖父はそこにいる何者かに深くお辞儀していて、祖母と父親も同じようにしていた。
 僕が見守る中で、祖父に招かれた透明な誰かは廊下を進んでいく。
「足元、お気をつけください。床板が傷んでます」
 その言葉は、僕らが到着した直後に祖父からかけられたものと同じだった。そのあとも、祖父は僕ら家族にしてくれたのと同じように見えない誰かを迎えていた。
「ようこそ、お越しくださいました」
 祖父が座卓について透明人間にお茶を注ぐ。一息ついただろうタイミングでお風呂に入るように勧める。僕が所在なげに座っている間にも、風呂場からは水音が聞こえてくる。祖父を追って座敷についていくと、そこには豪勢な食事が並んでいた。自分のものかと思って近づけば、すぐさま祖母が制してきた。
「どうぞ召し上がりください」
 そう言って、祖父が料理を説明しつつ、何もない空間に箸を差し出している。ここに来て、ようやく祖父が大事なお客さんを迎えているのだと納得した。その人は僕ら家族よりも重要な人で、どうやら僕だけが見えていないらしい。そう思った。
「これはね、アエノコトというんだ」
 僕が不安な顔をしていたからだろう、父親がそっと耳打ちしてくれた。
「おじいちゃんはね、神様を迎えているんだ。神様はウチにいてくれて、みんなに幸福を分けてくれるんだよ」
 その説明に幼い僕は頷いただろうか。それは覚えていないけど、祖父の真剣な表情を見て、とにかく子供が口を挟んではいけないのだと思った。
 だから最初は、両親と一緒に静かに見守っていた。
 それが小一時間ほどして、たまらなく寂しい気持ちになった。大好きな祖父母と両親が、自分にだけ見えない誰かを大切にしている。それが堪えられない。今ならば、それは甘やかされた一人っ子のワガママだと理解できるけど、当時の僕にとっては世界から仲間はずれにされたような気分だった。
 だから、泣いてしまった。
 しゃくりあげる僕を見て父親は慌てて、母親がなだめながら座敷から連れ出した。祖父母もその一瞬だけは、神様のことを忘れて僕のことを見ていてくれた。
 それから僕は、母親と一緒に別室で夕飯を食べた。メニューの大半は、あの見えないお客さんに提供したものと同じだった。それを食べ終わった頃に父親と祖父母も来てくれた。特に怒られることもなく、ただ「子供にはつまらないよね」と慰めてくれた。
 行事の日はそれで終わった。そのまま部屋で母親と寝て、翌朝には何事もなかったように目覚めた。
 僕にとって本当に大切なのは、この日のお客さんだった。
 朝食をとったあと一人で座敷にいた。寒い日だった。コタツに入り、旅行前に買い与えられた漫画を読んでいると、ふと縁側の向こうを見れば、そこに色彩があった。
 雪の積もった生け垣の手前、結露したガラス戸を透かして真っ赤な色が浮かんでいる。銀世界に落ちた赤い色に僕は目を奪われた。
 それは着物を着た一人の女の子だった。
 無言のままに立つ、おかっぱ頭の女の子。僕は彼女をもっと近くで見たくなった。だから暖かいコタツから抜け出て、ひんやりとしたガラス戸を開いた。頬の薄皮を裂くような冷風が当たる。
「寒くない?」
 最初は無視してしまおうかと思っていた。でも、その時の僕は気が大きくなっていた。前日に家族が自分を構ってくれたのが嬉しかったし、ちょうど読んでいた漫画の主人公みたいに振る舞いたかった。
「入りなよ」
 僕がコタツを指差すと、女の子は一回だけ頷いて、つっかけを雪の上に残して駆けてきた。それから無遠慮にコタツに飛び込んでくる。大人しそうな見た目とは裏腹に快活な子だった。
「きみ、誰?」
 対面で座った彼女に問いかけた。
「アエ」
 そう言って、女の子は桃色に染まった頬を膨らませてくる。
「わたし、アエ」
 それを聞いた僕に、途端にひらめくものがあった。
 昨日の行事のことを父はなんと言っていただろうか。たしか〈アエノコト〉と言っていたはず。その意味がわかった。アエという人物のこと、だ。子供らしい空想は、彼女の神秘的な姿に裏打ちされてしまった。
 ならば、と僕は彼女に近寄った。
「きみが神様だ。逢えてよかった」
 それは自分にも神様が見えたという喜びの表現だった。もう仲間はずれになることなく、祖父母や父に自慢ができると誇らしく思っての言葉だった。
 ただ、これは全くの誤解だから当然だけど、僕の言葉に女の子は笑い出した。歯抜け顔の笑顔だった。それにいくらか拍子抜けする。
「東京の子、変なこと言う子だ」

 これが僕と逢との出会い。
 神秘でもなんでもなく、近所の家の子が用事を言付かって僕の祖父母に会いに来ただけだった。この勘違いが払拭されるまで、数時間ほどは神様だと信じてしまっていた。
 普通の子だと知った直後のことは思い出したくもない。顔から火が出るほどに恥ずかしかった。
「あれがね、隆ちゃんからの最初の告白だったよ」
 などと、彼女は未だに僕をからかってくるが。


この作品の続きは『非接触の恋愛事情』にてお楽しみください。

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