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【試し読み】ヴァーチャル霊能者K

11月19日に西馬舜人『ヴァーチャル霊能者K』が発売となります
こちらを記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

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あらすじ

ヴァーチャルアイドルに悪霊が憑依した! もう、ネットは使えない......

大学生の麻生耕司は卒業論文のテーマを求めて、ヴァーチャルアイドル・香月りんねの誕生日イベントに参加する。
しかし、そのパーティーの途上、突如としてりんねが豹変し、会場内の電子機器を一斉に暴走させてしまう。彼女には正体不明の悪霊が憑依していたのだ。
爆発するスマホ、動き出す自動販売機、乗っ取られるSNS、高速で紙を射出するコピー機......全ての電子機器が殺戮兵器と化し、一人また一人と参加者は息絶えていく。
辛うじて生き残った麻生は、自称霊能者や乱暴者、プログラマーの小学生にその母と協力し、電脳世界の除霊を試みる......!
第6回ジャンプホラー小説大賞金賞受賞作品。インターネットに接続過剰な現代人に贈るサイバーホラー登場!


それでは、物語をお楽しみください。

第1章 祝福のヴァーチャルアイドル

 金持ちのすることはわからない。
 麻生耕司アソウコウジの頭からは、そんな思いが離れなかった。
 麻生はいま、汗だくになりながら、あるイベントの会場に向かっていた。会場の最寄り駅は、数時間に一本しか電車の来ない無人駅だった。さらにそこからバスを二度も乗り継いで、一面深緑の道を三十分ほど歩くはめになった。
 ようやくたどり着いたのは、人気のないシャッター街だ。スチールの幕はどれもスプレーの落書きだらけで、閉ざされてから十年余りは経過しているとみられる。そのうえ名前もわからない植物が、縦横無尽に生い茂っていた。
 見回しても人が住んでいる気配はない。観光地の夢の跡のようだ。
 ――目的地はここで合っているのか。あの会社は、なぜそんな場所を買い取ったのか。そもそもなぜ、自分はこんな思いをして、山奥の廃ホテルに向かっているのだろう。
 無数の疑念が、頭の中をぐるぐる回る。
 だが、少しすると、どこかに吸い寄せられるような人影が見えはじめた。麻生は彼らのあとを追うことにした。きっと自分と同じように、「チケット」を持つ人間だろう。
 やがて、送られてきた案内と同じホテルが見つかり、ほっと胸をなでおろす。
「ここか――」
 麻生の目の前に、七〇年代に建てられたような、寂れた観光ホテルが構えられていた。剝げたピンク色の看板に、「T**観光ホテル」という、かつての名前が残っている。
 事前の案内を思い出す。内部は東棟と西棟の二つの棟に分かれ、それぞれ八階建てらしい。中央には、この二棟を繫ぐ渡り廊下があり、上空から見ると、ちょうどアルファベットの「H」に見える形になっていた。
「チケットをお持ちの方は、こちらへお越しください」ホテルのゲート前で、青いポロシャツの係員たちが呼びかけている。見ると、少し列ができていた。
 まもなく、麻生は列に並び、係員に、財布の中のチケットと、取得したばかりの運転免許証を見せた。係員は、チケットに表記されている識別番号・免許証の名前・顔・住所・生年月日を念入りに確認し、ノートPCを叩く。細かい照合作業をしているようだ。
 そんなとき、別の係員の男が、間を持たせるように麻生に話しかけた。
「ここまで来るのも、大変だったでしょう。お飲み物をどうぞ」
 男の胸のネームプレートには、「忍成晴彦オシナリハルヒコ」と印字されている。
 背の高い痩身。銀縁の眼鏡は理知的な人柄を思わせる。黒髪をヘアワックスで整えていて若々しく見えるものの、髭の痕や肌の質は三十代より上のものだろう。少々疲れたような風貌も感じられるが、左手の薬指にはさりげなくプラチナの指輪がきらめいていた。それが日々の原動力になっているような、ほのかに幸せそうな面影も感じられた。
「ありがとうございます――。途中、何度も道に迷いましたよ」
 麻生は差し出されたミネラルウォーターを受け取りながら、そう苦笑した。
「ええ、辺鄙なところですみません。なんでも、社長が人のいないゴーストタウンを買い取って、事業に利用してみたかったらしくて……」
「なるほど」やはりお金持ちの考えることはわからない。
 忍成は、麻生の顔色をうかがって訊いた。「ちなみに、学生さんですか?」
「ええ、大学三年です」麻生はすぐに答えた。「卒論の題材がまだ決まっていなくて。ちょうど彼女を題材にしようかと考えていたところだったんです」
 忍成は少し、目を丸くする。「へえ。りんねをですか?」
「社会学部なんです。現代の消費者心理や消費行動を題材にしようかと」
「すると、あなたは特にりんねのファンというわけでは?」
「正直、あまり詳しくは知りません。だからこそ、興味が湧くんです」
 薄く笑ってそう答えると、ちょうど隣でパソコンを弄っていた黒縁眼鏡の係員が「麻生耕司さま、確認が取れました――」と告げた。
 すると、忍成は首からかけるカードや、Wi-Fiパス、パンフレットなどを麻生に差し出した。
「お待たせしました。正面の玄関でカードをかざしてフロアへどうぞ」
 受け取るなり、麻生は彼らの顔色を眺めた。蒸し暑い中で立ち構えて仕事をする忍成は、拭いきれない汗にハンカチを当てている。机の上にはミネラルウォーターが置いてある。しかし、口をつける様子もなく次の来場客に同じような案内を繰り返す。
 そんな様子を心の中でいたわりながら、麻生はゲートを通過した。

 敷地内に入ると、駐車場に何台かの車が停まっていた。セダンやオープンカーには、アニメキャラがプリントされているものもある。同一の車種が多い。
 玄関前の立て看板に、目を移した。数名の来場客が、スマホで記念写真を撮っているのが見えた。

【――株式会社プリット主催
  「第二回 香月カヅキりんね 二度目の十七歳・誕生日パーティー」会場】

 香月りんね――。いま話題のアイドルの名前だった。彼女は去年の八月二十一日にも、十七歳の誕生パーティーをおこなっている。だが、別に年齢詐称というわけではなかった。
 そもそも、彼女は生身の人間ではないのだ。株式会社プリットの保有する著作物であり、3Dモデルの姿で歌って喋る〝ヴァーチャルアイドル〟。
 インターネット上で新曲やダンスを発表するほか、毎週金曜二十時からは〝スパチャ〟を通じた、ファンとの交流の時間がある。昨年は、大ヒットした深夜アニメの主題歌を歌ったことで、アニメファンの間で知名度を上げた。アニメが社会現象になると同時に主題歌や歌手にもスポットが当たり、今度はテレビのニュースでも頻繁に取り上げられるようになったのだ。最近ではもう、名前を知らない人のほうが少数派だろう。
 このバースデーイベントも不思議な仕組みが話題になった。
 公式アカウントのフォロー&シェアで当選した者のみに、参加権が与えられ、日時や開催場所が伝えられる。当選者は、宿泊費も食事も交通費も全額プリット側が負担する。そのため、麻生が見たときには世界中から七十万シェア。もっとも、当選するのは、わずか百組二百名というのだから、参加するにはよほどの強運が必要だった。
 が、見事に当たった。
 卒論の題材に悩んでいた麻生の背中を誰かが押しているかのようだった。
 麻生は、やがて正面玄関に設置されたタブレット端末に、先ほど受け取ったカードをかざした。「ピーッ」と認証音がして、自動ドアが開く。廃ホテルのような見かけとは裏腹な仕掛けに、麻生は目を丸くした。



 巨大なシャンデリアが天井から垂れ下がり、豪奢な光が広間を照らしていた。ビュッフェ形式の料理がテーブルの上に並んでいる。テレビドラマで見た社交会場を思わせた。
 床には、無数の電源ケーブルの束が行きかっていた。映画撮影で使うような本格的なカメラや、ステージを照らす照明機材などが多方から向いていた。イベント開催中の様子は、インターネットを通じて世界中にLIVE配信される予定だ。開始時刻は非公開のため、配信はゲリラ式だというが、それでも誰かが見つけてSNSで速報を伝え、すぐにトレンドワードに並ぶだろう、という策略があるらしい。
 被写体たちはみな、カメラなど気にせず吞気に余興を楽しんでいた。
 彼らにドレスコードは皆無だった。全体的に無秩序な光景だ。常に騒がしく、誰かと誰かが会話している。壁際では運営による記念品の物販もおこなわれているので、もしかすると社交会場というより同人誌即売会に近い感覚なのかもしれない。
「――ねえ、これヤバいヤバいヤバい∈ 超可愛いの∈」
 麻生のそばで、中世ヨーロッパから来たような、赤と青のクラシックロリィタに身を包んだ双子の成人女性がはしゃいでいた。
 麻生は、手始めに彼女たちを取材してみることにした。ファンはりんねのどんなところに魅力を感じるのか、まずはそこから知っておきたかった。事情を話すと彼女たちは快く、りんねの画像を麻生に突きつけながら、満面の笑みで応える。
「尊いところと∈」赤い恰好の女性がこう言う。
「エモいところ∈」青いほうの女性がテレパシーのように上手に続ける。
 そして、赤いほうの女性は、興奮して早口になった。
「ほら見てくださいこれ、ほんとこのりんねエモすぎて無理み∈」
「見ててマジで語彙力なくすんですよ∈」
麻生は苦笑いして、「な、なるほど……」と言った。
 先の疑問はいまひとつ解消しなかったものの、この抽象的な言葉で会話を成立させているなんてさすがは双子だ、と感心してしまう。とにかく「とうとい」「えもい」「むりみ」「ごいなくす」とメモに起こしていく。
 麻生は二人に頭を下げて立ち去り、今度は四十代くらいの男性ファンにまた同じ質問をしてみた。痩せた体格だった。英字のプリントされた黒いTシャツに、下はベージュのパンツ。背中には重たそうなリュックサックを背負っている。彼は、何分にも亘って、りんねの曲の歌詞について考察を語った。
「――で、これ気づいたの自分だけだと思うんですけど、二〇一九年の五月十日に配信されたこの『好きっとランドヤード』の歌詞って、一番と二番の時系列が逆転して、視点が交錯しているんです。つまりは円環構造になっていて……」
「そ、そうなんですか」
 麻生は何をメモすればいいのかわからず、とにかくうなずき続けた。
「ちなみに二〇一八年十一月七日配信の『月華ニ乱レヨ∈』も、一番で〝海辺〟とか〝砂浜〟とか、ちょっと自殺を彷彿とさせる単語が入ってて……たぶん二番以降は死後の世界を歌ってるんじゃないかと思うんです」
 男は得意気に目を光らせた。こじつけっぽい、と思ったが、断言もできず苦笑する。
 話に区切りがついたところで、麻生はまたすぐに頭を下げて立ち去った。

 この調子で何人かに取材したあと、麻生はナポリタンを取り分けた皿を片手に、丸テーブルについた。
「ふぅ……」ダージリンに口をつけ落ち着くと同時に、ため息をつく。ほんの少し立っていただけだが、疎外感からか、疲れは想像以上だった。
 ……結局、りんねの魅力は、話だけ聞いていても、よくわからなかった。
 内輪ネタがわからずに、置いてけぼりにされてばかりだ。しかし、いま振り返れば、コミュニティ内に共通言語やコードが発生し、外集団が馴染むのに時間がかかるのは、社会学的にも自明のことだといえる。ファンは独自の言葉や文化を持つ国家なのだ。相手の態度を予測できていない自分に、一番の非があると感じた。
 猛省し、肩を落としながらも、何気なく周りを見た。
 麻生の近くのテーブルで、母娘が食事をしているのが目に入った。小学四、五年生ほどの娘は、母親に向けて口を尖らせている。見渡す限り、他にはここまで小さな子はいない。こんな子まで香月りんねのファンなのか。
「ねえ、お母さん∈ これ壊れてるほうのパソコンじゃん∈」
 少女は、人形のような、光沢のあるロングヘアだった。デニム生地のワンピースでめかしこんでいるのがよく似合う。ピンクのリュックの口から取り出した、メタリックブルーのノートPCを抱えて、まん丸い瞳を、ぎゅっときつく尖らせて母親を見上げている。
「あ、あれ? ……あ、ほんとう。もう、またやっちゃった。ごめんね、加那カナちゃん。ママ、こっちが新しいのだと思っちゃってて……」
 娘に叱られている母親のほうは、三十代後半くらいだろうか。地味な色のフォーマルスーツを着ていた。痩せていて肌は白く、それなりに年の離れた麻生から見ても綺麗に見える女性だった。しかし、どこか幸の薄そうな表情もしていた。
 そんな彼女を、娘がきゃんきゃんと責め立てる。「赤いほうが新しいやつだって、前にも言ったよね? これじゃ今夜、パソコン使えないじゃん、もう最悪」
「うん、本当にごめんね、加那ちゃん……」娘のワガママに、母のほうは肩を落とす。
 母娘の力関係は逆転しているようだ。
 呆然と見ていると、ふと母親のほうと目が合ってしまった。
「あ、すみません、うるさくしてしまって……」
彼女は恥ずかしがるように微笑を浮かべ、小さく頭を下げた。
「いえ――」悪いと思い、麻生はたまたま景色の一部を見ていて、一瞬だけ目が合っただけのような表情を浮かべた。
 そして、すぐに空いた皿を持って、逃げるように席を立った。

 ……この昼食とファン交流会は、午後一時まで続くらしい。
 そのあと開会式典が始まる段取りだ。取材を諦め、定刻になるのを待ちながら、なんとなしに壁にかけてある時計を見た。
(あと二十分もあるのか――)残り時間の長さに辟易した。
 時計のすぐ下で、何やら声がした。
「――なあ。連絡先聞いてるだけだろ? どこ住んでんの?」
 金髪ツーブロックの厳つい男が、壁に向かって何か言っていた。よく見ると、壁際に小柄な女性がいた。男は、壁際に女性を追いやって、威圧するように語りかけている。
「いや、あのぉ……そういうのは、ちょっとぉ……」
 女性は、困りきった顔で視線を泳がせていた。紫の袴姿が印象的だった。長い黒髪を後ろで束ねて、左右に花のかんざしを差している。大きな二重瞼で可愛らしくも、たぬきのように少し垂れた瞳は、どこか垢抜けない田舎娘を思わせる。彼女は頼るように、ちらり、ちらり、と周りの様子をうかがっていた。
 一方、ツーブロックの男は、長身でがっしりとした体つきに、レザーのデイパックを背負っていた。黒いシャツからは鍛えあげられた太い腕が覗いている。まるで人を威嚇するためにカスタマイズされたような容貌を、この体格が際立てる。だが、目つきや雰囲気には、少し幼さも感じられた。どうあれ、こんな男に迫られれば恐ろしいだろう。
「連絡先だけだって。ここで会ったのも、何かの縁かもしれないだろ」
 彼の口から放たれているのは、見本品のようなナンパだった。係員か誰かが場を収めてくれたほうが穏便に済むんじゃないかと、周りを少し見回してみる。
 だが、誰かが気づいてくれそうな様子はない。みんな手一杯のようだ。
 仕方ない――と、麻生は思った。彼らのもとへ、歩みを進めた。歩きながら、この場は適当な噓をついて逃げれば拗れずに済むだろう、と算段を立てる。
「すみません、彼女の恋人です。手を出すのはやめてもらっていいですか」
 麻生がツーブロックの肩に手を置き、言った。
 すると、男は素早く振り返り、凄まじい形相とともにその手を払った。
「なんだよ、誰だお前、触んなよ∈」
 強い敵意のこもった顔つきだった。あまりの剣幕に、麻生も怯みそうになる。突然肩に触れられたことが、よほど気に入らなかったらしい。
 しかし、憤然としている隙に女性の手を取り、麻生は言った。
「ま、まあ。とにかくそういうことですから――。行きましょう、花子ハナコさん」
「え? えっと、わたし、花子じゃありません。もしかして、人違いじゃないですか?」
 女性はきょとんとした顔で麻生を見る。どうやら素直すぎて、この場をやり過ごす噓は、察してもらえなかったようだ。麻生は少し肩を落とした。
「つーか、なんなんだよ、あんた」
 そのあいだも、ツーブロックは、麻生を睨みつけていた。数秒後に嚙みついてくる犬のような表情だった。もう言い返すことにした。
「いや。僕には、その彼女が助けを呼ぶように目配せをしているように見えましたからね。困っているんじゃないかと思って、恋人のフリでもして助けようかと」
 すると、女性が、やっと意図に気づいたように、口を大きく開けた。
「ああ、そういうことですか∈ なるほど∈ そうです、確かにわたし、助けを呼ぶように目配せしていました∈ 見事に困ってました∈」
「……本人もこうおっしゃっていますから。ここはお引き取りいただけませんか」
 すると、ツーブロックが歩み寄り、麻生の胸倉を強い力で摑んだ。
「んなこと、あんたには関係ねえだろ」
「彼女だって、あなたと一切関係ないでしょう。それに、あなたと関わりたくないから、周囲に視線を送っていたわけでしょう」
「正義漢ぶりかよ。むかつくんだけど」
「それはお互い様ですよ」
「なんだと――」
 ツーブロックが、たまらず拳を握った。怒りに任せ、咄嗟に麻生に殴りかかろうとしたようだった。痛みに対する生理的な恐怖に、一瞬だけ麻生は目を閉ざそうとした。しかし、意地でこじ開け続けた。いまは、それだけが抵抗の手段だった。
 すると、ツーブロックは、はっとしたように、麻生の顔の前で拳を止め、固まった。
 その隙に、麻生は一度目をしばたたかせてから、平坦に言う。
「いまスタッフの方を呼べば、あなたは退場になるかもしれませんよ」
 少しずつ、周囲に人が集まりはじめていた。ひそひそ嘲笑しながら麻生たちをスマホで撮影する参加者もいる。誰かが本気になって喧嘩をする様子は、娯楽になる。SNSで仲間内に見せ合うつもりなのかもしれない。麻生は、自分を信じて行動した結果であるのなら、誰かに陰であざ笑われるくらい怖くなかった。
「チッ――」
 ツーブロックは周りを一瞥し、麻生の胸元を突き放した。
 ――しかし、大人しく去るのかと思いきや、最後に鬱憤晴らしに、そのあたりのコップを摑んで、水を麻生に向けてぶちまけた。ジャケットの肩から先が、びっしょりと濡れた。
「おっと、悪ぃ、手が滑ってかかっちまった。悪気はなくてさ。……ほんと、悪いね」
 案の定、ツーブロックはまったく悪びれる表情ではなかった。
 麻生は眉根を寄せつつも、淡々とジャケットを脱いで言い返した。
「……気にしませんよ。安物ですから」
 するとツーブロックは、釈然としない様子で捨て台詞を吐き、去っていった。
 まあ、とにかく目の前から消えればいい――。これで事態は解決する。
「あのぉ……」と、そのとき、後ろから小さく声がした。
 先ほどの和服の女性が、少しかしこまった様子で、麻生を見上げている。
 そういえば、彼女がいるのだった。
「すみません、ありがとうございました」彼女は丁寧に頭を下げ、表情を濁す。「それと、ごめんなさい。何か変なことに巻き込んでしまって」
「いえ」麻生はジャケットを軽く畳みながら言う。「突然絡まれていたのは、あなたのほうですから。それより大丈夫ですか? 何かされませんでしたか?」
 彼女は、「はい」とすぐうなずいた。そして、麻生の手元のジャケットを見やった。
「ちょっとそれ、貸してください」彼女は、麻生からジャケットを引きはがすように回収した。「えっと、このジャケット、クリーニングしてお返ししますね。――あと、これはわたしの名刺です。あとでここに問い合わせていただければ」
 そこまでしなくても、と言い返そうとしたが、差し出された名刺が少し気になり、そっと受け取った。そこには奇妙な肩書と名前が書きこまれていたのだ。
「『霊能の国』出身・フリーランス霊能者、森沢哀モリサワアイ……?」
 思わずわが目を疑って読み上げる。
 霊能者というと、「霊媒師」とか「イタコ」とかさまざまな呼称を持つスピリチュアルな人たちのことだ。学問として面白くはあるが、話を信じたことはない。
 彼女は、麻生の視線を気にも留めず、屈託なく笑った。
「はい。わたし、これでも霊能者なんです。――あ、でも、霊能者と言ってもそんなに怪しい人間じゃありませんから安心してください。まだまだ未熟なほうなので」
 この言葉に抱いた感想、もといツッコミを、直接伝えることはなかった。
 ……だが、これももしかしたら、りんねファン界で通じる内輪のネタや冗談なのかもしれないと思った。麻生は、ひとまず微笑する。
「霊能者――。なるほど、それでそんな恰好を」
「あ、いえ、この恰好はただのおしゃれのつもりで……」
「そうでしたか。いえ、すみません。すごく似合っていますよ」
 哀は頰を染めて顔を伏せた。「ありがとうございます……」
「で、森沢さんも、香月りんねのファンなんですか?」
 麻生は、何気なく霊能云々の話をそらし、質問する。まだ少し、取材への未練があったのだ。彼女は、すぐ答えた。
「はい、そうなんです。軽い気持ちでシェアしたら、運よく当たっちゃって」
「なるほど。実は、僕のほうはまだ、彼女のどういうところが魅力なのか、少し摑みかねていまして。よければ、参考程度に彼女の魅力を訊かせてもらえませんか」
 哀は素直に、顎に指を当てて少し考え込んだ。
「うーん。まずは、他のヴァーチャルライバーよりもちょっと動きが人間っぽいところですね。喋りに合わせて、ちゃんと口や目が動いていて、体つきとかもしっかりできてて、びっくりしました∈ 最近はあんな技術があるんだなぁって」
「なるほど。技術的な部分ですね」
「ええ。……まあ、あとは、その場の〝気〟みたいなものですね。武道館ライブの動画とかを見ていると、場の一体感が凄まじくて――。バックに一体、どんな霊能者がついているんだろうと思っちゃいました∈」
 彼女は目元と口元を、きゅっと引き締めながら言った。きわめて真剣な表情だった。
「よくわかりました。……ありがとうございます」
 どうやら霊能者は〝ネタ〟で言っているわけではなさそうだ。少し話題の間を持たせるのに困り、麻生はなんの気なしに手元の名刺を裏返した。
 すると、名刺の裏面に、何か印刷があることに気づいた。
 目を細めて見ると、それがQRコードだとわかった。試しに訊いてみる。
「あの……ところで、この名刺の裏面の怪しいQRコードはなんでしょう?」
「あっ、それ、別に怪しいQRコードじゃないですよ∈」哀は、にこりと笑う。「アクセスするとわかりますけど、『霊能の国』が運営するわたしのプロフィールに繫がるんです」
「いま読み込んでみたところ、ものすごく怪しいサイトに繫がりましたけど」
 麻生のスマホ画面に、『霊能の国のぺえじ』というサイトが表示された。
 二〇〇〇年代初頭の個人サイトのようなホームページだった。黒の背景に、梵字のような仰々しい字が飛び交うように移動している。その下に、ようやく哀自身のプロフィールや写真が出ている。メイクでキメ顔を作った哀の横顔は、いまの彼女より数倍厳しかった。
 さらにサイトの項目を見ると、『勇気なる霊能の父のお言葉』『清しき霊能の母のお言葉』『われら霊能六姉妹』などとある。麻生には、リンクを踏む勇気はなかった。
「あっ、ちなみに、霊能の父っていうのはわたしのお父さんで、霊能の母はわたしのお母さんなんです。霊能六姉妹っていう姉妹もいて、わたしは五女です。まあ、基本的には義理の家族なんですけど、でも、一番下の妹だけ、霊能の父と母の実のお子さんで。それから、サイトにずっと流れている文字は、魔除けにすごく効き目がある退魔文字で――」
 口下手な少女が友達の輪に入れてもらったときのような、純粋な微笑みを浮かべながら、言葉を並べる哀。彼女は本気でこの世界観を信じているらしい。誰かを騙そうとかいう意図が感じられないところが、麻生には少し怖く感じられた。
「――おっと、森沢さん、すみません。せっかく楽しい話をしていただいている最中ですが、僕はそろそろ失礼します。そうだ、これのクリーニングはけっこうですから」
 すぐに誤魔化すような笑みを添えて、半ば強引にジャケットを取りあげた。
「えっ、でも、まだ――」哀は、困惑しながら言う。
「大丈夫です。放っておけばいずれ乾きますし、あなたはまったく悪くないですから。お話を聞かせてくれて、ありがとうございます――それじゃあ」
 貰った名刺を一度シャツの胸ポケットに入れ、麻生はお辞儀してその場から立ち去った。そしてすぐ、ジャケットがどれくらい濡れているかを少し確かめようとした。
 しかし、触れてみると、どこが濡れているのか確かめられなかった。
 それどころか、真夏の陽光に晒されていたようなほのかな温かささえ残っていた。



 やがて、マイクを通して、子供に語りかけるような声が反響した。
『――それではみなさん、お時間になりましたので、一度お食事の手を止めて、近くの空いている席にお座りください』
 イベントの開会式典の時刻だ。シャンデリア型の電気が薄暗く調整され、微かなざわめきが一帯に流れた。持て余した時間が進行することに、ほっとする。
 指示通り、麻生は空いている椅子を見つけ、座った。結婚式場のような丸テーブル。同じ席に誰がいるのか、薄く見えた。隣に、先ほど熱い考察を語ってくれた黒い服の男がいるのがわかった。そっと頭を下げるが、相手は麻生にまったく気づかず、イベントの開始を待っていた。
 ――やがて、真っ赤なステージに、照明が当てられた。
 全員、すぐにそちらへと視線を移す。
『みなさん、お座りになりましたでしょうか?』
 司会の女性が立っているのが見えた。二十歳前後の、溌溂はつらつとした顔立ちだった。
 その隣に、株式会社プリットの代表取締役社長兼CEO以下、若々しい「役員」たちも並んでいた。もっとも、役員と言っても、誰もスーツなど着ていないし、髪を真っ赤に染め上げた男までいた。メディアにたまに出てくる若社長も、相変わらずサングラスにアロハシャツ、半ズボンという出で立ちだった。
『それではただいまより、株式会社プリット主催、香月りんね誕生日パーティーを開催いたします。本開会式典は、撮影・録音は禁止となっております。お手数ですが携帯電話・スマートフォン・カメラなどをお持ちの方は、いま一度、電源をお切りになって――』
 麻生は司会の言う通り、スマホの電源を切る。あちこちで電源を切る動作が見られた。
 そしてまもなく、CEOの挨拶が始まった。
「えー、みなさん、改めましてこんにちは。ご来場のみなさまには、こんなところにまでご足労いただき、ありがとうございます。株式会社プリット、代表取締役社長兼CEOの連城浩太レンジョウコウタです。二人一組でのご招待と告知してあったはずなんだけど、なんかりんねのファンはおひとり様が多いみたいで。ちょっと寂しい光景っすね」
 連城が失礼な冗談を言うと、会場からは自虐めいた苦笑いが漏れていった。
 それから、彼は役員数名にもマイクを回す。全員、簡単に挨拶した。
「社長の冗談はさておきまして。本日は、弊社のプロデュースするアイドル、香月りんねの誕生日ということで、こういったイベントを主催させていただきました」
「ここにいるみなさんも、配信でご覧になっていらっしゃるみなさんも、最後までりんねが魅せる夢の世界をお楽しみいただければ幸いです」
「りんねサイコー∈ ……よろしくお願いします」
 会場の人間は形式的に拍手を送り、場の空気を和ませるように笑った。
 マイクは司会の女性の手に移る。『役員の挨拶が終了しましたところで、改めて本日のイベントプログラムを説明いたします。――お手持ちのパンフレットをご覧ください』
 麻生は暗い中で目を細め、パンフレットを見やる。
 何やらこのあと香月りんねが「登場」し、挨拶と生歌を披露するらしい。
 そのあと、りんねへの質問コーナーに移る。リアルタイムで客席と交信できる彼女の特性を活かしたイベントだ。そして、サプライズでハッピーバースデートゥーユーを歌う時間が来て、りんねは一旦退場となる。その後も、りんねとのお食事会、ビンゴ大会、カラオケ大会と、ファンとの懇親イベントは盛り沢山だ。
 段取りの説明を終えた司会女性は、すぐに次の行程へと切り替えた。
『では、準備ができ次第、みなさんお待ちかねの弊社プロデュースのヴァーチャルアイドル、香月りんねの登場となります。拍手でお迎えください』
 司会の女性がさわやかに告げると、ようやく場の空気が本格的に沸いてきた。
 さて、いよいよだ。――いままで僅かな照度を保っていた照明が、光を完全に消し去った。ぱちぱちぱちぱち、と拍手が波のように鳴り響く。麻生は、久々に感じるような深い暗闇に、妙な胸騒ぎを覚えながら登場を待った。
『――♪』
 大仰なBGMが、部屋中のスピーカーから鳴りはじめた。
 スピーカーの配置を計算し尽くしたような立体的な音響効果。麻生は、自分がどこに立っているのか、一瞬とまどいを感じた。それと同時にステージ上に降りている白いスクリーンには観音扉の3Dモデルが表示され、期待が膨らんでいく。
 そして、ステージの真下から霧が、ぶおお、と音を立てて噴射されはじめた。スポットライトは、ホログラムのような色彩を、ちかちかと投射する――。
 姿を見せるより先に、どこかから、覇気のないアニメ声だけが聞こえた。
『みなさぁ~ん、こんにちは~∈ 今日はぁ~、わたしの誕生日を祝いに来てくれて、ありがとう~∈』
 ステージ上の霧に等身大の半透明な立体映像が形成され、麻生は思わず息を吞んだ。
 美しい白い霧の中に、西洋的な少女の姿が作られていく――。
 小さな鼓動に合わせて揺らぐ金色の髪、表情やまばたきさえ再現するオッドアイの青と緑の瞳、カチューシャと衣装はまるで不思議の国のアリスをイメージしているようだった。
 香月りんねが、完成した。まるでそこに生まれ、そこに立っているかのように――。
 そして彼女は、客席に微笑みかけた。
『サイバーランドからやってきた、電光美少女・香月りんねで~す∈』
 うおおおお、という大歓声と、あちこちからの口笛が響き、熱気がその場を支配した。
 麻生はいまだにりんねの外観に衝撃を受け、動けないままだった。
 確かに奥行きは少々違和感があり、やや映像が平面的なところもあったが、そこまで目を凝らさなければ一人の人間と錯覚できるようなレベルだ。これまで目にしたような立体映像より、格段に〝本物〟に近い。
 カウントダウンのようなイントロが響く中、彼女はテンポよく語り続ける。
『今日はぁ、わたしの一年ぶりの誕生日に来てくれて、ありがとうございまぁ~す∈ 今日でまた、十七歳になりましたぁ∈』
 すると、誰かがたまらなくなって、「りんねちゃんかわいい∈」と歓声を飛ばした。
『えへ、ありがと~∈ 盛り上がってるみたいだね∈ ――じゃあ、まずはみなさんご存知のメドレーからいきますね∈』
 りんねはリアルタイムで客席に反応して手を振ると、調子を切り替えたように歌い、踊りだした。
『――シンギュラリティ・パラドックス♪ きみに心を植え付けたいよ♪』
 歌や踊りは、完璧とはいいがたいものだ。モーションキャプチャーで操演して、本当に誰かが「香月りんね」を動かし、音を送るシステムであるためだ。しかし、それが彼女でしか作れないような実体感、ライブ感を演出していた。この安心感は、人間だけの持つ領分なのかもしれない。
 また、表情のトラッキングは、おそらく実物の動きと一ミリの差もないだろう。口の動きも息遣いも人間的だ。
『ふふ――♪』
 微笑みが向けられた瞬間、麻生も思わずどきりとしてしまった。
 気づけば、熱気に拳を握ってさえいた。ペンライトを振り上げる周囲に合わせ、なんとなくリズムに合わせてテーブルを小さく叩きだす。
 良い歌詞とは思えなかった。初歩的なSF用語・ミステリ用語や、小難しいけれど聞いたことのあるような熟語、明治浪漫・大正浪漫の世界観など、サブカルチャーの流行に合わせてきている気がした。しかし、だからこそ、この場の一体感は強化されているのだろう。
 これがヴァーチャルアイドル、香月りんねのシステムなのだ。
 そして、五曲のオープニング・メドレーが終了すると、りんねは肩を大きく上下させ、疲労を見せながら立っていた。
『はぁ……はぁ……いや、ちょっとごめん。いま、中の人、マジで息切れしちゃってるから。ごめんなさい、ちょっとほんと……数秒待ってください』
 会場が、どっと笑いだした。演技の場からラジオに切り替わったように、声色から甘ったるさが消え去り、低い声を出す。その様子に、思わず麻生も脱力した。
 ――どうやら、彼女は〝中の人〟が存在する事実をオープンにして、ウケを取っているらしい。だが、観客も、もともと状況に応じて、夢と現実のスイッチを切り替えていたのだろう。夢が壊れることはない。最初から一種の共犯関係なのだ。
 どこか緊張を保っていた先ほどと比べ、空気は少し緩くなった。
『そうだ、ちょっと早めに言っておきますね∈ ちなみに、みなさん∈ いま一階の広間で楽しんでくれてると思いますけど、宿泊中、この棟の八階には絶っっっ対に立ち入らないでくださいっ∈ もし立ち入ったら……中の人とエンカウントしちゃうので∈ 万が一、髪の長い女性を見かけても、幽霊だと思って見なかったことにしてください∈』
 その言葉への客席の爆笑とともに、りんねはすぐにステージの外へと小走りに消えていった。モーションキャプチャーで踊って、相当な体力を消耗したのだろう。
 麻生が苦笑しているころには、彼女の姿は、まばゆい霧の外へと消えていた。

 そして、数秒ほど経つと香月りんねの姿が、再び無から生成された。
『――さあ、みんなお待たせ~。今度は、トークも兼ねて、みんなのほうから、わたしへの質問のお時間で~す∈』
 戻ってきた彼女は、すでにまったく息切れをしていなかった。
 すぐにプログラムの通り、今度は質問コーナーがはじまった。
『それじゃあまずは、それぞれ首にかけているカードのナンバーを見てみてね∈ わたしがいまからそのナンバーを呼んでいくから、呼ばれた人はぜひ、好きな質問をしてほしいの∈ ……あっ、ちなみに~、いまこのイベントはLIVE配信されているから、変な質問は絶対しないように∈ 空気を読んだ質問を心がけてくださいね∈』
 麻生は、先ほどまで「自身の人気の理由をどう分析するか」という質問を漠然と用意していたが、生歌を見てその答えをすでに貰ったような気持ちになっていた。
 正直、どんな質問をするべきか、あまり浮かばないでいる。
 客席の「二十五番」が呼ばれた。自分が呼ばれず、ほっとする。
「うおお、やったぁ∈ 俺だ∈」
 と、近くで誰かが飛び上がり、心臓がひっくり返りそうになった。見ると、同じ席に座っている、例の黒服の男性だった。彼は思わず紫のペンライトを落として立ち上がった。
『落ち着いて。それで、質問はなぁに?』
「え、えっと、自分∈ 今日のためにりんねちゃんに妹を作っていました∈」
『えっ、妹……? ちょっと気になるかも~。見せて見せて∈』
 りんねが苦笑いしながら許可すると、彼は背中のリュックから、ノートPCを取り出した。画面に、折りたたまれたメモが貼られているのがちらりと見える。彼はメモをそっと開いてパスワードを入力したあと、USBメモリを接続した。
 ……一連のもたもたとした手際で、しばらく、いやな沈黙が会場に流れた。
「こ、この子なんですけど、どうですか∈」
 彼はようやく〝りんねの妹〟を掲げた。本当にわざわざ3Dモデルで作ったらしい。
 りんねの妹は、ツインテールの少女の姿をしていた。赤いランドセルに黄色い帽子。てくてく歩いたり、お辞儀したり、手を振って笑いかけたりしていた。
 りんねほどではないが、確かに精巧に作られているようだ。
「こ、この子は、香月ゆあという名前の女の子です。年齢は九歳で、それ以外はまだ何も決まってないんですけど、質問を入力するとけっこう色々と答えてくれます」
『う~ん、まあまあ可愛いけど、残念、不採用∈ はい、じゃあ次の方∈』
 勿体ぶったわりに、りんねはあっさりと流した。それでも、男はりんねと直接話せて満足そうに座っている。その様子に会場がどっと笑うと、また次の番号が呼ばれる。
 ……こうして質問は続いていったが、麻生の印象に残るようなものはほとんどなかった。「あの曲カバーする予定はありますか? おすすめですよ」などというものもあれば、「彼氏いるんですか?」「二度の十七歳を迎えましたが本当はおいくつですか?」といったウケ狙いのような定型文まで様々だ。そのたびに会場に、笑い声が響いた。
『もうみんな、貴重な質問を無駄にしないで~∈』
 りんねがどんな質問もアドリブでそつなくこなし、程よく冗談を交えてうまく盛り上げていた。そのうえ、ほとんどトチらないのだ。
『それじゃあ、今度は三番の方∈』
 彼女が呼ぶと、今度は小さな女の子が、「はい」と立ち上がり返事をした。
 見ると、先ほど麻生の近くのテーブルで母親と喧嘩していた、あの少女だった。
『あら、今度はかわいいファンね∈ わたしにどんなことが訊きたいの?』
 りんねが、にこりと笑顔で訊いた。
 一方、真っ暗な会場でスポットを当てられる少女は、ほとんど無表情だった。抑揚のない息遣いとともに、少女は口を開く。
「どんな質問でも構いませんか?」
『もちろん∈ お嬢ちゃんからの質問なら、なんでもどうぞ∈』
すると、少女は、場を凍らせるような言葉を告げた。
「わたしは、香月りんねさんが登場した三年前から配信を追っていました。しかし、初期の配信だとマニアックな漫画や映画を紹介して、視聴者に媚びないコメントを繰り返していたのに、どうして今の当たり障りのない意見を言ってばかりの路線に変更したんですか? また、どうしてそのころの動画を全部消してしまったんですか?」
「加那ちゃん∈」母親が慌てて少女を座らせる。
 周囲は一斉に、顔を見合わせた。ハプニングに近い空気が流れる。「そんなに変わっただろうか?」という表情をしている者もいた。事情を知らない麻生も首を傾げた。
 とにかく彼女が、あまり公に触れてはいけない問題に触れたのは明白だった。
 この手のエンタメで路線変更を強いられることは珍しくない。しかし、子供ほどそのあたりの事情に不満を持つところがあるのだろう。大人なら「大人の事情」「演出の都合」と理屈を察せる問題も、子供ほど汲みとることができないのだ。
 この質問をぶつけられ、香月りんねの表情が一瞬固まったが、すぐに調子を取り戻した。
『うーん。まさか、そういう事情に触れられちゃうと思わなかったので、ちょっと困ってま~す。残念だけど、いまは答えられません∈ でも、きっと近いうちに明らかになるから、ちょっとだけ待っててね。これでいいかな?』
 りんねの手は、きわめて順当で合理的な回答こと、「先延ばし」だった。
 あの子がそれで納得したとは思えないが――そのとき、司会の女性が言った。
『盛り上がってきたところなのですが、すみません∈ そろそろお時間になりましたので、ここで質問コーナーは終了です∈』
 壁の時計を見ると、本当に時間だった。麻生は呼ばれなかったことに少しほっとしつつも、残念に思う気持ちが微かにある。
『ふふふ、みんなありがとう』と、りんねが手を振った。
 りんねと触れ合うコーナーは、もうそろそろ終わりを迎える。
 ――と、そのとき、司会女性の瞳に、悪戯っぽい色が映った。
 突如、ゆっくりと、周囲の電気が照度を落としていく。
『では、なんとここで、会場のみなさんから、本日十七歳の誕生日を迎える香月りんねさんに、サプライズで歌を贈る準備があるようです』
 やがて、優しいピアノのメロディが、スピーカーから聞こえはじめた。どこかから手拍子も重なりはじめたので、会場中がそのテンポに合わせていく。
 パンフレットに書いてあった段取りである。そういえば、彼女へのサプライズとして、全員でハッピーバースデートゥーユーを歌う予定になっていた。
 会場で光が照らされているのは、ステージ上の霧だけになる。
 立体映像のりんねが『なに? なに?』と、どこか愉快そうにとぼけていた。
 彼女の表情は、まるで、本当の誕生日を祝われる、屈託のない少女だった。
 イントロが終わると、その場にいる二百名近い人間が総勢で、少しずれたテンポでハッピーバースデートゥーユーを歌う。麻生も恥ずかしくはあったものの、口を開き、りんねに向けた歌を贈った。参加しないのも気が引けたのだ。
 歌が終わると、りんねは、会場の全員に、あどけない笑顔を向けた。
『ふふっ。みんな、ありがとう∈ まさか、こんなサプライズがあるなんて思わなくて、びっくり♪ 本当にありがとうねっ∈』
 彼女は、実在する少女だと思い込みたいほど、人間的な笑みを見せる。ここまで来ると、彼女をヴァーチャルだと言い切るのが、冷淡な行いであるように感じられた。
『じゃあ、LIVE配信で見ているみんなとは、突然だけどもうそろそろお別れかな。本当にありがとう、みんな、さようなら~♪』
 ふと、突然、りんねがカメラか何かに向けて手を振った。
 それと同時に、麻生はふと、微かな違和感を覚えた。先ほどまでプログラムを回すのは、すべて司会の女性だった。しかし、なぜか急にりんねが仕切りだしたのだ。
 りんねは、相変わらず、にこにこと笑っていた。
『さて、ここからは会場のみなさんだけに向けての特別イベント∈ 香月りんねからの感謝を込めた、逆サプライズの時間だよぉ~∈ まずは、ちょっと罰ゲームから♪』
 突如、照射される霧がどんどん深くなり、会場の足元へと流れ込んだ。
 ――ぎゅおん。
 今度は、どこかから妙な音が聞こえた。なんだろう、と麻生は首を傾げる。それと同時に、歓喜の合図なのか、どこかから悲鳴が聞こえはじめた。
 ――しゅー、ぼん。
 さらに、ねずみ花火のように何かが破裂するような音が、あちらこちらから聞こえた。クラッカーとは少し音の性質が違った。近くで「うわあっ∈」と男の悲鳴がした。
(……待て。これは、なんの、音だ?)
 辺りは暗くて見えなかった。ざわざわと、胸騒ぎがした。
 先ほどから聞こえはじめた、この奇妙な音と悲鳴は、やはり祝い事のものとは思えない。肌を撫ぜるような寒気が、麻生を襲う。
 次の瞬間、小さな光が、視界の隅に見えた。焦げ臭い。
 これは、炎だ――。直感した。それに、誰かが倒れているのが薄ら見えた。
「うぁ、ひぃ、うぐ」
 麻生はうめき声まで聞き逃さなかった。席を立ち、倒れている男性に駆け寄った。見れば、彼の口元で、微かな火が燃えだしていた。その火が惨状を照らした。前歯が折れ、顎は外れ、唇が歪んでいる。血まみれだ。そして、口腔中には焼けて破裂したスマートフォンの残骸が咥えられていた。金属やプラスチックの破片が散らばっていた。
「だっ――大丈夫ですか∈ すみません、誰か∈ トラブルです∈ 来てください∈」
 だが、そんな麻生の呼びかけは無意味だった。そこら中で、同じような意味の言葉と、駆け付けるような足音、悲鳴が聞こえてくる。
「うぅ……へは……ほ……が……」
 がくり、と男の身体は力を失った。麻生は彼の身体を揺さぶり、焦った。
 なぜ彼はスマホなんて咥えていたのか。状況を見るに、爆発したのはバッテリーだろう。大きな衝撃を加えると、電子機器のバッテリーは発火して炸裂する。だが、普通に使用しているぶんにはそれほど大きな負荷がかかることはないはずだ。
 麻生はりんねの意味深な言葉を思い出し、ステージのほうを見た。
 すると、見計らったかのように、会場の明かりが一斉に点灯した。
「きゃあああああああああああああっ∈」
 同時に、巨大な悲鳴が鳴り響いた。全員の視線がそちらを向いていた。
 ステージ――そう、赤いステージがそこにあった――。
 だが、明らかに、奇妙なものがステージの上に飾られていたのだ。
(……あれは……なんだ?)一瞬、わからなかった。
 天井から吊り下がっている。いくつもの、重たそうな物体……。
 地面に向けて、ゆらり、ゆらり、と、洗濯物のように伸びては、揺れる……。
 真っ黒なケーブルが天井を覆っていて、その下からくるりと……こちらを向く……。
 あのアロハシャツ……。赤い髪の男……。青いポロシャツの女性……。
 すべて、見覚えがある……。
「――っ∈」
 麻生は、それがなんなのか気づき、声を失った。
 あれは……。そう、あれは……。
「し、死んで、いるのか……?」
 どういうことなのかはわからない。だが、そこにあるのは、先ほど挨拶をした社長や役員たち五名と、ずっと笑顔で司会をしていた若い女性の――首吊り死体だった。
 霧の向こうに、すべて、淡く並んでいた。死体の悶絶の表情が、こちらを向いた。真っ赤な壇には、何か液体がしたたり落ちていた。本物だった。
 会場中が、動きだし、叫びだし、走りだし、パニックになる。
『――今日は、わたしの誕生日。……そして、みんなの命日ですよ♪』
 そして、その前方の白い霧の中、幽霊のような肌のりんねが、不敵に言った。


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