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【試し読み】斜線堂有紀の恋愛小説『彼女と握手する』なら無料

クリスマスなので昨年に続き、斜線堂有紀さんに恋愛小説を頂きました!! 恋人たちの記念日にふさわしいお話を、という依頼をしたのですが……果たして。斜線堂さんの恋愛小説『愛じゃないならこれは何』発売すぐに重版もかかり、大変な好評頂いています……感謝!! 今回は、その『愛何』の1編『ミニカーだって一生推してろ』に登場する地下アイドル『東京グレーテル』のメンバーのお話……。『愛何』をもっと楽しめる一品です。刮目してご覧ください……!! 

斜線堂有紀(しゃせんどうゆうき)

第23回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》を『キネマ探偵カレイドミステリー』にて受賞、同作でデビュー。『コール・ミー・バイ・ノーネーム』『恋に至る病』『楽園とは探偵の不在なり』『廃遊園地の殺人』など、ミステリ作品を中心に著作多数。恋愛小説集『愛じゃないならこれは何』絶賛発売中。


『彼女と握手する』なら無料


 東京グレーテルの黒藤えいらと握手するなら三千円。握手の際に話せる時間は大体十秒。三倍出してくれるなら三十秒。けれど、基本は十秒。
 満足に言葉を交わすには短すぎるのに、恋に落ちるには充分過ぎる時間。自分と触れ合う為だけに、こうして来てくれるファンを前に、えいらは数秒間だけ恋に落ちている。黒藤えいらのことを好きでいてくれてありがとう。私も好き。
 そして、スタッフの手で剥がされる時に恋が終わる。心の何処かで、あ、という感覚が生まれるけれど、そこから恋を引きずることはない。会いに来てくれてありがとう。また会いに来て欲しい。それ以上は、あまり考えないようにする。
 えいらが潔癖なまでにそう線引くのは、自分が恋を引きずってしまう側である自覚があるからだ。あまり肩入れすると、次のライブの時に来てくれなかったことに傷ついてしまう。自分じゃないアイドルの握手の列に並んでいることに胸が痛くなってしまう。だから、絶対に引きずりたくない。
 自分を一番に愛してくれない人間のことを、自分だけ愛したままでいたくない。
 彼氏欲しいな、と思ったのは二十五歳の春だった。丁度誕生日を迎えた頃で、東京グレーテルの黒藤えいらとしては全盛期の時代だ。そして、アイドルとしての彼女のピークが見えてきた時代でもあった。

 幼い頃から、可愛がられるのが好きだった。
 黒藤えいらが好きな『可愛がられる』というのは、自分だけおやつを少しだけ多く貰えたり、お昼寝の時間にこっそり園庭に出してもらって遊具を独り占めさせてもらえたり、お友達との喧嘩の時にさりげなく味方についてもらえたりなどの、そういうささやかなものだった。少しだけ他の人より、贔屓されるところにいたい。
 えいらは幼い頃から目鼻立ちがパッとしていて可愛らしく、その可愛さを自分で理解出来る程度には聡明だった。だから、それを思う存分享受し続けていたのだ。
 ただただ可愛がられたい。こうして、ちょっと特別なところに自分を置いてほしい。あの子は特別なんだなって、周りからも思われたい。
 それでも、大きくなるにつれ『可愛がられる』ことは減っていった。周りの人間が分別を覚え、黒藤えいらの可愛さが奇跡の盛りを過ぎるほどに、えいらの求める水準を緩やかに下回っていく。幼稚園の頃に得られたものより質の高い愛情が手に入らないことを知るなり、えいらは対策を講じる必要に迫られた。何とかしなければ、きっと自分は飢えることになる。
 そんな彼女がアイドルを目指したのは、ある意味では必然だったのかもしれない。予想されうる茨の道だ。けれど、彼女はその先に咲く花が欲しい。
 黒藤えいらが東京グレーテルに加入したのは二年前だ。一期生の頃からオーディションには参加していたものの、不合格だった。二期生募集の時に晴れて合格し、えいらは『東グレ』の桃色担当、黒藤えいらになった。
 名前に反して桃色担当になったのは、えいらが小柄で童顔だったからだ。身長は一四四・八センチ。年相応に見られたことのない、幼くてくりくりした目と短い手足は、黒を纏うには愛らしすぎた。
 東グレ一期生には既にパステルピンク担当の近藤ネオというアイドルがいたが、やや被っていてもなお、えいらは桃色に任命された。そのくらい、えいらにはその色が似合っていた。
 えいら自身もそんな自分のことが好きだった。小さくてか弱そうで、いかにも女の子という顔をした、桃色が似合う自分。あざとさがストレートな武器になる世界で、えいらは密かに燃えていた。愛されたい。華やかな舞台で、きっと自分が一番になりたい。
 『アイドルになりたい』と『愛されたい』は、えいらの中でニアリーイコールだった。誰よりも可愛くあって、歌も踊りも頑張って、ファンサービスだってしっかりやるから、黒藤えいらのことを最大限に愛してほしい。桃色の衣装を初めて身に纏ったえいらは、集まった全ての人に告白するような気持ちで舞台に立った。自信はあった。だって、黒藤えいらは完膚なきまでに可愛い。
 実際に、二期生の中で一番人気が出たのはえいらだった。飛び抜けてパフォーマンスが上手いわけじゃないが、外見は目を惹いたし、何より愛されたいという気持ちが違う。東京グレーテルの握手会は選抜メンバー七人だけが参加するのが常だったのだが、えいらは二期生の中で唯一、二回に一回は握手会に呼ばれるほどだった。
 握手の際は相手と目を合わせてはっきりと言った。えいらの列に並んでくれてありがとう。また来てね。大好き。握った手を軽く撫でると、相手が微かに身を固くするのが分かった。

『黒藤えいらのファンサ神過ぎる』
『えいら担になるやつマジちょろいな』
『えいらはガチ恋営業ヤバくて冷める』

 当初は、えいらに対するそんな声もあった。
 わざわざファンに恋愛感情を抱かせるようなことをするべきじゃない、というルールは、表向きは声高に主張されている。アイドルは恋愛禁止が基本だし、ファンが勘違いするようなことがあれば致命的なトラブルに発展しがちだ。
 けれど、えいらはやめなかった。ガチ恋営業と言われても、リアコ製造と呼ばれても、チェキ撮影の時は恋人のように寄り添って、耳元でファンの名前を囁き続けた。
 だって、えいらにとっては営業じゃなかった。その時その時で、えいらは本気で恋をしている。恋に落ちてから別れるまでのスパンが短すぎるだけだ。どの相手だって本気で好きだし、その都度別れに身を切られている。
 それに、パフォーマンスだって手を抜いたことはない。パステルピンクの近藤ネオに負けないくらい、ピンクのペンライトを振られた時に、自分のものだと胸を張って思えるように。
 そうした努力もあって、えいらは二期生トップとして内外から認められるようになった。
「えいら。えいらの熱意は凄まじいものがある。見ていて眩しいし、他の子にもいい影響を与えてると思う。東グレ二期の星だよ、えいらは」
 マネージャーに褒められると、小さな身体がぞわぞわと歓喜に震えた。ありがとうございます、と丁寧にお辞儀をして、求められている笑顔を向ける。
「ただ……その、少し気になることがあって」
「何ですか?」
 まさか今更営業の方法に文句をつけるのだろうか、とえいらは訝しむ。散々自分はこれでやってきたのだし、運営側もそれを黙認し続けてきたというのに。
 だが、マネージャーがしてきたのは斜め上の心配だった。
「えいら、ファンの人と本気で繋がったりはしていないよね? 好きになったりはしてない?」
 ああ、そっちか、とえいらは思う。ありふれた心配だ。
 アイドルと付き合えることはない、と嘲笑混じりで揶揄されることも多い業界だけれど、実はそんなこともない。ファンと恋に落ちるアイドルなんて、この業界には掃いて捨てるほどいる。そうして何も言わず、誰かの為の一人になって、アイドルを辞めるのだ。
 そういう子たちは一瞬だけの恋から抜け出せなかったのだろう、とえいらは思う。──でも、私は違う。私はちゃんと、愛の使いどころを知っている。
 えいらは更に天真爛漫な笑顔を浮かべながら答えた。
「えー、マネージャーさんそんなこと考えてたんですか? えいらびっくりしちゃった。大丈夫! えいらはそういう心配無いです。ファンの人みんな好きだから、絶対そういうのにはならないです!」
「本当に? いや、信頼してるよ? 信頼してるけど、だからこそっていうのもあるから……」
「信頼してください! もー、そういうの結構ちゃんとしてるのがえいらなんですけど!」
 わざとらしく頬を膨らませても、わざとらしく見えないのが黒藤えいらだ。これが彼女の武器だった。
 マネージャーは妙な疑いを掛けたことを謝って去って行った。疑われたことは気にならなかったが、マネージャーの心証が悪くなっていないかは心配になった。マネージャー相手だって好かれたい。一番可愛いと思ってもらいたい。そこに愛があるなら、出来るだけ多く欲しいのだ。
 けれど、マネージャーはマネージャーで、黒藤えいらだけを担当しているわけじゃない。えいらのことだけを考えてライブを組んでくれることはなく、えいらが一番だよと言ってくれることもないのだ。

 程なくして、黒藤えいらの握手会参加は恒例のこととなった。二回に一回の参加では、えいらの列が長くなりすぎたからだ。けれど、毎回参加するようになっても、えいらに握手を求める人々は減らなかった。毎回握手が出来るのなら、そうしたい。素直で衒いのない欲望に、えいらの心が満たされていく。地下アイドルの中では、えいらは充分に成功した方だった。
 だが、その辺りを境に、えいらはちらちらと推し変の憂き目に遭い始めた。えいらのことを大好きだと、一生推すと言ってくれていた相手が他のアイドルを推し始める。あるいは、ライブにすら来なくなる。そういうことが何度もあった。ファンが多くなったからだというのは分かる。けれど、納得が出来るはずがない。
 どれだけ多くなっても、えいらはちゃんと覚えているのに。一人一人にあれだけきめ細やかに愛情を注いでいるのに、それでも自分を裏切る相手のことが信じられなかった。黒藤えいらは今日も十全に可愛い。なのに、もう必要無いなんて言わせたくなかった。
「えいらちんは気にしすぎだって。そりゃあたしも同じことでへこんだりするけどさ、えいらちんに限っては気にすることない」
 そう言ったのは、同じ東グレ二期生の舞角伊織だった。担当している色は黄緑で、スポーティーで元気なイメージで売っている。
「私に限っては気にすることない? って?」
「えいらちんは人気あるからそういう回転が速いんだよ。あたしはそんなに人気無いから、逆に太客が離れないわけで」
 伊織の言う通りではあった。えいらの人気は二期生どころか、一期生を合わせた中でも上位になってきていた。一期生の選抜に交じって歌うことも多くなり、東京グレーテルの顔になり始めている。とりあえず黒藤えいらと握手をしておこう、という層が出てきていることは理解していた。黙り込むえいらに対し、伊織が溜息交じりに言う。
「要するにえいらちんは贅沢ってこと。人がいなきゃ離れられたりしないんだからさ」
「贅沢かもしれないけど、傷つくんだもん。毛布があるだけ良いって言う話でも、剥がれたら寒いでしょ。だったら最初から推さないでほしいよ。握手したらずっと私のこと好きでいてほしい」
「昔の遊郭とかだと、推し変は御法度だったらしいけど」
 歴史に詳しい伊織が、冗談めかして言う。
「じゃあその仕組みがいい。推し変とか、他界するのも決まりで禁止してよ」
「重い彼女じゃん」
「重い彼女にしてほしいよ」
 えいらは半ば本気で言う。自分のことをずっと好きでいてくれる、そんな相手がほしい。何枚も握手券を積んで、一分以上えいらに使ってくれる人間が沢山ほしい。自分の一生を買い上げるだけの握手券を積んでくれる相手のことを、えいらはぼんやりと想像する。

 握手一回に三千円なんか高すぎ、というのは界隈外の人間からよく言われる言葉だ。下手したら風俗で本番出来るじゃん、という下世話なのか本気なのか、あるいは訓示であるとでも思い込んでいるのか分からないアドバイス。
 半分は興味本位で、半分は上手く言い表せない切実さで、えいらはその相場を調べた。風俗での本番行為は、指名さえしなければ大体四万円から五万円で、素直に驚く。そのくらい出せば、セックスまで辿り着けるのか。どれだけ握手券を積んだとしても辿り着けないところに。
 えいらが積まれた最高額は五万四千円だ。その時の握手会はえいらの誕生日が近くて、お祝いに三分間も積んでくれたのだった。積んだ相手はえいらよりずっと歳上の、無個性で小太りの中年男性だったが、それでもえいらは感動したし、この人となら添い遂げられるのかもしれない、なんて本気で思った。
「ねえ、お名前を教えてくれませんか?」
 彼はこれだけえいらに積みながら、自分の名前を明かそうとはしなかった。本名にせよハンドルネームにせよ、みんな名前を名乗ってえいらに呼んでもらおうとするのが常なのに。えいらがじっと見つめると、男は言った。
「タカノリだよ」
「タカノリさん! ありがとう。えいら、これからもタカノリさんのこと待ってるね。これからも頑張るから!」
「うん。えいらと握手して、こうしてお話出来る時間が一番大切だよ。一生推すから頑張ってね」
 顔が熱くなりそうだった。お金も時間も使ってくれて、こうしてえいらに価値を与えてくれる。一生推してくれる。それだけで、今までの全部とこれからの全部が報われるような気分になった。えいらはタカノリの手をもう一度ぎゅっと握って、笑顔で言った。
「えいら、タカノリさんのこと大好きだよ。本当に大好き」
 全然恋愛対象でもないはずの、タイプでもない相手のことが好きだった。もし自分がみんなの黒藤えいらじゃなくなったら、名字と漢字表記を教えてもらいたいと思うほどに。
 そのタカノリがライブに来なくなって、えいらはしばらく荒れた。ファンは所有物じゃないし、恋人でもない。ライブに来なくなるとしても、事前申告なんか要らない。それでも、悔しかったし寂しかった。
 タカノリは自分のことを好きだったはずだ。あの後も度々タカノリはえいらにとっておきの三分をくれた。向けられる誹謗中傷も心無い言葉も、投げかけられる下品な野次だって、タカノリが自分を推してくれている間は耐えられると思っていたのに。
 そのタカノリがいなくなることなんて想像もしていなかった。
 最初は何かの間違いだと思っていた。でも、何度ライブをしても、終ぞタカノリが現れることはなかった。
 一生推す、という言葉が頭の中で反響する。
 愛が欲しい。自分だけに向けられる、生身を伴った本物の愛情が。十秒だけで終わらない恋がほしい。ずっと推してくれるって言ったじゃん、何で他の子にいっちゃうの?
 タカノリが、どこかで野垂れ死んでくれていないかと本気で思った。そうしたら、えいらはタカノリのことを赦せるだろう。タカノリは東グレのライブに来る最中に、不幸な事故に遭って亡くなったのだ。最後の最後まで、えいらのことを考えながら、自分が来なくなったらえいらはどれだけ悲しむだろうと心を痛めながら死んだ。
 そうでも思わないとやっていられなかった。
 自分に会えなくても大丈夫なタカノリのことなんか、想像したくなかった。



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