周藤蓮の短編小説「人生最後の五分の悪足掻き」
周藤蓮さんから短編小説をいただきました。周藤さんは電撃文庫「賭博師は祈らない」で2017年デビュー、同レーベルから「吸血鬼に天国はない」シリーズ、ハヤカワ文庫JA「バイオスフィア不動産」などミステリ、SF作品で活躍しています。今回いただいたのは、今死につつある男の、人生最後に残された5分の物語。作家の発想が光る良質ミステリ短編、最後まで目が離せない短編です!!
人生最後の五分の悪足掻き
昔から病院の診察が嫌いだった。
自分の不調にただの風邪だとか名前をつけられると今感じている苦しさを軽んじられているような気がしたし、まだ元気だったあの人はガンだと告げられるたびに痩せ衰えていくように見えた。
僕の人生を振り返れば、似たような感慨ばかりが詰まっている。
関西出身という経歴は、人間関係に無駄なバイアスばかり生んだ。仲のよかった友人とは、成長するにつれて男だから女だからという理由で疎遠になった。好きだった新人漫画家の連載は、有名漫画家のネームバリューに負けて打ち切られた。
そうして遡っていくと、いつも思い出すのはささやき声だ。
「あの子の家は■■■■■だから……」
「ほら、あの子が■■■■■の子よ……」
「やっぱり■■■■■だと、ほら、ああなっちゃうのねぇ……」
そんな類いのささやき声は、子供の頃の僕に絶えずつきまとっていた。僕が何をしても、どんなことをいっても、最後には一つの理由に還元されていった。
そうしてうんざりしながら育った僕は、当然のように名前嫌いの人間になった。
名前がつくと理解した気になられる。名前で表現されるとある種の定型に押し込まれる。名前を呼ばれるとそこに何らかの感情を投影される。病院に行けばこの固定観念にきっと気の利いた疾患の名前をもらえるのだろうが、残念ながらもう十年以上も行った記憶がない。
僕の成長とそれに伴う自由は、名前を避けることにばかり費やされてきた。どこかに所属したり、どこかに名前を出したり、そういったことをなるべく減らすように。横断歩道の白線だけ踏む子供みたいに人生を歩んできた。
そうして僕は都内の隅っこに暮らすトレーダーになった。
小さなマンションの一室で、株のスカルピングによって糊口をしのぐ。収入は不安定だし、一日中モニターを眺めているせいで絶えず頭痛につきまとわれる生活だ。しかし少なくとも数字だけを追っている間は名前と無縁でいられたし、引きこもって他人との関わりを可能な限り減らせば、言葉で理解した気になられる機会も減った。
カーテンを閉め切って世界を締め出し、頭の中から言葉をなくせば、僕の名前恐怖症も随分とマシになる。いつまで続くかはわからないが、生きている間はずっとそれを続けていくのだと、そう思っていた。
ところで話は変わるが僕は今、死にかけている。
「あー……」
無意味な言葉が口から漏れる。
同時に血とよだれも。
包丁は腹に深々と突き刺さり、ほとんどその柄しか見えない。感じるのは痛みというよりは焼け付くような熱さと、そして骨が震えるような異物感。十数センチの刃がまるごと腹に収まっているのだから仕方がないだろう。
両手でキツく傷口を押さえているが、それで止まるような流血ではない。溢れ出す血が手指の隙間を通り、床へと滴っていく。
そして僕に包丁を突き立てた犯人は、眼前に転がっていた。
「これはさすがに、まずいな……」
見つめる先に転がっているのは一人の女性だ。
その子が家にいること自体は特に問題ではない。僕の交友関係は非常に乏しいが、その中でも特に関係性が濃いのが彼女だ。僕の家の風呂には彼女のためのヘアケアグッズが置かれているし、週の半分くらいは彼女は僕の家に泊まっていく。
僕たちの関係性を世間的にわかりやすい言葉にするのは簡単なのだけれど、残念ながら僕はそれが嫌いだ。
『メイクをしないうちは鏡は見ないの。嘘の顔が見返してくるから』
そう語っていた厳重な管理の施された彼女の顔も、今はもうメイクが不要なくらいに青ざめている。
『たくさんの布と小道具を身にまとう。これが先に置かれた結果で、ゴスロリ風なのは結果にたどり着くために求められた経過なの』
そう語っていた装飾過多なコルセットを貫いて、彼女の腹にも包丁が刺さっているからだ。
昨日、僕の家に泊まった彼女は、今朝になって突然に僕を刺してきた。そしてその直後に自分の腹も刺して自殺したのである。
僕と彼女自身の分で二本の包丁を用意しておく妙な周到さと、その割に僕が未だに死に切れていない詰めの甘さ。なんとも彼女らしい話ではある。
「どうしようかな……」
正直にいって、彼女に暴力を振るわれたことは特に驚くには値しない。包丁で刺されたことですらも。
いつだって彼女は不安定で、いもしない敵に怯えていた。彼女は絶食と暴食、過眠と不眠、躁と鬱の間を振り子のように揺れ続けていて、一度として落ち着きを得たことはなかった。彼女に投げつけられたものをリスト化していけば、この家にあるもののほとんどを書き出すことになるだろう。例外は彼女には重すぎて持ち上げられない類いの家具だけだ。
だからまぁ、刺されたことは本当に意外ではない。普段よりも程度のひどい暴力が、たまたま致命傷につながったというだけで、そこに大して意味はないだろう。もし問いかけてみても、彼女も特にその理由を説明できないに違いない。
致命傷。
その言葉を思い浮かべた瞬間にガクリと体から力が抜けそうになって、慌てて首を横に振る。明らかに大事な臓器と血管が壊れていて、数分後にはきっと死んでいるだろうけれど、まだ生きている。そんな物騒な名前は必要ない。
「この際……死ぬのはいいとして……」
別に死にたいと思ったことはなかったが、こうしてその間近に至ってもさして生きたいという気になれないのも事実だ。
それに無数の名前とレッテルの集合体のような気がして、僕はスマホを契約していない。仕事上必要なパソコンは渋々と持っているが、ネット経由で救急車は呼べるのだろうか? まぁ、仮にパソコンから通報ができたり、僕がスマホを持っていたりしたとしても、救急車がくるまで自分が耐えきれるとはとても思えない。
だから僕にとって現状の問題は、一つだけ。
「これ絶対、痴情のもつれって報道されるよなぁ……」
マンションの一室で男女が死亡。犯人は女性であり、計画的に凶器を用意した痕跡あり。夕方のニュースに自分がなっているところを想像する。無理心中。集団自殺。交際関係にあった男女間のトラブル。死後の僕らに的外れないくつもの言葉が当てはめられる。
最悪だ。
「……どうにか、しないと」
それが自分の死んだ後のことだとわかっていても、我慢ならなかった。
このままでは名前に押し込められる。理解した気になられてしまう。よくわからない人々にベタベタとレッテルを貼られてしまう。
「よし」
そう気合いを入れる。現状、何よりもやるべきことはわかった。
僕はここを、理解不能な事件現場にしなければならない。
あと数分で死んでしまうよりも前に。
「状況を整理しよう」
僕がいるのは2LDKの自宅のリビング。二つある部屋の一つは自室、もう一つは仕事部屋ということになっている。
しかしあの子が半ば住み着くようになってからは、自室をほとんどあの子に明け渡していた。実質的には片方が仕事部屋兼自室、もう片方はあの子の部屋という感じである。そちらの部屋にはかなり長い間入っていない。
午前八時。仕事の関係上、僕はいつもこの時間辺りから朝食の準備を始めるので、彼女もそれを狙って構えていたのだろう。まだ焼かれていないソーセージがキッチンから垂れ下がっている。
このままだとリビングに死体が二つ転がることになるが、その前になんとか足掻かないといけない。
「とりあえず……このまま報道されるのは気にくわない。それが前提だ」
もちろん、現代の科学捜査の進歩を思えば、僕が死に際にできる小細工なんてそう時間もかからずに解き明かされてしまうだろう。最後まで全ての人を騙すことなんて不可能だし、そんなことをする必要もない。
必要なのは初動捜査を混乱させること。それだけだ。
僕たちの死が最初に誰かの目に触れて、最初に報じられるその瞬間。貼られるレッテルがなるべく少なければ少ないほどいい。どうせ僕たちの死なんて最初の一回以外は大して報じられないだろうし、最大多数の人の目において僕たちの死が不審なものとなればそれでいい。
ニュースになる時点でじんましんが出そうなくらいに嫌悪感はあるが、この状況ではそれは受け入れるしかない。
「となれば必要なのはなんというか、余地だな」
このままだとこの部屋で何があったかなんて一目瞭然だ。
ここには誰かがいたのかもしれない。何かがあったのかもしれない。そうして悩む余地を作らなければ。そうしてこの部屋にきた捜査員を少しでも悩ませれば、不思議な事件のニュースになることができるだろう。
まずは、凶器の確認か。刺された瞬間に包丁であることは認識していたが、僕は改めて真っ赤に染まった腹を見下ろした。
「いつも使ってるやつ……ではないよね。わざわざ買ってきたのかな?」
だがそれにしては妙に古びている。
かすかに傷のついたその柄を眺めると、不意に小さく脳が刺激された。
『今は私に優しくしないで。優しくされる価値がまだないから』
まず声を思い出す。
確か、あの時の彼女はそんなことをいっていた。この家に入り浸るようになってすぐだったはずだ。
彼女は包丁の刃を素手で握っていた。たれ落ちていく血の赤色。表情は抜け落ちたようになく、なんだか酷く疲れて見えた。
『いつもあなたは優しくしてくれるけど、今はまだそんな価値がないから。血を拭いて、顔を洗って、メイクをして。それから優しくして』
その頃には彼女の突発的な行動にも慣れていたので、朝から包丁で自傷行為に走っていたのにも大した動揺はなかった。
自分はなんて答えたんだったか。
記憶は判然としなかったが、答えはすぐに見つかった。昔から僕の価値観はほとんど変わっていないので、今の僕がいいそうなことを思い浮かべれば、それがおおよそ昔の僕もいったことになる。
『別に許したつもりも優しくしたつもりもないけど……包丁がダメになってクソがとは思ってるよ。君は僕たちの関係に名前をつけようとしないから、その時点で世の中の大半の人間よりはマシだっていうだけで』
正確かはわからないが、大意としてはこんなことをいったはずだ。
イライラとしていたのは包丁を新しく買い直さなければいけないのと、そして人付き合いを完全に絶てずに彼女を家に呼ぶほど孤独に耐性のない自分に腹を立てていたからだろう。
あの子はひどく面倒でうっとうしい人物だったが、付き合いを続けても関係に名前を当てはめてこないところだけは好きだった。
僕の返事を聞いて曖昧に笑った彼女。
その手が握っていた包丁が、視界の中の柄とダブる。
「あの時のか……じゃあ大体二年くらい前だな」
量販店で買ったありふれた包丁が、二年あまりも彼女の部屋に隠されていたことになる。つまり警察だって購入ルートは割り出せないに違いない。
キッチンに置いてあった布巾を手に取り、自分の腹に刺さった包丁の柄を拭き取る。突き出した柄に触れた瞬間、口から奇抜な悲鳴が漏れたが、それは省略。
そろそろとした仕草で、倒れ伏したあの子にも近づく。
横向きにうずくまった姿勢の彼女の腹。そこにも包丁の柄があるので、こちらも丁寧に柄を拭いておく。触れた彼女の肩がまだ生暖かくて驚く。こんなにも簡単に命は失われるのに、体温だけが体にしがみついている。
「……よし」
ただの水拭きで指紋が完全に隠滅されるのかは知らないが、大事なのは「証拠隠滅をしようとした痕跡がある」という事実だ。これは外部犯がいるという強い示唆になるに違いない。
そのまま布巾ごと押さえ込むように、傷口を押さえ直す。
これでこの布巾が柄を拭くのに使われたという事実も、いくらかは隠されてくれるはず。今も溢れ出す血で布巾が濡れていき、拭き取った血と混じり合っていく。
「でもこの程度じゃ足りないだろうな……」
これだけで警察が外部犯の可能性を考えてくれるとは思いがたい。
もっと明確に、誰かがここへきて去ったのだという証拠が欲しい。
「となれば……」
答えは自然と導き出せた。
「侵入経路の確保。これだな」
閉め切られた密室と開け放たれた部屋では、第一印象が違う。
僕はすぐに窓へと向かおうとして、しかし足が止まった。視線の先にある窓は分厚いカーテンで覆われているし、その先ではしっかりと鍵がかけられているはずだ。
僕は自分の両手を見下ろす。
今もなお傷口を押さえ続け、真っ赤に染まっている両手を。多分貧血でぼやけてきている頭で想像する。仮にこの両手でカーテンと窓の鍵を開けたとする。
そこには間違いなくべったりと手形が残されるだろう。
「つ、詰んだ……!?」
この手でカーテンを開けたら、そこに残されるのは外から誰かがきた証拠ではなく、内側から誰かが出ようとしたという証拠だ。僕が望むような外部犯の示唆にはならない。
かといって両手をきれいにするのも現実的ではない。今もだくだくと血は流れ続けているのだから、洗えばきれいになるというものでもないだろう。
包丁の柄を拭くのは簡単だった。使った布巾はそのまま傷口を押さえるのに使ってしまえばごまかしが利いたからだ。しかしカーテンや窓に残る手形はどうしようもない。咄嗟にごまかす手段が浮かばない。
『ほら、だからカーテンくらい開けようっていったじゃん。近所の人に怪しまれちゃうよ? 普通になれないとしても、なるべく普通に近づいていかないと』
耳元であの子の声がする。
「うるさいな。そうやって世間体を無視できないのが、お前の不幸の原因だろうがよ」
返事をしてから、ため息を零す。
さっきのは今聞こえた声じゃない。ずっと昔にした会話が頭の中で響いているだけだ。大量の血液を流したせいで、もうろうとしてきているらしい。
『じゃあそうやって普通から遠ざかり続けることがあなたの幸せなの?』
記憶が耳の奥で響き続けている。
これに自分はなんて返事をしたんだっけ? そう思ってから、ついで聞こえた彼女のグズグズとした声で察する。
『ご、ごめんね……違うの。別にあなたを否定したいわけじゃなくって……言い過ぎちゃってごめんなさい……怒らないで、許して……』
返事をしなかったせいで彼女の精神が悪い方向に振れてしまったのだ。
「あー、うるさいうるさい……」
自分に言い聞かせるように呟く。死ぬ前も頻繁に辟易とさせられたが、死んだ後ですら彼女は酷くうっとうしい。部屋のあちこちに彼女との記憶がこびりついている。
頭の中でいくつか手段を考えてから、結局断念する。
自分で開けたという証拠を残さずに窓を開けるのは無理だ。特にカーテンが厳しい。近づいただけで布地に血の痕が残るだろうし、それは偽装の痕跡を克明に語ってしまうだろう。
ならば、と次に目を向けたのは玄関である。
こちらも当然、鍵はかかっているが、少なくともカーテンはない。
しかし鍵は閉められ、U字形のドアガードもきちんと施されている。
「手で触って開けるのは……やっぱりなしだよな。血の痕をつけずに触る方法がない。つけた後で拭くのもなし」
外から犯人が入ってきて刺し、そして逃げていった。
そのストーリーを信じ込ませるための証拠を作るのならば、扉を開けた人物の手が血で汚れていてはいけない。特にドアガードなどは『犯人』が入ってきたときから開いていたという風になっている必要がある。
問題は、それをどうやって実現するかだ。
「なんかいい案思いつけよ……ミステリとかまあまあ読んできただろ、僕……」
とはいえミステリで取り扱われるのは大体が密室を成立させる仕組みの方だ。密室を不成立にしようという試みは変則的で、例がないとはいわないが少ない。今この場で役に立ちそうなトリックはすぐには思い出せなかった。
「考えろ、密室といえば……針と糸。それにテコと滑車。けど今僕の手は血まみれなんだから、血に染まった糸をそのまま残すことはできない」
というか、と辺りを見回す。
「いい感じの糸なんて僕の家にないんだけど? 一般的なご家庭って都合よくワイヤーとかたこ糸が常備されているもんか……?」
そうして考えている間にも死が刻々と迫ってきている。
焦りから腹を押さえる手に力が入る。その腹の下で胃がうごめいているのがわかる。あと数分で死ぬというのに、体はしっかりと空腹を覚えているらしい。のんきなことだと呆れてしまうが、考えてみれば朝食を取る直前だったのだ。仕方のないことだろう。
そんなことを考えて……視界の端で揺れるそれに気がついた。
「…………あっ」
古臭い二口のコンロ。その上に載った使われなかったフライパン。
そして、そこからぶら下がった一繋がりのソーセージである。
「よぉし……!」
数十秒後、僕はソーセージを片手に構えていた。
まだ切られる前の数珠つなぎの状態のソーセージ。その両端を右手でひとまとめに握っている形だ。緩いわっか状になったソーセージは、今はだらりと垂れ下がっている。
このソーセージを糸の代わりにして、血の痕跡を残さないままに扉の鍵を開ける。やるべきことはシンプルである。
ゆっくりと呼吸を整えたいが、もうそんな時間もないだろう。
僕は左手で腹を押さえたまま右手を緩慢に掲げ、
「……せいっ」
勢いよく横向きに振り抜いた。
気分としては西部劇のカウボーイ。遠心力によって伸びたソーセージが、ドアガードの辺りへとペシリと当たる。
が、しかしそれは金属の扉に弾かれてしまった。
「……まぁ、一発でうまくいくとは思ってなかったよ」
焦りと落胆を押し殺し、僕はもう一度ソーセージの輪を振るう。弾かれるたびにもう一度。そしてもう一度と。
数分も経たずにドアガードの僅かな凹凸に引っかかってくれたのは、死に瀕している僕が類い稀な集中力を発揮したのか、神さまがさすがに憐れんでくれたのかのどちらかだろう。
右手を宙に浮かせたまま、慎重に握力を調整する。
ソーセージの輪はそれなりに頑丈だが、決して本物のたこ糸やワイヤーのような強度はない。無理な力を込めれば、ぶつりと切れてしまうに違いない。
床に対しては水平に、扉に対しては斜めにそっと引っ張る。
ドアガードに引っかかっている摩擦と引っ張られる力。それにドアガードの稼働方向がきちんと釣り合っているうちは、徐々にではあれ力が伝わっていくはずだ。
もちろんソーセージを投げ縄にするのなんて初めての経験だし、ドアガードを手以外ではずそうとしたことなんてない。それでも、どんなに突飛な行動を取っていたとしても、物理法則というのは正しく働いてくれる。
永遠にも感じるくらいにジリジリとしたせめぎ合いの末、ドアガードが根負けしたようにパチリと音を立てた。
「よっし……!」
最初の引っかかりさえ越えてしまえば、ドアガードはあっさりと動いてくれた。完全に外れた状態となったのを確認してから、ソーセージを手元に回収する。
もうこれだけで倒れてしまいそうなくらいに疲れていたが、残念ながらまだやるべきことがあった。
扉の鍵も開けねばならない。
「まずはサムターンに引っかけて、っと」
これは先ほどドアガードに引っかけたときと同じような手順だ。
ありふれたサムターンは今は横向きになっているので、ドアガードを狙ったときよりは簡単に引っかけることができる。
問題はここからである。
鍵を開けようと思うのならば、サムターンを左向きに回さねばならない。ソーセージを――というか紐を通じてつまみを左向きに回したいのならば、取るべき行動は明確だ。
まずは紐を横向きのサムターンの上側に沿わせる。それから両手で紐の両端を握ってピンと伸ばし、徐々に左手を下げていけばいい。紐の頑丈さに期待しなければいけないが、力の調節としては先ほどのドアガードの時よりは簡単だ。
だが、つまり、それをするためには両手を使わなければならないのだ。
「…………何秒かなら、大丈夫だよな?」
僕の腹には包丁が突き刺さっていて、片手で押さえている今ですら血が止まらない。もしも両手を傷口から離したりしたら、出血の量は今の比ではなくなるだろう。
サムターンを回そうとしている最中に失血で気を失い、そのまま死亡。これはとても嫌なパターンだ。
けれど、と血の味のする唾を飲み込む。
だとしてもこのまま無理心中なんて報道をされる方が最悪である。やらねば最悪な道を辿るのは確実なのだから、ここは頑張らねばならない。文字通りに死ぬ気で。
「すぅー……はぁー……」
残り少ない余命を削りながら、長い深呼吸を一つ。
「行く、ぞっ……!」
意を決して左手を傷口から離す。
その瞬間、腹から大量の血が流れ出すのを感じた。あるいは命そのものが。
ガクガクと震える膝に力を込め、奥歯を割れんばかりにかみしめて意識を保つ。感覚が薄れていく左手でソーセージの片端を掴んだ。
両手に力を込め、ソーセージをなるべくピンと張る。そして緩やかに、サムターンを左方向へと回していく。
一秒でも早く終わらせたい。
しかし焦ればソーセージがちぎれる。
だが長くかけ過ぎれば失血が進む。
背筋は冷えているのに、首筋には冷や汗がびっしょりと滲んでいるのがわかる。呼吸は速く浅くなっていくのに、肺の奥はどんどん苦しくなる。
血が流れ過ぎている。
死にそうになっている。
そこまでして必死になって――ソーセージを引っ張っている。
意識したのがダメだった。
「………………ふはっ」
傍から見た自分の馬鹿馬鹿しさを想像した瞬間に、膝からかくりと力が抜けた。体重がかかったのがよかったのか、サムターンが勢いよく左へ回る。鍵が開く。
けれどそれを喜んでいる場合ではない。
一度体勢が崩れてしまえば、それまでだった。立ち上がろうという意思はあるのに、体はわら人形になったみたいに力が入らない。関節が油を差しすぎたみたいにつるつると滑り、上半身が前のめりになり、膝が床へと打ち付けられ、頭が先に落ちていき、
「あ、まず――――」
そう思ったが、もう遅い。
僕はうつ伏せに倒れて。
自分の体重によって、ぐちゅりと包丁が腹に押し込まれた。
玄関に倒れ、横向きになった視界。
そこから見えるのは靴箱と、そこに並んだいくつかの靴だけだ。
これはまずいな、と考える。痛みがない。辛さもない。ただ体の内側に染み入るような、果てしない静寂だけがある。
きっとそれが死に違いない。抗わねばと思っているのに、そう考えている思考自体がサラサラと崩れていく。
まだやるべきことを終えていないのに。ドアガードと鍵を開けることには成功したが、僕の手にはまだソーセージの輪が握られたままのはずだ。もうその感覚もないのだけれど。
これが手元にあったままでは、外部犯の存在を示唆するという作業も中途半端である。さっさと証拠を隠滅しなければならない。
そのためには立ち上がって、頑張って、それで――
それで、また馬鹿みたいなことをするのか?
嫌に冷静な考えが浮かぶ。
僕がやっていることには客観的な意味はない。死を避けようと頑張るのではなく、死の真相を隠そうと足掻くだなんて。僕はただ警察に迷惑をかけるためだけに、ソーセージを片手に這いずり回っていたアホである。
それなのに、また立ち上がるのか?
「……………………あー」
必死にかき集めようとしていた意思のかけらが、指先から落ちていくのを感じる。そんなことをして、何になるというのだろうか。このまま目を閉じてしまった方が、みんなが幸せになれるんじゃないだろうか。
そもそもこんな生き方を選ばなければ。もっと普通に生きていれば。名前を避けていなければ。せめてスマホくらい持っていれば。
そんな後悔をすることですら、もう面倒くさい。
僕はゆっくりとまぶたを閉じて、
その裏側の暗闇に、子供がいた。
子供の頃の僕がこちらを見ていた。
その瞳に浮かんでいるのが泣きそうなくらいの怒りであることを、僕は知っている。
床に爪を立て、鉛のように重くなった体を持ち上げようとする。
「ふ、ぐ、ぎぎ、ぎぃ…………!」
腕は激しく痙攣し、唇の端からは粘着質なよだれが垂れ落ちる。上半身を起こすと、押さえられていない傷口から血やその他諸々の混合物がどぼどぼと溢れ出した。
あらゆる感覚が一斉に押し寄せてくる。
寒さ、痛み、苦しさ、だるさ、気持ち悪さ。包丁が押し込まれたことで文字通りにかき回された腹の中からの感覚は特に甚大で、脳が焦がされそうなほどに辛い。
でも、それを押しのけるくらいに、僕は怒っていた。
「ふざけんなよ、僕はもう死ぬんだよ……!」
くだらない生き方をしてきたことなんてわかっている。名前を避けるなんて生き方を完全に達成することは不可能だし、仮にできたところで何の意味もない。
だがそれは、僕がそうして生きるしかなかった道だ。
ありふれた言葉を僕の不幸に、動機に、心情に当てはめられるたびに僕の心には怒りがもたらされた。どうしようもない生き方を、しかしためらいもなく選ぶほどに。
そのくらいに僕は怒っていた。
あの頃の僕は、確かに怒っていたのだ。
僕はもう死ぬだろう。もう間もなく死ぬのだろう。だがそれがなんだというのだろうか。死ぬ程度で生き方を曲げるだなんて、僕の怒りがその程度だとでもいうのだろうか。
血とよだれと一緒に、意思を絞り出す。
「死ぬまで貫き通してやる……!」
この部屋を、ありきたりな言葉を当てはめられない現場にしてやる。
僕は血だまりの中から身を起こし、そこに浸っていたソーセージを拾い上げた。血でぬめるそれを握り、口元へと運び、勢いよく噛みちぎる。
「まっず……クソが……!」
だがこうしなければならない。血まみれの手で握られた痕跡のあるソーセージが残っていては、『外部犯』の存在に疑いが残ってしまう。
火も通っていないソーセージを無理矢理噛みちぎり、飲み下す。
もちろん司法解剖を受ければ胃の内容物だって確認されるだろう。死に際に生のソーセージを食べていた被害者に対して、監察医はどんな判断を下すのだろうか。
けれどとりあえずはそれでいい。僕の胃の中に詰まった生ゴミが、ドアガードと鍵を開けるのに使われた紐だとすぐにはわからなければいい。
何度も嘔吐き、戻しそうになりながら全てを飲み下す。
「次は……えっと、あれだ。防御……創……みたいな名前のやつ」
誰かに襲われ、抵抗をしたという風にするのならば、それを防ごうとしてついた傷というのは必要だろう。しかし腹に刺さった包丁を引き抜くわけにはいかないし、凶器の出所を謎にするのならばキッチンに置いてある包丁も使えない。
「あー……けど……」
二年前に彼女によってダメにされた包丁は、二本だけではなかったはずだ。つまり彼女の部屋にはまだ包丁が残されている可能性が高い。
僕は足を引きずるようにして、ここしばらく入った覚えのない部屋へと向かう。
「あと、混乱は多ければ多いほどいいか……」
左手で腹を押さえながら、右手で目についたものを片端から払っていく。
リビングのテーブルの上にあった食器類、壁にかけられていたカレンダー、キッチンに並んだいくつもの調味料。そうしたものが全て床へとぶちまけられる。
かなり長い間開けた覚えのない扉を、体ごとぶつかるようにして開ける。ここに血の跡が残るのは気にしなくていいだろう。僕が最後に、この部屋で息絶えればいいだけだ。玄関から入ってきた犯人に追われ、この部屋で力尽きた。そんな感じに見えるだろう。
久しぶりに入った部屋は、まるで人間という獣の巣のようだった。
ベッドを中心としてあらゆるものが無造作に堆積している。ベッドに近づくほど低く、離れるほど高い緩やかな傾斜。外の世界に対して築き上げた壁のようでもあったし、自分を閉じ込めるために作った檻のようでもあった。
残された包丁を探すのに手間はなかった。
古びた二本の包丁が、天板も見えないほどにゴミが山積した机の上に置かれていたからだ。あの子が自傷行為によって包丁をダメにしたとき、セットごと破棄した覚えがある。それをまとめて残していたらしい。
机の上にある二本のうち、一本を床に投げ出す。それからもう一本を手に取って、僕はためらいなくその刃を素手で握った。
「……痛……くはないな」
指先はかじかんだように感覚がなく、目で見なければ刃で掌に傷がついたかどうかすらも曖昧だった。右手で何度も握り、何本もの赤い線を掌に残してから、今度は左手。
両手にしっかりと刃物による傷をつけ、それから自傷に使った包丁もまた床に落とす。
『犯人』の侵入経路は確保した。襲われた痕跡としての防御創も残した。包丁の柄も拭いたので、犯行を隠蔽しようとした形跡もある。
足下を見下ろしながら、呟く。
「これで……全部か……?」
咄嗟にできる小細工は、これくらいが限界だろうか。
この現場が警察によって見つかり、ニュースになる様を想像する。僕に一番都合よく事態が運んだとして、押し込み強盗のような形で報道されたとして。
「………………」
思ったほどに、達成感がない。
できることは全てやったというのに、どこか腑に落ちない感覚がある。押しつけられるはずだった言葉をはねのけて、ざまあみろという気持ちに浸るはずだったのに。
引きこもっているうちに萎縮してしまった想像力では、世間の人から押しつけられる言葉は想像ができるのに、彼らから引き出したい反応はうまく描けない。
「……まぁ、いい」
僕は萎えた足に力を込める。残り少ない時間で、できる限り足掻こう。
混乱は多ければ多いほどいい。
室内の混沌具合は僕が暴れるまでもないように見えたが、それでも僕は目についたものを蹴り飛ばしていく。服、メイク道具、本、電子機器。そのたびに血と埃が舞い散り、淀んだ空気の中に鉄のにおいが混じる。
もっとだ、と口の縛られたビニール袋を蹴る。もっとだ、とガラスの小物を床にたたきつける。もっとだ、と僕は部屋の奥へと歩いて行き、
「ん?」
僕はそれを見た。
それはベッドの上に置かれた、一枚の紙切れだった。
かすんだ視界の中でどうしてそれに目を留め、そして動きを止めてしまったのか。それが自分でもわからずに困惑する。だが僕は自然と、その紙へと顔を寄せていた。きれいに印刷された文字が、どうにか視界の中で像を結ぶ。
それで、わかった。
色々なことが。
「…………あぁ」
半端な声が口から漏れる。
その紙に書かれていたのは、胎児DNA鑑定の結果だった。
リビングにはまだあの子がそのままの姿勢で転がっていた。
僕は鑑定結果の紙を指先でつまみながら、彼女へとゆっくりと近づいていく。先ほどまで爆発しそうなくらいに感じていた激情は、今はひどく遠かった。
「……君、妊娠してたのか」
検査結果をざっと見てわかった。
彼女は妊娠していた。まだ外見に現れるような時期ではないが、確かに。
そしてその父親は僕だ。
つまり彼女が僕と自分自身を刺したのが、いつもの突発的な行動だと思っていた僕の考えはまるっきり間違っていた。
彼女は自分の妊娠に気づき、父親が僕であることを確かめ、しかしそれを口には出せずにいた。いえなかった理由はわかる。僕は名前を押しつけられることが嫌いだ。そして父親、家族、血のつながりなんてその最たるものである。
もし仮に彼女に妊娠を告げられていたとして、僕はどんな反応をしただろうか。口から出ただろう言葉が祝福ではないのだけは確かだ。
そうして彼女は一人で思い悩み、結果として僕と彼女自身を刺すことにした。
だからって包丁で刺すのかよ、と思わないでもない。しかし怒りはまるで湧いてこなかったし、その理由は明白だった。
「ごめんね」
そう口にしてみる。
名前やレッテルを貼り付けると理解から遠のく。そうして僕はあらゆる名前から逃げ出した。けれど逃げることにばかり必死で、僕は他人を理解しようとしていただろうか。
したつもりではいた。
でも僕は彼女が妊娠していたことにも気づかなかったし、彼女が思い悩んでいることにも気づかなかったし、彼女が僕を刺した理由だってさっきまで想像しようともしていなかった。
気づいたところで僕が父親としての自分を受け入れたとは思わない。そもそも僕は彼女のことが好きでもない。子供について相談しなかった、彼女の僕への理解は正しい。だからその先にあったのは、きっとろくでもない喧嘩と破綻だけだろうけれど、それでも現状を招いたのが僕の落ち度には違いない。
「だから……ごめんね」
いってから苦笑いをする。
死んでからいわれたところで、どうしようもないだろう。僕はただなんとなく、横たわる彼女の肩をそっと押して――
「――えっ、あれ、生きてる!?」
そこで彼女の胸元が弱々しく上下していることに気づいた。
意識は失われているし、今にも死んでしまいそうだが、しかしまだ死んではいない。
「うっそだろ……」
と呟いたのは二人刺しておきながらどちらも全然殺せていない彼女の手際についてか、それとも散々倒れた彼女を見ておきながらたった今までその生存に気づいていなかった自分にか。
どれだけ他人のことをきちんと見ていなかったのかという話である。
「生きてるって……けど、じゃあ、どうする……?」
呟きながらも僕は自然と立ち上がっていた。鑑定結果の紙をつまみながらキッチンへ向かい、それで何をすべきかを理解する。
僕はコンロに火をつけ、紙を焼いた。
彼女のおなかにいる子供と僕を結びつける証拠は、これで灰になった。
それからすぐに彼女の傍へと戻って、懐を探る。僕と違ってきちんと契約している、彼女のスマホを取り出す。血にぬめる指で119を押した。
すぐにつながった救急に自宅の住所を告げながら、僕は自分の腹を押さえていた両手を離し、彼女の傷口へと添えた。彼女の腹から流れる血が緩やかになり、代わりに僕の腹から様々なものが垂れ落ちていく。
急速に迫る死を感じながら、しかし僕は口元に笑みを浮かべた。
「うん、これでいい」
不思議と満足感がある。
彼女が生き残ったら、この事件はどんな風に報道されるだろうか。自分の命よりも、刺し殺そうとしてきた相手の救命を優先した僕。そこにみんなはどんな言葉を当てはめるだろうか。美談だろうか、滑稽談だろうか。
僕が彼女に向けていた感情を、みんなは何だと思うだろうか。真実の愛だろうか、命がけの恋だろうか、それともねじ曲がった憎悪だろうか。
そのことを考えると、吐き気がしてくる。
しかし彼女だけはわかるはずだ。いや、わからないはずだ。だって僕は彼女のことが好きでも何でもない。僕が父親であることを示す紙が焼き払われたことを、彼女だけが知れる。僕は彼女を拒絶したと、彼女にははっきりと伝わる。
それでも、僕はこうして彼女を助けている。
当てはめるべき言葉のない僕の行動。彼女だけはわからないということを、わかってくれる。たった一人ではあっても僕のことをきちんと理解しようとし、それでも理解できないという結論を得てくれる人がいる。その確信がある。
それだけでも、僕みたいなやつにはできすぎだろう。
「せいぜい悩んでくれよ」
薄れていく意識の中、ありったけの力を傷口を押さえる手に込めながら、僕はそう呟いた。