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安藤敬而の恋愛短編『顔しかよくない』

アニメ化も発表された超話題作、『怪獣8号 密着! 第3部隊』が絶賛発売中、そしてJOJOマガジン 2022WINTERで5部のスピンオフ、ティッツァーノとスクアーロが主役の『ギャング側の証人』を執筆、大型企画に挑み続ける新鋭・安藤敬而のオリジナル短編を掲載します。幼馴染の女子大学生2人、ひとりはめちゃくちゃ美人でもうひとりはそうでもない。2人の関係を変えてしまう事件が……?

顔しか良くない

 瀬川岬は顔が良い。とにもかくにも、彼女という人間は顔が良かった。ぱっちりとした瞳、通った鼻筋、形の良い耳、肩まで伸びるアッシュグレイの髪は絹糸のように細い。瀬川は欄干に手をかけ、眼前に広がる海を見つめている。海風にカーディガンが揺れる。陽光に染まる彼女の後姿は、さながら印象派の絵画のようだ。

「――52ヘルツの鯨って知ってる? 草場」

 振り向きざま、透き通る声で瀬川が言った。色素の薄い瞳がこちらを見つめている。

「知らない? なら教えてあげる。52ヘルツの鯨ってのは――」

「いや、知ってる」

「……え? 知ってんの?」

「割と有名な話でしょ。そういうタイトルの小説もあったし」

「……そう」

 瀬川は目を閉じてふっと笑った。

「いい、草場。52ヘルツの鯨ってのはさぁ――」

「知ってるっつってんでしょ」

 私の言葉を聞いて瀬川は、

「いやさあ、語りたいんだけど~!」

 悔しそうに呻きながら、両手をわきわきと動かした。

「今朝知ってさあ、語りたくて仕方ないの。語らせてよ。なあ、草場~」

「……」

 先ほどまでの神秘的な雰囲気は吹き飛んでいた。もっともこれが瀬川の素だ。道行く人の視線をかっさらう顔の良さ。しかし実際に喋ればまるで子供。

 彼女と私は小学校の頃からの仲だ。今では同じ大学に通いルームシェアまでしている始末であり、腐れ縁とはこのようなことを言うのだろう。

「はいはい……分かった。好きに語れば? 聞いてあげる」

「お、サンキュー」瀬川はにかっと笑い、語りだした。「52ヘルツの鯨ね。なんかさ、海には孤独な鯨がいるんだって。で、その孤独な鯨の鳴き声はなぜか他の鯨には届かない。だから、不思議だね~みたいな話」

「……」

「ね、可哀そうだよね」

「よくその知識量で人に説明しようと思ったわね……」

 私も詳細に調べたわけではないが、確かこんな話だ。鯨の鳴き声は一般的に特定の周波数の範囲に収まっている。だが、その範囲から大きく外れた52ヘルツの鳴き声を出す鯨の存在が確認された。その音域の鳴き声を聞き届ける鯨もいなければ、応える鯨もいない。広大な海の中でその鯨はただ一頭なのだと。

 私が語ると、瀬川は拍手をする。

「お~、物知り博士だ。さすが生物学部」

「ネットに膾炙しきった話でしょ、国際教養学部」

 今日何度目かのため息を吐く。

 海に行こう、と瀬川が言いだしたのは今朝の朝食の席だった。彼女はふらりと何かを思いつき、私はそれによく付き合わされる。大洗へ来た私たちはぶらぶらと海沿いを歩いた。特に何かをするわけでもない。瀬川の満足そうな顔を見るに、本当にただ海へ来たかっただけなのだろう。

 明日は大学もあるし長居したくもない。私たちは駐車場へ向かっていた。

「あれ、瀬川さん?」

 突然、後ろから男の声が響いた。振り向けば短パン姿の男二人組が立っている。筋肉質なツーブロックの男と、丸眼鏡をかけた細身の男だ。

「いっやぁ、偶然だな! こんなことある?」

 ツーブロックの男が瀬川に近寄ってくる。大学の知り合いだろうか。

「おー、ぐーぜん」

 瀬川も手を振って男に近づいていった。そのまま3人は談笑し始める。顔の広い瀬川は外へ出れば知り合いと出くわす。キラキラ国際、などと学内で揶揄されているだけはある。

「なあ暇ならどう? 瀬川さん、俺たちと一緒にさ」

 ツーブロックの提案に瀬川は「あー」と声を出す。

「ごめん。連れがいて、もう帰る予定」

「連れ? ああ、後ろの子も。じゃあ君も一緒に……」

 スマホを見ていた私は顔を上げる。私を見て彼は言葉を詰まらせた。瀬川の友人となれば、よほどの美人を想像したのだろう。ただ、私の容姿は客観的に見て平均以下だ。薄い眉に切れ長の一重、鼻は低く、顔の輪郭は丸い。地味で陰気な理系女――それが私だ。

 男は取り繕ったかのように笑う。

「あ、えーと。君も一緒に来る? ちょっとお茶でもさ」

「……遠慮しておく」

「まあまあ、そう言わずにさ。君もね? 瀬川さんも一緒にさ」

 私が、瀬川を誘うだしに使われたのは明らかだった。私たちは近くのスタバへ向かうことになった。道中、男たちの囁きが風に乗って聞こえてきた。

「お前のタイプだろ。背ぇ低いし」

「地味顔過ぎるだろ」

 嘲笑交じりの談笑。ショックを受けるようなことではない。今まで何度もあったからだ。

 男二人と瀬川が横並びで、私はその後ろを歩く。ツーブロック男は町田というらしい。彼は瀬川に向かって熱心に話しかけている。

「それでさ、瀬川さんどう? 今年もぜひ瀬川さんにも出てほしいんだよ。ミスコン」

 町田たちは学部2年で瀬川と同学年、文化祭実行委員に属しミスコンを運営しているらしい。文化祭では例年ミスコンを開催し、全学部から参加者を募っていた。瀬川は去年の優勝者であり、今年も出てほしいのだろう。

 一方の瀬川はあまり乗り気でなく、苦笑いを浮かべて頬をぽりぽり掻いている。

「んー。去年出て思った。私には合わないかなー」

「いやいや、瀬川さんが出てくれれば大盛り上がり間違いなしだって。ほら知ってるだろ。今年からミスコンも色々と見直すことになってさ。新しくなるんだよ」

「あー、うん。そうねー」

 瀬川がちらりと私を見る。頷いてはいるが何も理解していないらしい。

「……昨今はルッキズムの問題もあってミスコンの要件とか見直されてるでしょ。うちの大学もそれに倣って、男性部門も作ることにしたって話」

 口を挟んだ私を、町田が一瞬だけ鬱陶しそうに睨む。

「……でもそれだけじゃなくて、より内面に重きを置きたいんだ。その点、瀬川さんなら外も内も間違いなしだろ。っていうか実は、俺の一存でエントリー内定させてっから」

「えー、困るなー。去年もっしょ」

 ミスコンは自主応募制だが、去年、瀬川は自ら応募していない。評判を聞きつけた実行委員が無理やりエントリーさせたのだ。

「お願い、この通り! 頼むって。あ、ここの金なら俺出すよ」

 町田はそう言うが、私は財布を取り出した。彼らも私なんかに奢りたくはないだろう。

「私の分は払うから」

「まあ草場、奢ってもらおうって」

 瀬川が私の財布を押さえ、にやりと笑う。こいつ何か企んでいるな。

 結局、町田が私たちの分もまとめて電子マネーで払った。ドリンクを受け取った私たちは外に出て、風に当たることにした。

「それで瀬川さん。話の続きだけど」

 テラスで町田が話しかけている最中に、瀬川は私の肩をぽんと叩いた。

(いい? せーのね、草場)

 そう囁くと、瀬川は男たちに手を挙げた。

「あー、ごめん。私たち、急用できたから帰る」

「え?」

「せーの……草場、ダーッシュ!」

 瀬川はそう叫ぶと、私の手を握り、急に駆けだした。

「あ、瀬川さん!?」

 町田たちを置き去りにして、瀬川は真っ直ぐ走っていく。私も瀬川もサンダルだったため足がもつれそうになるがお構いなしだ。振り返れば、遠くに点と化した男たちの姿が見える。瀬川は彼らに向かって、大声で叫んだ。

「ミスコンなんか1ミリも出るつもりないぞー! 勝手にやれー!」

 男たちが追ってくる様子はない。車に辿り着いた私たちは息を整える。

「いやー、見た? 走り出したときの、あのぽかーんとした顔」

 私はため息を吐く。

「瀬川さ、人として最低限の礼節は持ってた方がいいと思う」

「あー、人が不快になる悪口を言わないとか?」

「……聞こえてたの?」

「顔見りゃわかるって」

「……ありがと。でも、ミスコン断ってよかったの?」

「んー、だるいし」と瀬川は頷く。「それに私、外面じゃなくて中身を見てほしいから」

「あんたの中身なら、だいぶいい性格してると思うけど」

「おー、辛辣」

 瀬川は柔らかに微笑んだ。にきび痕一つない白い肌、長いまつ毛、小さく漏れ出る息遣い。ああ、やはりこいつは顔が良い。あの実行委員の男たちに同情してしまう。もし私が彼らの立場なら、何としてでも瀬川をミスコンに出そうとしただろう。

「草場ぁー、なに考えてんの」

 こつんと頭を突かれる。

「……別に。帰るわよ」

 薄紅のネイルを塗った彼女の手を雑に払いのけて、エヌボックスに乗り込んだ。

 瀬川のスマホが鳴る。画面を見た彼女は顔を顰(しか)めた。

「わ、町田くんからー。もう一度ミスコンの話を聞いてくれだって。うげー」

「……出てやればいいんじゃない。きっと優勝する」

「いいよー。そんなのに時間割くなら、草場とどっか行きたいじゃん」

「……何を言ってんだか」

 美人は3日で飽きるなんて言葉は、僻みから創り出されたに違いない。きっとそいつは本当の美人に出会わなかったのだ。十年以上もの付き合いにもかかわらず、私は未だに彼女の一挙手一投足に心を揺さぶられてしまう。



 その彼女の整った顔が壊れる場面に、私はちょうど居合わせていた。いや、居合わせたという表現は不正確だ。私が気付いたときにそれは既に終わっていたのだから。

 その日の午前、瀬川からLINEが入っていた。

「ねー、農林学B棟ってどこ?」

 私の研究室がある棟だ。私と瀬川は同い年だが、彼女は2浪のため学年は違う。学内は広いため、他の棟は中々わかりにくい。場所を伝えると、瀬川は頭身の高いクマのスタンプで礼を伝えてきた。

「なに? 用でもあるの?」

「ちょっとね。呼び出された」

 瀬川の後姿を見かけたのは午後、研究室の友人たちと食事から帰ってきたときだ。廊下突き当たりの階段を、瀬川が誰かと昇っていくのが見えた。

 前を歩く人物には見覚えがあった。頭身の高いすらりとした女性、生物学部4年生の玉城さんだ。去年のミスコン出場者でもある。前評判では彼女が優勝だと言われていたらしいが、準優勝に落ち着いていた。瀬川が票をかっさらったためだ。

「……」

 前を歩く玉城さんの顔は、とても険しく見えた。なんとなく嫌な予感がした。虫の知らせとでも言うのだろうか。突き当たりへ進み、彼女たちの後を追う。

 高校生の頃、瀬川が女バスの先輩と揉めたことがあった。先輩の彼氏に対して色目を使ったという理由だった。実際はその彼氏が一方的に瀬川に迫っていただけだったが。

 階段を昇ると言い合いが聞こえた。いや、一方的に怒鳴りつけているようなヒステリックな声だ。声はどんどん大きくなり、次いで何かが割れる音がして――絶叫が響いた。ややあって気付く。それは紛れもなく瀬川の声音だった。

「瀬川……?」

 階段を駆け上がればそこには実験室がある。鉄扉を開け放てば、そこには茫然と立ちつくす玉城さん、そして床には瀬川が蹲っている。瀬川は顔を押さえ、くぐもったような悲鳴、「熱い」と「痛い」という言葉を譫言のように繰り返している。

「……ど、どうしたの!?」

「草場……」

 こちらを向いた彼女の顔を、私は一生忘れないだろう。彼女の顔の、主に下半分が真っ赤に爛れていた。瞼も鼻も唇もまるで夏場のアイスのよう。端整だった顔は跡形もない。鼻を突く異臭は人体由来。きっとタンパクが溶けた臭いだ。

「喋らない!」

 近くの廊下には、薬剤に暴露した際に身体を洗浄するシャワーが設けられている。バルブを全開にして、上から水を流す。瀬川の呻き声はずっと止まらない。

 私は棒立ちの玉城さんを睨みつける。

「救急車呼んで! 早く!」

 だが、彼女は放心して動かない。騒ぎを聞きつけ、廊下の向こうから年配の男性教授が飛び出てきた。彼に救急車を呼ぶよう要請する。救急車が到着するまでの8分間、私は瀬川の身体から服を脱がせ、水を流し続けた。彼女の泣き声は止まなかった。


 アシッド・アタック――強酸などを浴びせ相手の顔や体を損傷させる行為。海外ではそのような名が付けられるほど浸透しているメジャーな犯罪だが、日本国内での事例は多くない。玉城さんは傷害罪の容疑で逮捕され、今も取り調べを受けている。

 瀬川を実験室に呼び出したのは玉城さんだった。二人は口論となり、玉城さんに突き飛ばされた瀬川ははずみで、机上のビーカーに接触。中に入っていたのは、植物体の過酸化水素測定に用いる硫酸――倒れた瀬川の顔の上にそれが降り注いだ。

 瀬川の容態は悪くない、とは医者の言葉だ。処置が適切だったことが影響したらしい。

 ――どこが?

 病室に入って真っ先に出て来たのは、そんな言葉だった。大学病院の個室、ベッドの上に顔を包帯で覆った瀬川がいた。包帯の隙間から目と唇が覗いている。

 スマホは通じず、事件後彼女と会話をするのはこれが初だ。どう声をかけようか考えていたが、実際その顔を前にすると言葉が出てこない。私が何を言おうが、この白い病室に虚しく響くだけに思える。

 だが、瀬川はいつもみたいに軽い調子で言う。

「よー、草場。元気してたか。いやー、えらい目にあった」瀬川は自らの顔を指さす。「どう思った? 私のこれ見て」

「どうって……」

「なんかあれ。ほら、草場が貸してくれた、るろ剣にいたじゃん。火ぃ出すやつ。私、かなり似てない? あれ。散りざまがいかすよなーって」

 包帯の下で、瀬川が笑ったのが分かった。空元気にせよ、少なくとも会話を成立させる気力があることに胸を撫で下ろす。

「……馬鹿なこと言えるくらいには元気ってことね」

「むー。真面目に言ってんだけどー、こっちは」

「着替えとか色々持ってきた。……どう、痛むの?」

「もう最悪。夜眠れんのよ。見る? 包帯の下」

「……勝手に剥がしちゃ駄目でしょ。安静にしてなさいよ」

 荷物を置き、ベッドの傍らの椅子に腰かける。

「あー、でもさ。これでも大分ましな方らしいよ。こういう火傷って初期の応急処置が重要なんだってさ。最良だったって。ありがとう、草場」

「……」

 礼を言われるようなことはしていない。私がもう少し早く追い付いていれば、瀬川がこんな傷を負わない未来もあった。そんな後悔ばかりが押し寄せ、ここ数日は寝られなかった。彼女の嗚咽が、いつまでも頭の中に響くようで――。

「瀬川、きっと大丈夫。火傷の痕もすぐに治……」

「治んないってさ」瀬川は上に伸びをしながら軽い感じで言う。「移植手術とかそういう手もあるけど高い。なにより痕は完全に消せないって。一生付き合ってくらしーよ」

「……そんな」

「んな深刻な顔しないでって。草場が助けてくれたんじゃん。軽傷だよ。見て」

 こちらの制止も待たずに彼女は包帯を引っぺがした。

 アシッド・アタックという単語を知ってからネットで軽く検索してみた。思わず目を背けてしまうような写真も多かった。それと比べれば確かに軽傷の部類だろう。

「ね、大したことないでしょう?」

「……」

 でも軽傷だなんて、私にはそうは思えなかった。まなじりと唇は垂れ、染み一つなかった顔は爛れて真っ赤、火傷による黄斑ができている。私はベッドへ近寄っていた。間近で見れば見るほど分かる。きめ細やかな肌は今や影も形もない。

「……草場? どした? なに? 顔、怖いけど~」

 私は瀬川の顔へ、ゆっくりと手を伸ばしていた。

「く、草場さーん……?」

 困惑する瀬川のその顔に触れる――なんてことはせず、私はベッドのナースコールを押した。患者が包帯を取ってしまったことを告げる。

「あ、ちょ。草場ー、何すんだよ。怒られるじゃん」

「怒られろ。……安静にしてなさい。治るものも治らないわよ。また来る」

「あ、おーい」

 私は病室を飛び出していた。廊下をしばらく歩いたところで、へたり込んでしまう。

 彼女の顔に刻まれた大きな火傷痕。仮にもしあの傷を受けたのが私ならば、さして目立たなかったろう。こんな地味な顔に傷が一つや二つ加わったところで価値は変動しない。

 だが瀬川の場合は違う。精巧な透き通ったガラス細工。完璧だったからこそ、少しでも傷が付けばその価値は暴落する。少なくとも今の瀬川は、誰もの目を引く容姿ではなくなったことは確かだった。


「……あの日はさー、言い争いになったんだよ」

 その数日後、瀬川は病室のベッドの上で私が買ってきたジャンプを捲くっていた。机には見舞い品のフルーツ詰め合わせが置かれていた。前日、実行委員が見舞いに来たらしい。

「……聞いてもいい? どんな内容だったの?」

「んー。まあ言い争いって言うか、責められたって感じなんだけど。私、あの人から結構恨まれてたみたい。ほら、去年あの人、ステージで結構頑張ってたじゃん」

「まあ、あんたに比べればね」

 ミスコン本番はステージ上で特技を披露する機会がある。与えられた時間は一人10分。玉城さんはバイオリンを習っていたらしく、それを演奏していた。

 一方の瀬川はその時間で――何もしなかった。ただ、舞台中央まで歩き一言。

「最近のお勧めは業スーの平たい春雨。マジで美味い。買おうぜ」

 スーパーのお勧め品を紹介するという支離滅裂な行動。だが夕闇の中、照明に照らされる彼女が観客を魅了するにはただのそれだけで十分だった。それほどに彼女は際立っていた。ちなみにその翌日、近くの業スーでは春雨が消えたらしい。

「玉城さん、今年もミスコンに出る予定だったみたいでさ。それでなんていうか、ちょっと言い合いになった。押されて、ふらついて、運悪くって感じ」

「運悪く、じゃない。彼女の研究室の管理の問題だから」

 硫酸を放置していたのは玉城さん本人だ。毒劇物であるため通常なら鍵付きの棚に保管せねばならない。実験後とはいえ、それが処分されていなかったのだ。この件は大学内でも厳しく取りざたされ、各研究室には管理方法を見直すようお達しが来ていた。

「向こうとは示談で進んでるんでしょう?」

「んー、みたい。治療費とか負担してもらう感じ。よく分かってないけど」

「ちゃんと弁護士の話聞いときなさいって」

「もう済んだことだし。それにたかが顔だよ?」

「済んでない。それに、たかがなんて――」

「たかがでしょ。表皮だよ?」

 軽い感じで瀬川は言う。彼女は自分の容姿に対して酷く無頓着だ。誰もが羨むような顔を持ちながら、それに執着していない。人間大事なのは中身だと、本気で信じている。

 瀬川の言うことは正しい。顔面なんてつまるところ表皮だ。しかしその薄皮一枚の価値は計り知れない。女王の鼻が少し低くなれば歴史が変わる、そんな世界に私たちは生きているのだ。

 私は立ち上がり、机の上の果物を手に取る。

「そろそろお邪魔する。……貰ってくわよ、これ」

 瀬川はフルーツアレルギーだ。少しでも彼女とつるんでいれば分かるだろうに。

「おー、食っちゃって。そーいえば、実行委員の人たち、すぐ帰ってったなー」

「……」

 アレルギーも知らず、すぐに帰る実行委員の連中。嫌な予感が胸を過る。私のその予感はすぐに証明されることになる。



 退院当日は、担当医師や看護師が別れを告げに来た。9月も半ばとなり、外は随分と涼しくなっていた。瀬川はキャップのつばを上げ、空を眺める。

「秋の雲じゃん。うわ、かき氷食べてないしクワガタも捕まえてないんだけど」

「男子小学生の夏休みじゃないんだから」

 退院しても暫くは定期的な通院が必要とのことだ。包帯は取れたとはいえ、顔の下半分は染みのような赤い火傷痕が残っている。以前の彼女とは顔の印象が大きく異なっていた。

 病院駐車場にある私のエヌボックスに瀬川が乗り込む。久しぶりの外なのだから、昼は彼女の好きな洋食店にでも行こうと考えていたが、乗り込むなり瀬川は言った。

「ねえ草場、大学に寄ってほしいんだけど」

「大学? ……別にいいけどどこ? 総務?」

「んー、二学の共同C棟。実行委員の居室があるとこ」

「……実行委員? なんの用?」

「伝えてなかったから。ミスコン出ない件」

「ああ……」

 無理やりエントリーさせられたミスコンだが、事件があり辞退を伝えられていなかったらしい。文化祭は11月の頭、既に二ヶ月を切っている。

「……あんなことがあったし仕方ないでしょ。LINEでも送っとけば」

「んー、送ったけど町田くんから返事来ててさ。向こうも会って話したいとか」

「何よそれ」

 大学駐車場に車を停め、実行委員の居室に向かう。夏休みとはいえ、大学内にはかなりの人がいた。すれ違う男たちがこちらを見つめ、何か耳打ちしている。横目で盗み見る奴、堂々とガン見する奴と、通行人の反応は様々だ。

 見てんじゃねえよ、と思ったが、瀬川の感想は違った。

「……なんか、みんな全然見てこないなー」

「え?」

「みんな、私から露骨に目を逸らしてるなって。今まではじろじろ見てきたくせにね」

 通り過ぎれば誰もの視線を集める、瀬川は生まれてきてから常にそうだった。その彼女が、露骨に人から目を背けられていると感じている。

 きっと瀬川は気づいていない。この先、彼女の人生は今までと違うものになる。

 共同C棟に入り、瀬川は私を見て言った。

「んじゃ行ってくる。すぐ戻ってくるからラウンジで待ってて」

「私も行く」

「大丈夫だって。お母さんかよ」

 けらけらと瀬川が笑って階段を昇ろうとしたときだ。降りてくる人物が視界に入る。実行委員の町田だった。彼は瀬川の顔に目をやり、すぐに顔を逸らした。

「瀬川さん、退院したんだ。……見舞いのフルーツどうだった? 美味かったでしょ」

「あー、うん。ありがと」

 頬をぽりぽりと掻く瀬川に代わり、私が答える。

「気持ちはありがたいけど、この子フルーツアレルギーだから」

 それを聞くと、町田は眉間に皺を寄せた。

「あれ高かったんだよ。アレルギーなら前もって伝えてくれなきゃ」

「あー、ごめん」

「瀬川が謝る必要なんて――」

「それでなに? もしかして来てくれたのって、俺に用とか?」

 私の言葉を遮って喋る町田に、瀬川は頷く。

「あー、うん。ほら、ミスコンの件。直接話したいって言うから」

「……ああ、その件ね。いや、来てくれてマジで助かるわ」町田はふうと一息つくと、頭を掻きむしった。「悪いんだけどさ。瀬川さん、ミスコン辞退してくんない?」

 ――は?

 確かに瀬川はミスコンの辞退を告げるつもりで来た。だがなぜ、それを向こうから言い出すのか。勝手にエントリーさせたのはお前らだろうに。

 瀬川は薄く微笑んでいる。以前なら黙っているだけで神秘的に見えたその顔は、今は火傷のためかまなじりと唇の端が垂れ下がり、どこか不安げな表情に見える。

「町田くん……だっけ。どういう判断で、そうなったか聞かせてもらえる?」

「ん?」

 私の言葉に町田が目を細める。お前には関係ないだろうとでも言いたげな顔。

「……まあ、考え直しただけだよ。元々瀬川さんが嫌がってるのを無理に参加させたわけだし? あんな事件もあったわけじゃん。ミスコン自体が一時は中止になりそうだった。ま、俺が繋いだけどね……大変だったよ。俺も責任の一端を感じてるわけ。だから辞退してもらった方がいいって判断かな」

「勝手に参加させてそれで辞退しろって、よくそんなこと言える……」

「状況が状況なんだから仕方ないだろ。つーか君なに? そもそもが瀬川さんの問題で、彼女がどう思うかだし。ねえ、瀬川さんも辞退したいでしょ?」

 町田が態度を豹変させた理由は察しがついていた。階段から降りてきた彼は瀬川を見て、露骨に顔を顰めていた。きっと見舞いに来たときには、この判断を下していたのだ。盛り上げるために参加させ、瀬川の顔が傷ついたらお役御免か? あまりにも身勝手な判断だ。納得がいかない。

 瀬川はけろりとした声音で告げた。

「あー、断る気で来たんだ。私」

「助かるよ。一応審査を通ったあとだからさ、辞退理由とか書き残してもらっていい?」

「んー、でも気が変わった。出るわ、ミスコン」

 横で、私は息を呑んでしまう。言っていることがまるで逆だ。

 町田も顔を引きつらせていた。

「で、出る? いや、まあ別に俺はいいと思うよ。でもさ、実際、瀬川さんの負担もあるわけじゃん? 今回あんな事件に巻き込まれて不安だろうし……」

「全然。出たいなー。それにさ、私がどう思うかだって言ってたじゃん」

「いや、言ったよ。その通りだよ。まあ、でもそれに加えて別の問題もあるから。やっぱりミスコンは観客あっての祭りで、見てる人がどう思うかだから……」

「見てる人がどう思うわけ?」

「え?」

「この顔見たら不快?」

 瀬川は町田をじっと見つめる。彼の表情は凍った。

「い、いや……あのさ。俺、瀬川さんのためを思って言ってるんだよ」

「なら出場させてほしいなー。変わったんでしょ、ミスコン。内面重視になったんだっけ?」

 反応に困って黙っていた彼は、苛立ちを露わにした。

「……あのさ、なんなの? 俺を困らせたいわけ? 俺、絶対に成功させたいんだよ。それなのにどうして急にわがまま言ってくるかな。本当に止めてほしいんだよね」

「んー、やだ。参加する」

 へらっと笑う瀬川に、いよいよ町田の怒りがぶちまけられる。

「あのさあ、こっちが必死こいて言葉選んでんだから! そっちも譲歩しろよ! 大体さあ、出ても無意味だろ! お前、異常だよ。そんな顔でよくもまあミスコンだなんて――」

「――っ」

 気づいたときには、私は町田の尻を蹴り飛ばしていた。彼は前によろける。

「……っ! な、なにすん――」

「瀬川!」

 私は彼女の手を掴んで、走り出していた。共同C棟を出て、大学広場前へとやって来る。呼吸を整える。咄嗟の行動だった。これ以上、瀬川に彼の話を聞かせたくなかった。

「瀬川、家帰ろ。ゆっくり休んで、それで美味しいものでも……」

「ねえ草場。私、やっぱミスコン出る」

「は、はあ? なに冗談なんて言って――」

 私はたじろいでしまう。瀬川は私を真っ直ぐに見つめていた。瀬川の瞳は色素が薄く茶色い。その瞳は周りの光を反射しているようで、いつも輝いて見える。顔に火傷を負っても、その魔力は何ら変わっていなかった。

「どうして……? 全然乗り気じゃなかったじゃない」

「草場も無謀だと思う? こんな顔で出るのは」

「そんなことは……思わないけど」

「証明したくなったんだ」

「証明?」

「ん。人が顔だけじゃないって証明。私の顔はぼろぼろだ。でもミスコン1位になった。お前の負けだ、ざまみろー、って見返してやりたい。だから、出てみたくなった」

「なに、その理由……」

「負けず嫌いだから。私を顔だけの女だと思ったことを後悔させてやる。いえーい」

 瀬川は顔の横にブイっとピースを出した。昔からこうなのだ。彼女はふらっと何かを提案し、私はそれに付き合わされる羽目になる。


 まず瀬川が動いたのは、ホームページの変更だった。大学ミスコンの公式サイトには、エントリー者の顔写真および、自ら記入したプロフィールが書かれている。ホームページに表示されている瀬川の写真は去年と同じもの。怪我する前の状態だった。

「この写真、差し替えてもらえないかなーって」

 実行委員に持ち掛けた結果、瀬川の写真は怪我後のものへ差し替えられた。生々しい火傷痕の写真がホームページに表示される。

 ミス部門の参加者は瀬川を含め全4人。参加者には実行委員が用意したミスコン用のSNSアカウントが支給され、文化祭当日まで動画やツイートによる宣伝、ネットや冊子へのインタビュー掲載が行われる。

 この大学のミスコンは大仰なものではない。優勝したところでアナウンサーになれる箔なんて付かないし、大企業が協賛しているわけでもなかった。ミスコン公式アカウントのフォロワーは約700人。各参加者のフォロワー数は大体100から200人。フォロワーも9割は学生のリア垢だ。個人差はあるが、ツイートは大体数十件ほどの反応に収まっている。

 だが――。

「ねえ草場、なんかいっぱい通知来てんだけど」

「なに? ちょっと見せて」

 元々SNSの類は全くやってこなかった瀬川だ。使い方も私が一から教えてやらねばならなかった。瀬川が表示したのはミスコン用ツイッター。画面を見て、少し驚いてしまう。昨夜アップした参加表明の自撮り写真。リツイートは2,000を超えている。

〈あー、これ少し前の事件の子か。……めちゃくちゃ悲惨なんだな〉

〈RT先注意。一生ものの傷じゃん〉

〈わりと可愛いな。推してくか〉

〈これすごい決断。個人的には応援したい。頑張ってほしい〉

 反応を見るに大学外まで届いているらしい。

 画面を見ながら、瀬川は神妙な顔をしていた。

「まずいかなー、草場? これって炎上って奴?」

「……いやまあ、好意的な反応が多いんじゃない? いい感じだと思うけど」

「ふぅん。そっかー、いい感じか」

 去年のミスコンもアカウントは与えられたものの、瀬川はほぼ運用していなかった。多く反応を貰えることは新鮮なのかもしれない。

 ミスコンには大学近辺の美容院、輸入雑貨店、アパート情報サイト、塾などが協賛していた。各社からのインタビューも、去年は全てさぼっていたが、今年は精力的に参加していた。必然、顔のことも尋ねられる。

 ミスコンへ出ることへの不安はないのか――という問いに。

「んー、ないです。顔は変わっても、私ってほら私なので。むしろ心をきちんと見てもらえるいい機会っていうか。頑張りたいって思ってまーす。いえーい」

「めげずに頑張ってるんですね。いや、素晴らしいことだと思います」

 などとインタビュアーは瀬川を称えた。

 ミスコン用の記事など基本は地元の大学生しか見ないが、瀬川のインタビューは少しだけバズった。DMには、新聞社からの取材申し込みも来ていた。記事は途中から有料会員限定だったが、瀬川の顔写真まで載った。

 それらの効果もあってか、フォロワー数も他の参加者が多くて300人なのに、瀬川だけは1,000人を超えていた。

 私が風呂から上がると、瀬川はリビングでキーボードを叩いていた。こちらに見向きもせず、一心不乱に画面に向かっている。

「ねえ瀬川。ブラタモリ始まってるけど」

「んー、タモさんには謝った」

「……謝られたってタモさんも困るでしょ。ぶっ続けだし、少し休んだら」

「んー、これ終わったら」

 別のメディアのインタビュー用の原稿を書いているらしい。

「少し無理しすぎなんじゃない?」

「もう時間ないし。やれることはやっときたいしー」

 事前活動はSNSかインタビュー露出がほとんどで、あとは当日のパフォーマンスにかかっている。やれることをやっておきたい、という意見は間違ってないだろうが――。

「明日、久々にどっか行かない? 晴れみたいだし海とか」

「んー、ごめん。取材とかあるからさ」

「……そう」

 ミスコン出るくらいなら草場とどっか行きたい――いつだったかそんなことを言っていたなと思い出す。瀬川は画面に向かい続けている。

「……早く寝なさいよ。無理すると身体にも響くから」

「んー」

 洗面所へと行った私はスマホを取り出し、瀬川のインタビューが載っているサイトを見つけた。見出しの下には瀬川の写真が載っている。まだ傷一つない事件前の顔だ。

【美人すぎる彼女を襲った悲劇とは……】

 バカみたいな見出しだなと思い、私は画面を消した。



 夕暮れの街に、文化祭開幕の花火の音が響く。文化祭は3日間に分けて行われる。構内は多くの学生で賑わっていた。ミスコンは18時45分から噴水前の広場にあるステージで行われ、参加者には10分のアピールタイムが与えられる。ミス部門3番手である瀬川の出番は19時30分からだった。

 ステージ裏のバックヤードには関係者が集まっており、私も瀬川の付添人としてやって来ていた。瀬川はパイプ椅子に座り、スマホを触っている。

「瀬川、体調とか大丈夫?」

 声をかけると、彼女は指で丸を作った。

「おーるおっけー。べりべりばっちぐー」

「教養に満ちた返事をありがとう。……何やってるの? SNSの更新?」

「ん。応援してくれてる人たちに向けて。これが最後だから」

 自らの顔写真、そして「行ってきます」という文言が載せられている。盛りもせず加工もせず、火傷痕もそのまま残った画像だ。瀬川は静かに息を吐く。

「やばいなー。耳のとこどくどくしてる。心臓移動しちゃった?」

「……珍しい。あんたが緊張なんて」

「んー、去年は全然だったのにね。真剣にやったからかな」

 ステージ前は騒がしく、既にかなりの人数が集まっているようだった。司会をしている町田の声が、マイクに乗って聞こえた。

「それでは前口上はここらへんにして、皆さんお待たせしました。我らがキャンパスライフを彩る女性陣に登壇して頂きましょう。まずはミス部門、エントリーナンバー1! 地球学部2年! 橘ゆかさん!」

「ゆかーっ!」

 ステージ前には参加者の友人がお手製団扇を持って陣取っていた。黄色い声を上げており、まるでアイドルみたいな扱いだ。

 着物を纏った橘が登壇する。衣装もアピールも、公序良俗に反さない限り全て自由だ。参加者は短い時間で自分を主張しようと様々な趣向を凝らす。

「地球学部の橘です。えっと、一番手ということで緊張しています……!」

 和楽器の奏でる音楽が流れ始めた。幼少時より日本舞踊を習っているらしく、ステージ上で舞いを始める。正直に言えば、あまり上手いとは思えなかった。しかし、はにかみながら、拙く踊る彼女には愛嬌がある。ステージは、多くの拍手で終わりを迎えた。

 入れ替わりに、二人目がステージへと昇る。それを迎える大きな拍手が聞こえた。

 ステージを見ながら、瀬川がぼそりと呟く。

「すごいねミスコンって。……私も頑張んなきゃな」

 彼女は笑みを浮かべていた。自信に満ち溢れているかのように見える。

 実行委員の一人が瀬川を呼びに来た。もうすぐ出番なので待機するようにとのことだ。

「よっしゃ、行ってくるわ草場。見ててよ」

「うん、見てる。瀬川……」

「ん?」

「――負けないで」

「なんだよそれ。勝つよ」

 瀬川は私にピースをし、舞台袖へ向かった。二人目が戻ってくる。ステージから町田の声が聞こえた。

「それではエントリーナンバー3! 国際教養学部2年、瀬川岬さん!」

 瀬川はマイクを持ち、ステージへ昇っていく。照明が逆光となり、彼女の姿が光の中へと消えていく。緊張しているが、その後ろ姿は自信に溢れているように見えた。

(……瀬川)

 去年の瀬川はただそこにいるだけで会場中の人間を魅了した。

 だから今回、きっと瀬川は期待していたのだと思う。前回よりずっと力を入れての活動。ネットでの反応は良い。インタビュアーからの受けも上々だ。記事もバズっている。

 事件により荒れ果てた顔。それでも挑んだミスコン。彼女の登壇は会場の人々に勇気を与える。会場は彼女を称える拍手で包まれる。ミスコンは彼女が優勝し大成功で終わる。町田は彼女を蔑ろにしたことを深く反省する。そう、全て丸く収まるのだ。

 ――ああ、そんな未来だったらどんなにか良かっただろう。

「どーもー」

 マイクに乗り、瀬川の澄んだ声が会場に響く。

 そして、瀬川が登壇した瞬間、会場の雰囲気が変わるのが分かった。皆が瀬川の顔を見て、息を呑む。誰一人歓声を上げない。ところどころから小さな呟きが上がる。

「え、何あれ」「やば」「あ、事件の……」

 ステージの上、照明に照らされた彼女の顔には陰影が付き、火傷の痕を日中よりもずっと痛々しく見せていた。ネット掲載の写真はカメラマンが撮影した見栄えがするものだ。現実はもっと生々しい。小さな子供の泣き声が聞こえ、母親に連れられて会場を後にする。

 祭りとは思えないほど、会場の空気は冷めきっていた。

「あ、えっと……」

 登壇した瀬川は言葉に詰まる。きっと、そこは彼女が想定していた舞台とかけ離れていた。今までほしいままにしていた歓声も視線も、どこにもない。ステージの上に立つのはメッキの剥がれた、一人の被害者女性だった。

「こ……国際教養2年の瀬川です。去年も立ったんで、二回目でーす」

 あまり喋るのは得意ではない瀬川が、必死に言葉を振り絞っている。

「いやー、びっくりした人います? 私の顔を見て? ちょっと前にあった事件でこんな顔になっちゃって。まー、私はあまり気にしてないんですけど。むしろカッコよくないかなーって、漫画のキャラみたいで」

 付き合いの長い私には分かる。きっと瀬川は本心からそれを言っている。

 だが、会場の反応は違った。火傷を負った被害者が、皆を安心させるために必死で空元気を振り絞っている、そうとしか見えなかったろう。もちろん笑う者はいない。皆が固唾を飲んで彼女を見守っている。

「あ、えーっと……えー……」

 瀬川は視線を泳がせ、言葉に詰まった。たかだか数秒の沈黙だっただろう。だが冷え切った会場でのそれは体感数分にも及ぶ。遠く、別ステージから学生バンドの楽しそうなメロディが聞こえる。何人かが会場を後にする。

「こ、こんな顔の私だったけど、皆からは優しい言葉をかけてもらえてー。あー、ネットにアップした写真にも多くの反応を貰えて」

 優しい言葉――そうだったのだろうか。

 私はツイッターを立ち上げる。瀬川が当初公開した顔写真には多くの反応が付いた。その中の一人にリア垢の学生がいる。

〈俺は応援していくぞ〉

 その学生の呟きを見る。文化祭の露店を回っており、友人と一緒に肩を組んでいる写真が数分前にアップされていた。ミスコンなど疾うに忘れているらしい。

 他のアカウントも同じだった。瀬川が初めて写真を上げたのは一か月以上も前。彼ら彼女らの興味は既に他の話題へと移り変わっている。瀬川が先ほど上げた写真についている反応は数十。当初はずば抜けて反応を貰えていたが、今では他の参加者の方がよほど人気だ。彼女は既に飽きられていた。

 瀬川はきっと、たくさんの人が応援に駆けつけてくれると想定していたのだろう。だが、実際は違った。誰も駆けつけず、怪我を負った被害者が自らの顔をネタにしても、笑いようがない。黙って見ていることしかできない。

 舞台袖にいる町田が頭を押さえている。

「空気最悪じゃねえか。ああ、ちくしょう。だから嫌だったんだよ……」

 冷めた空気の中、瀬川は話を続ける。

「こ、こうして今も、多くの人に支えてもらって」

 予め考えていたであろうスピーチが、支援者のいない会場に虚しく響く。

「だ、だから、こうして、立てたことが嬉しいです。あ……えっと、まだ時間ある? あ、えーっと。あ、ぎょ……」

 瀬川は大きな声を出し、指を立てる。

「業スーの、平たい春雨が美味い! 皆、買おうぜー」

 会場の誰一人反応しない。

 しん、とした空気が流れる。

「なに今の……?」

 近くの実行委員が呟いた。きっと会場の誰もがそう思っていた。

 ステージ上に置かれている電光掲示板が示しているのは残り6分。ステージの真ん中で瀬川はマイクを持ったまま立ち、そして頭を下げた。

「あ……ありがとう、ございました」

 舞台袖の実行委員たちが顔を見合わせている。

「え、終わったの?」

 きっと彼らのその一言がステージの全てを現していた。会場の人からすれば、笑いどころの一つもない、身に覚えのない感謝の言葉を数分聞かされただけだ。

 瀬川が舞台袖へ歩いてくる。顔は白く、身体は震え、足取りはおぼつかない。同情のようなまばらな拍手が観客から上がる。

 ミスコン会場とは思えないほど静かだった。

 だから私は、袖で馬鹿みたいに拍手をした。手を大きく叩き合わせ、痛いくらいに拍手する。私の拍手は別に呼び水にもならず、孤独に鳴り続ける。周りの実行委員たちが怪訝な目でこちらを見ている。痛々しいと思われている。上等だと思った。勝手に引いてろ。私は馬鹿みたいに、瀬川へ向けて一人拍手する。

「……草場」

 ステージから階段を降りてきた瀬川が、私を見る。

「瀬川、お疲れ」

「……っ」

 瀬川は唇を噛み、私から顔を逸らした。

 入れ違いに、マイクを持った町田がステージへと上がっていく。

「はい、ありがとうございました瀬川さん! 御存じの通り、彼女は顔に大きな怪我を負いました。人前に出ることにも勇気が必要だった。そんな中でも頑張って頂いた! さ、今一度大きな拍手をお願いします!」

 その呼びかけがきっかけとなり、ぱちぱちといくつかの拍手が、徐々に数が増え、やがて会場に大きな拍手が起こる。

「さ、次はミス部門最後の参加者になります! エントリーナンバー……」

 その拍手が引き金になった。瀬川はステージ裏から逃げ出すように走っていく。

「瀬川!」

 彼女を見て、周りが呟く。

「まああれじゃあな」「顔にあんな怪我負って、よく頑張ったよ」「可哀そうだよな」

 ――黙ってろ、と思った。

 黙ってろ黙ってろ黙ってろ。お前ら全員黙ってろ。今すぐその口を閉じろ。顔に怪我だの、可哀そうだの、お前らは何も分かっていない。分かっていないんだ。

 彼女の後を追って、辺りを駆け巡る。祭りの喧騒からは程遠い、静かな農林学棟の非常階段近くに瀬川はいた。街灯の白い光が彼女の背中をぼんやりと照らしていた。

「瀬川……こんなとこにいた」

「あはは、草場。駄目だったなー、私。滑ってた? 滑ってたよな、あれー」

 瀬川は背を向けたまま呟く。

 ステージの方から人々の笑い声が聞こえた。ミスコンは盛り上がっているらしい。

「なーんかさ、夢見ちゃったんだよねー。勘違いしてた。んー、なんか受け入れられると思ってたんだよね。あのざまだよ。冷え冷えだよ。視線がさあ。わーわーわー! なーに考えてたんだろうね、私。だっさ、だっさ、だっさ」

 私は彼女の腕を掴む。

「ねえ瀬川。少し付き合って」

「なに? 会場に戻れってこと? あー、いいよ。そんな気分じゃないしー。どうせ落ちたでしょ。うん、ちょっと家に帰るー。はー」

「違う。ねえ瀬川――海に行こう」

「え? ……海?」

 こちらを向いた瀬川は、ぽかんと口を開けていた。



 私はエヌボックスで下道を走っていた。歩道を男女数人が連れ立って歩いている。文化祭の帰りだ。この後はカラオケにでも行くのだろうか。

「……珍しいじゃん」ぼそりと瀬川が呟く。「草場から誘ってくれるなんて」

「あんたが行きたそうにしてたから」

「あー。分かるんだそういうの」

「何年付き合ってると思ってんの」

 助手席でスマホを見ている瀬川がふっと呟いた。

「……発表されてるみたい。ミスコンの結果」

「見なくていいでしょ、そんなの」

「3番ステージにいないじゃん。まあツンドラ並みに冷えてたからな」

「……?」

「橘さんすごく綺麗。着物姿良かった~」

 ややあって瀬川がミスコンの実況を読み上げていることに気付く。

「瀬川、止めな」

「負けちゃったけど大切なものを得られた貴重な機会になりました。応援してくれた人、参加者の皆、ありがとう……だって。ミスコン参加者の皆、この後は打ち上げ行くみたい。楽しそうだねー」

「見るの止めなって」

「はーい……」

 瀬川は素直にスマホをしまう。沈黙が続く。彼女は顔を背け車窓を眺めていた。僅かに開けた隙間から少し冷えた夜の空気と、名も知らぬ虫の音が入ってくる。

 どれだけ走っただろう。いきなり、瀬川が言った。

「ごめん、草場」

「なに? 別に謝られるようなことされてないけど」

「駄目だったなー、私。ださかったな。もう少しやれると思ってたんだけどなー……」

「……ねえ瀬川、一つ聞いていい? 今回のミスコン、どうして乗り気だったの?」

「……言ったじゃん。あいつらを見返してやりたいって」

「本当にそれだけなの? そうは見えなかったけど」

「……」

 私の知り得る限り、瀬川は人に馬鹿にされてもそれを見返すような情熱の持ち主ではない。飄々と受け流すのが彼女だったが、今回は何かに駆られるように打ち込んでいた。

「ねえ瀬川。何があったの」

「あー……事件のあった日さ、玉城さんに呼び出されて言われたんだ。顔が良いからって思い上がるなよ。お前なんて顔だけだ。お前の友人も恋人も顔しか見ていないって」

「な……」息が止まりかける。「そんなこと――」

「どーでもいいなって思った。戯言だなって。だから別に事件も、そんなにショックを受けたつもりはなかったんだよね。痛いのは最悪だったけど、顔なんてただの表皮だし。中身の私が変わるわけでもないから。でも……」

 瀬川の声は徐々に震えていき、そこで言葉に詰まった。

「退院して、町田くんからミスコン辞退しろって言われたときさ。……急に怖くなったんだよね。自分の顔なんてどうでもいいと思ってた。でも違った。思った以上に私は、顔を寄る辺にしてた。……だから、示したかったんだ。私の価値を」

 瀬川は顔を両の手で触っていた。変わり果てた鼻を、唇を、表皮を、確かめるように。

「去年なんか目じゃないくらい一生懸命やった。でも、全然駄目だった。玉城さんの言う通りだった。町田くんの勧める通りだった。結局私には――顔しかなかった。顔しか良くなかったんだよ。皆、私の顔しか見てなかったんだ。示しようなんてなかったんだ。もう価値なんて残ってないんだから」

「……」

 助手席で瀬川は顔を押さえた。手の隙間からは小さな嗚咽が漏れ出ている。彼女がここまで感情を露わにする場面など、長い付き合いだが見たことがない。

 そんな彼女に対して私は――。

「ねえ瀬川、さっきからなにを馬鹿なこと言ってんの?」

「……え?」

 きょとんとした顔で、瀬川がこちらを見る。

 瀬川の考えていることくらい手に取るように分かる。彼女は慰めの言葉を欲している。

 ――そんなことはないよ。

 ――世の中は顔じゃない。

 ――大切なのは心だ。

 でも、そんな詭弁を伝える気は一切なかった。

「顔で判断されるってそんなの当たり前。たかが大学のミスコンだよ。投票するのは一般客、審査員が学生。披露するのは素人芸。だったら決まってる。勝つのは顔が良い奴」

「……そんなことはないって。だって町田くんが言ってた。今回は内面に重きを置いたミスコンで、時代はもうルッキズムじゃないって」

「建前に決まってる、そんなの」

 もちろん全国の大学がそうとは言わない。だが少なくともこの大学でそれは間違いなく建前だ。ミスコン主催の町田だって、顔しか見ていない。

「ミスコンなんて所詮SNSに上げた写真、ステージに立ったときの顔で判断される」

「ネットでもインタビューでも、応援してくれる人もいた。容姿じゃないところを……」

「結局そいつらが見てるのだって、あんたの容姿でしょ」

 ネットで見た瀬川のインタビュー記事には、必ず事件前の写真が掲載されていた。【美人すぎる女子大生】なんて、目を引くような見出しもあった。

「事件前のあんたが綺麗な容姿だったから飛びついただけ。内面なんて見てない。きっと大半の奴らは見出し流し読み。だって、世の中は顔が9割なんだから」

「それは偏見でしょ、草場の」

「実体験。顔の良くない奴なんて見向きもされない」

 車窓を見れば、そこにはぼんやりと反射する陰気な女の顔。

 町田は嫌な奴だった。態度は最悪だった。だが彼の思想自体は特別なものではなく、世の中にありふれたものだ。顔が良い奴を見ていたい。そんな考えは当然だ。誰だって美しいものが好きなのだから。もちろん、私だってその一人だ。

 だから、自分より遥か下の顔面とつるむなんて奴がいれば、そいつはきっと――。

「可愛い」

 澄んだ声で瀬川が言う。

 そいつはきっと、余程の変人に違いない。

「可愛い。草場は可愛いよ」

「……そんなことを言うのは世界であんただけよ」

「見る目がないね、80億人」

 横目で、瀬川の顔を盗み見る。助手席に座る彼女の右の顔。外から入る月明かりで、産毛が白く光っている。瀬川は顔が良かった。黙っている彼女の容姿には周りの人間すべてを引き付けてしまう力があった。

 ここ二ヶ月のことは全て悪い夢だったのではないか。たまにそう思ってしまう。事件なんて起きていない。煩わしい裁判もない。私と瀬川は今まで通りあの部屋で不自由なく暮らしていく。でも火傷の生々しい痕が、これが全て現実なのだと私に思い知らせる。

「……瀬川、あんたは他の奴らに世の中は顔じゃないなんて証明する必要なんてなかった。そんなものはなから無駄なんだから。きっとあんたがいくら頑張ったとこで、皆はあんたを顔で判別していくんだよ」

 私の言葉を聞いて瀬川はしばし無言だったが、やがて首を横に振る。

「……違う、草場。嘘なんだ」

「え? ……なにが?」

「他の奴らを見返してやるって言ったよね。そんなこと、本当はどうでもよかった。見栄を張った。ただ、私は……」瀬川は言葉を詰まらせる。「草場に示したかった、私の価値を。私は顔だけなんかじゃない。まだ見捨ててほしくないなーって……」

「私に示したかった? ……なに、それ」

「……草場」

 瀬川が私の顔を覗き込む。

「……何よ、なんだよそれ」

 私の身体は震えが止まらなかった。

「あんた、そんなこと考えてたの? 人をおちょくるのも、大概にしなさいよ!」

「草場、前! 前前前!」

「は?」

 前を向く――眼前にガードレールが迫っていた。その向こうは段差数メートル、真っ暗な砂浜が広がっている。

「うわっ!」

 急ブレーキをかける。慣性に従い私たちの身体は前につんのめる。ガードレールとは接触寸前だった。

「草場ぁ~……!」

「瀬川、この馬鹿!」

「ば、馬鹿は草場でしょ。わき見運転して……」

「それはごめん! でも、馬鹿は瀬川!」

 路肩に車を停め、大声で瀬川を怒鳴りつけていた。もう瀬川とは十年以上の付き合いだ。それなのに彼女は未だ――。

「……私があんたを顔だけの女だと思ってるだとか、そう考えてたの?」

 怒りが沸々と湧いてくる。瀬川はまなじりに涙を浮かべ、首を横に振る。

「思いたくないけど、分かんないよ。だって私は、顔しか――」

「あんまり舐めんな! 顔が良いだけくらいであんたに付き合いきれるか!」

 苛ついていた。ずっと私は周囲に苛ついていたのだ。町田も、実行委員も、観客も、お前らは何も瀬川のことを分かっていない。顔。顔顔顔顔顔顔顔。確かに瀬川は顔が良い。馬鹿か。そんなことは分かり切っている。

 ――顔だけじゃなく、もっと中身を見ろ。瀬川を知れ。こいつのことをもっと知ってくれ。顔面だけで終わる女ではないのだ、こいつは。

 瀬川のことが好きだった。どこか抜けているところも、無邪気に笑うところも、飄々としているところも、人懐っこいところも、馬鹿なところも。だから顔だけしか価値がないなんて言わないでほしい。周りの評価になんて流されてくれるな。

「ごめん、草場」震えた声で彼女は言う。「でも私、自信がなかったんだ。こんな顔になって、取り柄もなくなって、何にも残らなくて」

「馬鹿にするな! 私の好きな奴を、馬鹿にするなって言ってるの!」

 私は車から飛び出た。

「く、草場?」

 欄干から身を乗り出す。眼前に広がる真っ暗な海へ向かい、大声で叫んでいた。

「瀬川が優勝できないとか、お前らなーんも分かってない! 節穴だ! お前らの目は全員揃って節穴だ! いいよ、お前らがその気なら瀬川は私のもんだ! 独り占めだ! 後で羨ましがったって絶対に譲ってやんねーからな! ざまあ見やがれボケー!」

 そこまで叫んで咳き込んだ。慣れない大声を出したからか喉の奥が痛む。私の発した声は、夜の海に吸い込まれるように消えていく。ただ波の音だけが響いていた。

 そんな私の様子を、後ろに立つ瀬川がじっと見つめている。

「な、なに……」

 急に自分の行為に羞恥心が湧いてきた。心臓がどくどくして動悸が止まらない。どうも今日は興奮しすぎている。私ってもっと冷静な人間じゃなかったか?

 瀬川はそんな私を見て、にやりと笑った。彼女は身を乗り出して大声で叫ぶ。

「お前らボケー。ボケボケボケ―」どこか抜けた声で瀬川は叫ぶ。「どうだ見たかー。お前ら全員、全然分かってないぞー。うちの草場は超絶可愛いんだぞー」

「は!?」

 思わず彼女の肩を掴む。

「な、なんのつもり……! 何を言って……!」

「意趣返し」にやりと悪戯っぽく瀬川が微笑む。「あー、なんかすっきりした。やっぱ海いいなー。でかいなー。好きだなー。来てよかった」

「……あっさい感想」

「軽さが売りなんでー」

 瀬川はにししと笑う。

 ――ああ、こういうところだ。お前らは彼女のこんな面を見たことがないだろう。お前らは全員、本当の瀬川を知らない。一生、薄皮だけ眺めている。私だけが本当の瀬川を知っている。理解している。

「……瀬川」

「なに?」

「帰ろっか」

「うん」

 瀬川は笑顔で頷いた。


「海に行けば見れると思ってたんだよね、鯨が」

「え?」

 帰路、海へ行きたがっていた理由を話した瀬川に、私は突っ込んでしまう。

「鯨って、あんた、ホエールウォッチングを舐め過ぎ」

 あんな浅瀬で見れるとすれば、それは座礁しかけた鯨だろう。

「52ヘルツの鯨っているじゃん」

「ああ……」

「ふふ、知らないなら教えてあげる。52ヘルツの鯨ってのは――」

「聞いた聞いた聞いた」

「そーだっけ。なんかさ、海に行けば会える気がしたんだよね。その鯨に」

 52ヘルツ――周りとは違う鳴き声を出す孤独な鯨。

「鯨に会ってさ、なんか声かけたかったんだ」

「なんかって?」

「んー、それは会ったときに決めるけど」

「……その話、この前少しだけ調べてみた。52ヘルツの鳴き声を出す鯨の集団ってのが複数観測された事例もあるみたい。別種の鯨同士の子だとか推測されてるって」

「へえ。さっすが生物学部」

 52ヘルツの鳴き声を出す鯨がいることは本当だが、それ以外は眉唾な話だった。そもそも52ヘルツ自体、鯨の鳴き声の周波数に含まれることもあるらしい。人口に膾炙するにつれて、よりセンセーショナルな物へ変えられていった。現実なんて結局そんなものだ。

 私は息を吐く。

「夢のない話よね」

「夢のある話だね」

「は?」

「ん?」

 互いに顔を見合わせる。まるで話がかみ合わない。

「どこが夢のある話なの。結局は過剰にアピールされた眉唾ってことよ」

「幸せじゃん。だって声の届かない鯨はどこにもいなかったんでしょ?」

「……」

 けろりとした表情で言う彼女を見て、私は息を吐く。

「……きっとあんたみたいな考え方、私には一生できない」

 昔からそうだった。私と瀬川は同じ方向を向いていない。

「あー、分かる。私もそう思う。だからなんだ。だから、きっと草場のことが――」

 窓から入る風の音、車の振動で、瀬川の声の後半部は聞き取れなかった。

 車なんて一生軽で十分だと思っていた。小回りも利くし、自動車税も安い。普通に生活するならそれで十分だ。ただ、助手席に人を乗せるとたまに狭く感じたし、ましてや高速では振動が酷いため、音楽や人の声が聞き取りづらい。次に買うなら普通車にしてやる。

 私たちを乗せた車は街灯に照らされた夜道を進んでいく。