周藤蓮の短編小説「跳躍刑」
周藤蓮さんから短編をいただきました。光速で移動する技術が普及した近未来。光速移動から生じる「時間の遅れ」を、人類は刑罰に利用することを思いつく……。非凡な想像力が生み出した佳作。
跳躍刑
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
天井から聞こえてきた声は、記憶にあるものと違った。
前の二回、俺に話しかけてきたのは渋みのある声をした男性だった。しかし今回の声は明らかに若く、まだ子供といってもいいくらいの女性のものに聞こえる。
俺は固く清潔なベッドで上体を起こし、ぼんやりと宙に視線を向ける。ここ一年を過ごしていた機体居住区画とは違う、地上でほんの数日を過ごすためだけの簡素な部屋。牢獄のようだ、と思ってからそれが真実牢獄であることに思い至る。
「前と声が違うな。担当が変わったのか?」
「はい。私が今回からあなたを担当する管理官です」
「たった二年で辞めるだなんて、管理官って仕事は軟弱ものにも勤まるんだな」
その俺の言葉には、まず小さな溜め息が返ってきた。
「お忘れかもしれませんが、あなたにとっての二年は私たちにとっての二十年です。一つの仕事を勤め上げ、辞めるには十分な期間ですよ」
もちろん、その事実は忘れたりしない。一時たりとも。
しかし俺は相手が見ているのかわからないまま、適当に肩をすくめてみせた。
「そうだっけ?」
冗談であることはわかっているだろうに、女性――新しい管理官は律儀な調子で答えた。
「四十二番、あなたは受刑者です。過去に行った重大な犯罪により、あなたは時差的拘禁および深宇宙懲役刑を科されています」
「もっと単純に跳躍刑って呼べばいいだろう」
かつてその刑の執行が認可されたとき、世間的に広まったスラングを口にすると、管理官は酷く嫌そうな口ぶりで答えた。
「あなたの行っている行為が時間跳躍であるという理解は間違っています。時間的な跳躍こそが刑罰であるという表現には、一定の正しさがありますが」
部屋のどこかにあるスピーカー越しでは管理官の顔も表情もわからない。しかし生真面目な顔つきをしているのだろうなというのは、その声だけで想像ができる。
「あなた方……つまりいわゆる跳躍刑の受刑者に科されているのは深宇宙における労働です。これは必然的に、あなたの主観と客観における多大な時差を生みます」
きっかけは亜光速航法の実現だったらしい。
技術の飛躍的な発展は、かつては観測することが精一杯だった深宇宙を到達可能な距離にまで縮めた。
しかしそれはより遠くに辿り着けるようになったというだけであり、『早く進むものほど時間の流れは遅くなる』という物理法則を覆せるようになったわけではなかった。つまりもしも誰かが亜光速航法で旅をすれば、外界ではその何倍もの時間が過ぎ去ることになる。
たとえ当人が希望したとしても――これは奇妙な表現だが――未来に置き去りにするというのはあまりにも非人道的すぎる。当時、世間の主流はそういった意見だった。さりとて深宇宙の有人探査が科学の発展にもたらすだろう利益をまるっきり無視することもできない。
そうした二律背反の中で、当時の政府は極めて明快な折衷案を見つけ出した。
つまり亜光速航法での時差に晒すのが非人道的ならば、非人道的な扱いをしても問題がない人物に行わせればいいのである。
「あなたは既に二度、今回で三度目の跳躍刑を終え、主観においては三年、客観においては三十年の時を過ごしました」
跳躍刑の受刑者は亜光速で深宇宙まで飛び、そこで刑務作業を行い、また亜光速で地球まで帰ってくる。行う作業は何らかの学術的な探査であるらしいのだが、それがどんな意味を持つのかを俺は理解していない。
ともかく、この工程において時間の流れはまるでゴムのように伸び縮みする。厳密な話をすれば多少の長短はあるのだろうが、大雑把に『一年の跳躍刑を過ごす間に世界では十年の時が流れている』という説明をされることが多い。
「しかしそれはあなたの罪が許されたことを意味しません。あなたは終身、跳躍刑を務めねばなりません。これからの生涯全てをあなたは科学の発展と国益のために捧げるのです」
「わかってる、わかってるっての、管理官。というか、そんなわかりきった話をするためにわざわざ音声で連絡をしてきたわけじゃないだろ?」
それで管理官は思い出したらしい。
「……そうでした。ごほん、あなたは新たな任務を始めるまでに一週間の休暇が与えられ、そしてそのうちの一日を外出日とすることが可能です。外出を希望されますか?」
深宇宙探査を終えた宇宙船には整備が必要だし、十年の間に技術的な革新が起きていることもある。一週間という休暇は、俺が次に乗る新しい宇宙船を準備する期間でもある。
そして一日だけ、俺たちには監視付きとはいえ外を出歩く権利が与えられるのだが、俺の答えはこれまでの二回と同じだった。
「いや、出ない。外出申請は必要ない」
「承知しました。ではそのように」
再出発に向けての準備は色々と必要だが、口頭で話すべき内容はこれくらいだろう。そのまま通話は切れるものかと思ったが、しかし新しい管理官はまだ言葉を続けた。
「それと、もう一点」
「なんだよ」
「短期間で仕事を辞めることは、その人物が『軟弱』であることを示しません。一つの仕事への適性、順応性は個々人によります」
律儀だ、と今度は俺が溜め息を吐き出す。
「はいはい、すみませんでした。だからって後任がお前みたいなガキとはなぁ」
努めて冷静であろうとはしているようだが、管理官の返事には苛立ちが滲んでいた。
「子供ではありません。私はもう十七歳です」
「十七歳はガキだろ」
「……あぁ、そういえばあなたが知る世界は三十年前のものでしたね。現在の成人年齢、および教育期間と就職時期についてお伝えしましょうか?」
俺は少しだけ想像した。
およそ三十年――主観ではおよそ三年、俺が見てきたのは宇宙船の内部と、地球上で過ごすための待機部屋だけだ。きっと様々なものが変わったのだろう。もしかしたら変わっていないものを数えた方が早いくらいに。
けれど、あるいはだから、俺は首を振った。
「いいや、必要ない」
「なるほど。では、次の刑務作業に備えて体を休めてください」
そうして通話が切れる。
俺はまたベッドに寝転がり、殺風景な天井を眺めた。程なくしてまた俺は宇宙の深みへと放り込まれるのだろう。気楽に眠れるうちに、たくさん眠っておきたいものだ。
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
一年ぶりに聞く管理官の声は、暗く沈んでいた。
もちろん地球では十年が過ぎているので、その声はかつての甲高い子供のものではなくなっている。しかしそれ以上に、声音の変化が顕著だった。
何をいうべきか迷って、いうべきことだけを口にした。
「今回も外出申請はしない。手続きは不要だ」
「……承知しました」
それで話は終わりのはずだった。
しかし、意外というわけではないが、管理官は通話を切ろうとはしなかった。
「……四十二番、体調に変化はありませんか?」
「モニタリング結果は伝わってるはずだろ」
「それはそうなんですが……」
迂遠な手つきで何かを探ろうとする言葉がくすぐったい。罪人になって以来、そうした気遣いのようなものとは無縁に過ごしてきた。
「なんだよ、用件があるのならはっきりいえよ」
「あなたは……」
顔も知らないが、ためらうように口を数度開閉させる間があったことはわかる。
「……あなたはなぜ、跳躍刑に服することになったんですか?」
俺はベッドの上であぐらを掻き、頬杖をついた。
「そのお前の質問は命令で、回答は俺の刑務作業か? ならきちんと答えるが」
「いいえ。……これが私の個人的な質問だとしたら、あなたは答えてくれますか?」
「そりゃあ、動機によるな。罪人にだって興味本位のくだらない質問を無視する権利くらいは残されているだろう」
しばらくの沈黙があった。
目を閉じ、うとうとするくらいの時間が経って、やがて返ってきた言葉は酷く弱々しいものだった。
「私が担当している跳躍刑受刑者は十年前……前にあなたと会ったとき、八人いました。当時の受刑者で現在も生きているのは、あなただけです」
驚きはしない。他の受刑者の情報なんて初めて聞くが、管理官の言葉を聞いて真っ先に胸のうちに浮かんだのは納得感だった。
体感では最近までいた、果てしない虚空を思い出す。
「深宇宙での作業はそんなに危険じゃないだろう。俺へ割り当てられている作業が特に安全ってわけじゃないなら」
「彼らは……みんな、自分でその命を絶つことを選びました」
だろうな、と声には出さずに頷く。
「お前らにとってはもうずっと昔の話だろうが、亜光速航法の黎明期に『未来に置き去りにするのは非人道的すぎる』って考えた奴らは正しかったよ」
「ですが、それは本質的にどう違うんですか? あなた方は一所に閉じ込められ、刑務作業を科せられる。しかしそれは地上で刑に服する孤独と同じものではありませんか?」
思わず、口から笑いが漏れた。
胸の内で湧き起こった様々な感情が好き勝手に走り回り、結果として生まれた痙攣のような笑いだった。
「答えは『何もかもが違う』だ」
一つ呼吸をしたのは、声に余計な感情が滲まないように注意をするためだ。
「閉じ込められた孤独は、同じ世界の中で区切られた孤独だ。一人で壁を見つめていたとしても時間の流れは平等で、かつて属していた世界そのものからはじき出されたわけじゃない」
そこまで口にしてから、厳密な意味では地球上であっても速度の差があれば極微細な時間の流れの違いはあることに気づく。
まぁ、わざわざ注釈を挟みはしない。誰にも認識されない程度の差である。
「けれど跳躍刑で生まれるのは世界から切り離される孤独だ。生きているものが当たり前のように共有し、共有していることすら認識していないもの。それを取り払われる孤独だ」
地球上で過ごす僅かな休暇。その間に跳躍刑受刑者が外に出たときのことを想像する。
自分が一年を過ごす間に十年が過ぎ去った地上。かつて自分が知っていた土地、人々、物事、あらゆるものが否応なく変化し、そしてもう取り返しがつかないのだと突きつけられる。
未来を目にしようと、自分がそこに属していなければどんな意味があるというのだろう。
「ありきたりな表現でなんだが、そんなのは死んだも同然だろう?」
だから自ら命を終わらせた他の受刑者の気持ちも想像がつく。
彼らは死を選んだのではない。既に自分が死んでいることに気づいて、帳尻を合わせたのだ。
「あなた方は……過去に犯した罪によって罰を受けました。しかしそれが自ら死を選ぶようなものならば、それは正当な罰といえるのでしょうか?」
返事はしなかった。
罰の適正さなんてものは客観性が保たれた人物が語るべきことだ。罰を受けている当人が何かいっても、それは繰り言にしかならないだろう。
「というか、お前も前にいってたじゃないか。『時間的な跳躍こそが刑罰なのである』みたいなことをさ」
「それは……すみません」
また俺は笑ってしまったが、今度は管理官の律儀さが妙に面白く、素直に漏れ出た笑いだった。
「気にするなよ。ガキの言葉で怒るほど繊細な神経はしてない」
「一応いっておきますが、私はもうあなたよりも年上です」
あれ、と頭の中で数える。自分が跳躍刑を受けた年齢に、受刑中に主観で過ぎ去った四年を足す。対する管理官は前回十七歳で、それから十年が過ぎた。
「……理屈上はそうなるかもしれないが、なんか納得いかないな」
「物理現象に文句をいっても仕方ないじゃないですか」
「で、話は俺がどうして跳躍刑に服すことになったかだったか」
なぜ管理官がそんな質問をしてきたのか、想像をしながら言葉を選ぶ。
「俺の罪状についての資料は手元にあるんだろうから、俺は俺の視点で語るとしよう。つまり、俺にとって都合のいい言い訳を話すってことだが」
返事はなかったが、管理官が了承した気配だけはなんとなくわかった。
「俺の生まれはD地区だった。D地区って現代でも伝わる言葉か?」
「D地区解体に関するドキュメンタリーは見たことがあります。あなたは、あそこの生まれだったんですか」
「ははっ、なんだよ。ほんの数十年であの場所は娯楽として消化されるようになっちまったのかよ」
俺は大げさに首を振ってみせる。
「まぁ、なら細かい話はいいか。あそこは最悪だった。抜け出すこともできなければ、まともに育つこともできない。腐った土から腐った植物が生えて、その植物がまた腐った土になっていくような場所だ。唯一マシだったのは、金を稼ぐ手段には事欠かなかったことだな」
狭苦しい宇宙船と狭苦しい牢獄。その二つを往復する前の生活を思い出す。泥と血と薬と吐瀉物の臭いが染みついた記憶。
「つまり、お金目当てだったということですか」
「ああ、そうだ。妹をD地区から出して、外で生きていけるようにするための資金。それを得るために俺はなんでもした。なんでもした結果、俺はこうして囚われることになった」
罪状以外の情報は共有されていなかったのか、管理官が小さく息をのむのが聞こえた。
「……妹さんがいたんですか」
「ありふれた話だろ。肉親を少しでもマシな世界に行かせてやるために悪事に手を染める男。よくある悲劇と違って、幸いにも俺は成功した」
文字通りに手を血に染めて得た金を、俺は足がつかない形で妹に渡した。妹は無事にD地区の外での生活を始めた。知っているのはそこまでだ。
「妹さんのその後のことは……?」
「収監されてから外部との連絡は禁じられたからな。知らないし、知ろうとも思わない」
あれからおよそ四十年。生きていれば妹はいい歳になっているだろうし、あるいはもう生きていない可能性も十分に考えられる。
「ですが、地球滞在中の外出を利用すれば、何かを知ることくらいはできるのでは?」
「知ってどうするんだよ。あいつが今どんな状況にいたところで、今更俺にできることはない。もしあいつが今、普通に生活をしているのなら、ずっと年下になった兄が『久しぶり』なんて会いにいっても邪魔になるだけだろ」
「それは……そうかもしれませんけど……」
「それに、いったろ。俺は妹のためになんでもしてやるつもりだった。あらゆる種類の報いも覚悟していた。わかるか、覚悟していたんだ」
俺は両手を見下ろす。
隔離されて生活するうちにすっかり生白く、清潔になってしまった両手を。
「俺は妹のために必要なことをした。人生を何度やり直しても同じことをするだろう。けど正しいことをしたと思ったことは一度もない。俺が生まれた世界はクソだったが、それは俺の被害者が被害を受けて当然だったという話にはならない。だから――」
そこまで話して、一度息を吐き出す。続けるべき言葉をあっという間に見失ってしまう。人とこんなに長く話すのは久しぶりだ。
なんの話だっけ、と思い返して、伝えるべき言葉を思い出した。
「――だから、俺は自殺しない。安心しろよ、管理官」
管理官は長く沈黙した。
それからいいづらそうな調子で、しかしはっきりと問いかけてくる。
「それは被害者の方々への償いとして、ですか?」
「死人はどんな償いをしたって喜ばない。俺が死なないのは『俺はあらゆる報いを覚悟して罪を犯した』という自覚のためだ。あのときの俺は正常な判断力の下、明確な意思をもって犯罪を行った。俺はそう思っているし、そう思っていたい」
いいながら笑ってしまう。言葉にすれば、そのなんてみみっちいことか。
「俺がすがっているのはそんなくだらない自意識だ」
息を吐き出し、俺はベッドに体を投げ出す。自分の話をするのは、深宇宙で作業をするよりもずっと疲れることのようだった。
管理官は、多分意図的に言葉に感情を滲ませないようにした。平板な声が天井辺りから降ってくる。
「……お話、ありがとうございました。次の任務に備えて体を休めてください」
返事はせずに、目を閉じた。
地上でも深宇宙でもD地区でも、まぶたの裏の暗闇だけはいつも同じだ。
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
返事をするよりも前に、一年ぶりか十年ぶりに聞く管理官の言葉は続いた。
「私ってあなたに名乗ったことがありましたっけ?」
ベッドの上に座っていた俺は、少しだけ記憶を遡る。
「いや、聞いた覚えはないな」
「あぁ、よかった。では特に訂正は要りませんね」
「訂正?」
「私、この十年の間に結婚したんですよ」
驚いてしまったのは、多分初めて話したときの印象を未だに引きずっているからだろう。俺の中で管理官は年下の少女のイメージのままだ。
しかし考えてみれば彼女はもう三十代も後半になっているはずである。
「そうか。それはおめでとう」
「ですがこの前、離婚しまして」
「あぁ? さっきの『おめでとう』を返せよ」
「だから名字が変わったことを伝えたり、戻ったことを伝えたり、色々と大変なわけです」
十年の間に結婚して、離婚して。せわしないことだと思ってしまうのは、その時間の厚みを薄っぺらにしか感じられない場所に自分がいるからだ。
「まぁ、なんというか、色々あったにせよあんたが辞めてなくてよかったよ」
「おや、あなたがそういうことをいうのは、少し意外です」
「たまにしか人と話さないからな。毎回管理官が変わって、毎回『初めまして』から始めるのは面倒だ」
「大丈夫ですよ。私も管理官としては古株で、それなりに出世もしました。給料も増えましたが、責任も増えたので簡単には辞められません」
「……ん? というかそういえば、管理官って普段は何してんだ? 俺たちが帰ってくるのは十年に一度だろ? それ以外のときは椅子に座ってるだけで給料がもらえるのか?」
「そんなわけないじゃないですか。私たちは宇宙開発、司法、人材管理の分野にまたがった専門家です。管理官としての業務がないときは様々な場所で協力や支援などをしていますよ」
「へぇ、すごそうなことはわかるけど、具体的にどうすごいんだかわかんないな」
「まぁ、普段は別のこともしているという話です。単純に実働時間だけで考えたら、こうした管理官の業務の方が副業と呼べるかもしれませんね」
そういった管理官の言葉には冗談めかした響きがあった。
実際、専門的な訓練を受けたわけでもない囚人を深宇宙で作業させようというのだ。こうして話をする以上にたくさんの苦労がその裏側にはあるのだろう。
「あと、管理官の仕事は時間の自由が利きますからね。子育てをする身としてはありがたい限りです」
「子供もいるのか。離婚したってことは、あれだ。シングルマザーってやつだ」
「あー……今、初めて四十二番がとても昔の人だったんだなって実感しました。最近はその種の表現は倫理的観点から使われませんよ」
「マジ?」
どの辺りがダメなのかよくわからない。
「思ったよりも外の世界も変わってるのかね。そろそろ車は空を飛んでいるか?」
「残念ながら、まだです……はぁ」
「なんだ? なんか疲れてるのか?」
「あぁ、すみません。仕事に私事を持ち込みたくないのですが、少し疲れているみたいです」
「管理官は楽な仕事だってさっきいってなかったか?」
「時間的な拘束が緩いだけであり、管理官としての重責を忘れたことは一時もありません。それはそうと、子育てが困難なこともまた事実ですが」
「ははっ、まるで人の親のようなことをいう」
「親なんですよ……」
聞こえた溜め息には疲れが篭もっていたが、同時にとても柔らかい響きだった。
親というのはそういう風に子育てのことを嘆くのかもしれない。親の記憶はほとんどないので、なんともいえないが。
「最近、うちの子が妙に気難しくて……。子供が何を考えているのかって、親でもわからないですね。難しいです」
その言葉に思わず返事をしてしまったのは、自分の過去を思い出していたからだろう。
「……他人事だと思って、適当なことをいっていいか?」
「なんですか? お聞かせください」
「お前の子供って……五歳くらいか?」
「今、七歳です」
「あぁ、じゃあちょうどそのくらいだよ。俺が人を殺そうと決めたのは」
そう口にしてから、いくらかの語弊があることに気づく。
「いや、少し違うか。俺はそのくらいの歳で妹と些細な約束をした。それで俺は金を稼ごうと決めたし、そのためには犯罪が必要なこと、誰かを傷つける必要があること、そして自分が捕まることを理解した」
もちろん、当時の自分の頭で理解できた範囲でだけだが。それでも当時の自分は決意した。
「それは……」
「別に俺について、俺の罪についてどうこうって話じゃない。これはつまり、子供は大人が思う以上に考え、決意をするってだけのことだ。こうして最後には牢屋に辿り着くだろう道を、そうとわかって七歳の俺は歩き始めて、今も歩き続けている」
管理官はしばらくの間黙って、それから意図的に茶化しているとわかる口調に切り替えた。
「あなたからの言葉だというのが判断に困りますね。子供は誰かを守る決意をできるくらいに賢いと信頼すべきなのか、子供は誤った道を容易に歩き始めてしまうから注意を払えという警告なのか」
「まぁ、今の話は寓話じゃないからな。単なる俺の過去だ。好きに解釈すればいい」
「悩みを打ち明けて、返事をもらったのに、なんだか余計に悩み事が増えたような気持ちです」
そういって管理官は笑った。その口調は少しだけ明るくなったような気がするので、恥をさらした甲斐もあったというものだろう。
「ありがとうございました。色々考えてみます。長々とお話をしてすみません」
「どうせ地上にいる間は暇だからな。気にするなよ」
スピーカーの電源が落ちた。通話は終了らしい。
俺は一度伸びをし、ふと思い出した。
「あ、今回も外出申請はしないぞ」
数秒後、再びついたスピーカーから気まずそうな声が降ってきた。
「……そういえばそれを聞き忘れていました。了解です」
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
俺はその声音を聞いて思わず背筋を伸ばした。
「……怒ってる?」
「いいえ、怒ってなどいません。職務に個人的な感情を持ち込んだりはしません」
「怒ってるぅ……」
別に怒られたところでどうということはないし、牢獄の中の俺に直接何ができるわけでもないのだが、なんとなく肩をすぼめてしまう。
管理官は破裂寸前の風船みたいな声音で、静かに語る。
「四十二番、跳躍刑に服している現状に対する理解、およびあなたの所感をお聞かせください」
「……ん? どういうことだ?」
「これは待遇の改善や刑罰の軽減を約束するものではありませんが、質問に答えることがあなたに今後有益な影響を与える可能性の一切を否定するものでもありません」
「あぁ、うん。なんとなくわかった」
俺は監督官の言葉からその背後を想像して、それから口の端を曲げるように笑う。
「この質問、考えたやつはバカだろ。こんだけ刑を受け続けているやつは、跳躍刑にそれなりに適応しているやつだ。何を意図しているにせよ、問題点を洗い出したいなら死んだやつか死にそうなやつに聞くべきだろ」
「貴重な回答をありがとうございます」
そう答えてから、管理官は長々とした溜め息を吐き出した。
「……ここから先、ちょっと管理官としてふさわしくない内容を話していいですか?」
「いっちゃあなんだが、少し前からずっとそうじゃないか?」
「いえ、私は常にあなたの心情面への配慮から必要と判断した会話しか行っていませんが?」
顔も知らないが、管理官の澄ました表情が目に浮かぶようだ。
が、しかし、と俺は首を振る。
「無理があるだろ」
「まぁ、ありますよねぇ……」
「で、なんだったんだよ、さっきの質問は」
「えぇと、少し前から私は管理官の中ではトップとなりました。しかし出世したわけではありません」
なぞなぞのようだ、と思ってから大した謎ではないことに気づく。
「もしかして、もう跳躍刑の受刑者はそんなに少ないのか」
「はい。こうして受刑者と直接対話する役割が、たった一人で十分になる程度に」
「どんだけ死んでんだよ」
「死者が多いこともそうですが、もう随分と跳躍刑の受刑者は増えていませんから」
「へえ、外の世界は平和なんだな」
「犯罪そのものの減少もありますけど、単純に跳躍刑が下されることがないんです。なんというか、その……倫理観の変化によって」
今回の航行で過ぎ去った十年、あるいは収監されてから六十年。その間にどれだけ外の世界が変化し、そこで生きる人がどんな価値観を持っているのかを想像しようとする。
もちろん、無理だ。
もう外の世界なんて空想することもできない。俺の記憶にある風景はきっと全て失われ、けれどその先には何もない。断崖絶壁に爪先がはみ出しているような、そんな気分。
「そういうこともあるんだろうな。……ん? 妙だな」
話の繋がりに引っかかりを覚える。
「跳躍刑は倫理的に許されない。だから新しい受刑者が増えない。ここまではいいだろう。だがそれと俺への聞き取りは関係があるのか?」
返事よりも前に、ドンと机を強く叩く音がした。
「それですよ! わかりますか!? これ以上、跳躍刑受刑者が増える見込みはない。しかし跳躍刑による利益は得たい。だから現在の受刑者を長持ちさせる方法を模索しろですって!」
「実利から考えれば当然の発想じゃないのか?」
「利益のために刑の内容を調整しようとは信じがたい堕落です!」
「跳躍刑はそういうものだったろ。最初から科学の発展という利益ありきでの刑罰だ」
俺としてはそういう認識だったが、管理官は違ったらしい。彼女が荒々しく首を振るのが、気配でわかる。
「世界から隔絶された孤独が罰としてふさわしい罪人がいた。だから跳躍刑を科し、副次的な利益を得た。これはいいでしょう。懲役に伴う利益の全てを否定するつもりはありません。しかし利益を前提として考え、それに併せて罰の形を調整する。こんな本末転倒があっていいものですか!」
そこまで口にしてから、彼女はさらに語気を荒げる。
「まず考えるべきは跳躍刑が適切だったかどうかでしょう! 跳躍刑が倫理的に不適当ならば待遇の改善なり、懲役内容の変更をすればいいのです! それを利益ありきでなど!」
もう自分でいったことでどんどんヒートアップしていくような状態だった。
話を聞くことを諦めた俺が聞き流す中、管理官はしばらくの間あちこちに波及する不満や愚痴を述べていた。幸いにしてそれは、俺が眠りに落ちるよりも前に終わった。
「……失礼しました」
「気にすんな。けどどうせ聞くのなら面白いニュースの方がいいな」
軽口の類いだったが、管理官は真面目に悩み始める。
彼女は数秒唸ってから探るようにいった。
「……最近、興味深かったのはAIの人権論争に決着が見られたこととかですかね」
「どんな結論だったんだ?」
「AIについての議論が人間や動物についてにまで波及して収拾がつかなくなったので、議論自体が禁止になりました。結論が出ない、で結論です」
「それ結論でいいのかよ」
「他にはカフェインの摂取が原則禁止され、食品に含まれるのが代用カフェインだけになったので、逆に『代用』表記は要らないんじゃないかとかで揉めてましたね」
「待った、まずそもそも今って地上じゃカフェインの摂取、禁じられてるのか?」
「随分前から代用カフェインに切り替えられてますよ。四十二番に提供される食事もそうなっていますが……」
「全然気づかなかった……」
「後は亜光速サナトリウムに帰還命令が出たとかも最近のニュースですね」
「亜光速……何?」
「サナトリウムです。亜光速航法の黎明期、根治不能な病を抱えた一部の人々がその時間の流れの変化に希望を見いだしました。地上の時間が進み、治療技術が確立されるまで、宇宙を亜光速で巡っていようと考えたのです」
「へえ、面白い発想だ。それに帰還命令が出たってことは、もう地上じゃ『病気』も死語か?」
「治療技術の発展もありますがそれだけではなく……おっと」
その時、スピーカー越しにアラーム音が聞こえた。
「すみません。この後、会議の予定があったのを失念していました」
「いや、こっちこそ悪かったよ」
「では次の任務に備えて、体を休めてください。外出申請についてはいつも通りでいいですね?」
「ああ、問題ない」
スピーカーが切れた気配がする。
俺は目を閉じて、外の世界を想像しようとする。そこに具体性は一切伴われない。あるのは限られた情報と、そこから膨らませられるふわふわとした空想だけ。だからそこがどんなところであっても俺には関係ない。
けれどそこが多少であれ、マシなところであればいいな。
そんなことを思って、俺は眠りに落ちた。
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
管理官はそういってから小さくくしゃみをした。
「なんだ、風邪か?」
「いえ、管理局……ここに人が入るのも少し久しぶりなので。ちょっと埃っぽいみたいですね」
「うん? ……あぁ、そういうことか」
「はい。四十二番、あなたは最後の跳躍刑受刑者となりました」
何かいうべきかと思ったが、意外と思うことはなかった。
「そうか」
俺はそうとだけいって、それからふと思い出す。
「今日はやたら検査が厳重だったけど、それも俺が最後の一人になったからか?」
刑務作業を終えた後には必ず地上で検査が行われるのが通例だった。
しかし今日の検査は一際工程が多く、俺はそれを単に時代の変化によるものかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「ご対応いただきありがとうございました。はい、あれは私の指示によるものです」
「むしろ今の検査ってあんな感じなんだって驚いたわ。注射とか使わないんだな」
「侵襲性の検査とか、もう今の若い子には通じない話題ですよ。あなたは史上最も亜光速で過ごした人体です。その影響や変化を知りたいという人は多いので」
へえ、と少し驚く。
「意外だな。囚人から利益を得るのにお前は反対しているのかと思ってたよ」
「それは……そうなんですが」
管理官はもごもごと何かをいいかけて、結局溜め息のように先を続けた。
「あなたはもうたった一人の跳躍刑受刑者になりました。跳躍刑というプロジェクトはもう最盛期の規模ではなく、そして今後拡大することも起こり得ないでしょう」
「どうだかな。ほんの百年前まで亜光速航法なんてあり得ないっていわれてたんだぞ。起こり得ないことなんてない。今の倫理観だって、なんかのきっかけであっさり覆るかもしれない」
「だとしても、その契機すら見いだせていないものを想定したところで無益です。そしてプロジェクトが小さくなるということは、個人の意思による影響が大きくなるということです」
「お前が好き勝手できるって話か?」
「私は何かの意図を持ち込まないようにしています。しかし私以外はそうではない……かもしれないという話です」
俺は曖昧に相づちを打つ。
直接会話をする相手は管理官だけで、最後に他の人間を見たのは収監された頃にまで遡ることになる。ここ数年の孤独によって、組織や社会に対する感性は萎れつつある。
「だからあなたに関わる人を増やすことにしました。あなたの存在に利益を感じる人が増え、あなたに注がれる視線が増えれば……まぁ、よほどむちゃくちゃなことは起きないはずです」
「仕事をサボるなよ、管理官。そうした事態を防ぐのもお前の仕事のうちだろ」
「あはは、それは間違いないですが、私もいつまでこの席に座っているかはわからないので」
その言葉は明るく、軽く口にされた。しかし取り繕われたその意図が、かえって内容の重みを際立たせてしまっていた。
「……なんだよ、そろそろ転職の時期か?」
「転職というよりも、退職です。そろそろ引退したらどうかって周りや子供にいわれるようになりまして」
「あぁ、アレだ。気難しくてよくわかんない子供」
「もうそんな歳じゃないですよ。家を出てお金を稼いで、まぁ独り立ちしたといえるんじゃないですかね」
「なんだよ、妙に含みのある言い方だな」
「あの子の仕事が――おっと、あれ?」
「どうした?」
「えっと、あぁ、禁則に引っかかりました。うわぁ、こんな古臭いシステム、残ったままだったんだ」
後半はほとんど独り言のようで、管理官はブツブツと呟いてから首を振ったようだった。
「失礼しました。一時期『受刑者の知識に存在しない未来の概念を教えるのは受刑者の精神衛生の観点から望ましくない』って管理官の間で語られてたんですよね。それで通信に載せられない言葉が結構あるんですが、この規制まだ生きてたんですねぇ」
「つまりお前の子供はなんというか、新しい仕事に就いたのか」
「そうですね。仕事の前提となる概念すら四十二番にはお伝えできない感じです」
一体どんな仕事なんだと思うし、思うからこそそれは禁則に指定されているのだろうとも思う。
「近いうちにこの制限、外しておかないとですね」
「いいのか? よくわからんが必要だと思われたから生まれた規制なんだろ?」
「禁則を気にしていた管理官も、禁則が必要だと思われていた受刑者ももういません。結果から見ればあまり意味のない規則だったのでしょう」
「まぁ、俺とあんたはこれまで大して気にもせずに話していたわけだしな」
「とにかく私の子供の仕事の話ですよ。雑にいってしまえば先行き不透明で不安定な仕事に就いてしまいまして。怒ったものか心配したものか、悩んでしまいます」
管理官が真剣な調子でそういうものだから、俺は思わず吹き出してしまう。
「一応いっておくが俺が知っている管理官って仕事は、得体の知れない受刑者を管理する得体の知れないヤクザな仕事だったぞ」
「うっ……それは、そうかもしれませんけど……」
「というか多少不安定だろうが、罪人になるわけでもなく真面目に毎日働いてるならそれだけで十分偉いだろ」
「四十二番、あなたの自虐ネタはいつも笑っていいものか困るんですよ」
困らせるためにいってるんだ、とはさすがに口には出さなかった。
「あぁ、そうだ。今回も外出申請は……」
「しない。毎度、この確認も大変だな」
そうして俺はまたベッドに身を投げ出し、スピーカーが切れるのを待とうとした。しかし実際には、少しだけ柔らかくなった口調で、管理官の声がまた降ってきた。
「ところで個人的な質問をいいですか?」
「答える保証がなくていいなら、聞くだけは聞くぞ」
「あなたが好きな景色とか、ものとかってありますか?」
一瞬、皮肉か何かで問われているのかと本気で悩んだ。
ここ数年、俺が見たものといえば代わり映えのしないコンソールと暗い虚無ばかりだ。それは管理官も知っているはずだ。
けれど管理官はそのまま続けた。
「この歳になるとたくさんの別れがあります。死に別れでなくとも、もう永遠の別れとさほど変わりないことも多いでしょう。だから時折そのことが寂しくなるというか……誰かがそこにいたのだという証拠が欲しくなるんです」
「それで聞くことが好きな景色か?」
「誰かに花の名前を教えてもらったら、花を見るたびにその人のことを思い出すでしょう?」
ふぅん、と頷く。
孤独というのならば俺の境遇を超えるものはないだろうが、俺は最近ではすっかり誰のことも思い出さなくなった。
誰かを思い出すことで耐え忍ぶ孤独と、誰を思い出すこともなくやり過ごす孤独。どちらの方がマシなのかは、判断の付けようもない。
「そうだなぁ……」
軽く目を閉じる。
かつてのことを思い出すこともできる。まだ閉じ込められる前、地上にいた頃。けれどその頃は世界の全てが敵に見えていて、何も好きではなかった。収監されて以降はのっぺりとした壁ばかりを見ていて、昨日も今日も代わり映えのしない日々だ。
「…………」
だからそんなものはない。
そう答えようとして、しかし口をついたのは違う言葉だった。
「……跳躍刑は地上の十年を一年として過ごすって説明されることが多い。が、実際には俺は常に同じ時間の早さで過ごしているわけじゃない。長い加速期間があって、より長い航行期間があって、そして深宇宙での作業期間がある。一任務当たりのトータルで見ると、大体十倍の時差になるってだけだ」
「はい。存じています」
「だから俺は加速していく世界を眺めることができる。亜光速に至るまで宇宙船はどんどん加速していって、世界はどんどん後ろ側に流れていき……」
俺は言葉を探して、そして一番率直な表現を選んだ。
「……光っていうのは波なんだよ」
「粒子としての性質もありますが、確かに波長でもありますね」
「いいや、違う。お前はそれを口にしているだけで、体感していないんだ。地上では光というのは届くという認識よりも前に届き、満ちる間もないまま満ちるものだ。けれど亜光速の世界では、光は俺の隣を一緒に歩いている」
もう何度も見た光景が、まぶたの裏に蘇る。
「加速するにつれてあらゆる世界は歪んで、後ろから暗闇に沈んでいき、そして色が移り変わっていく。光という波が、ある方向では押しつぶされ、ある方向では引き伸ばされ、俺はその波の狭間にいるのだと体感できる」
俺は自分が間違ったことをしたのだとわかっている。だから罰を受けることに異議はなく、そこに自分の価値や楽しみを見いだそうとはしていない。
けれど、初めて宇宙の旅をしたときに、少しだけ思ってしまったのだ。
「あれは……目を見開くような体験だった」
そんなものがあるのだと、誰かに伝えてみたかった。
伝えるべき誰かはいないはずなのに、管理官が折良く質問を投げてくるものだから、つい口が滑ってしまった。
「……なるほど。それは確かに、地上では見られない景色ですね」
「いつかお前が光を波として見たら、俺のことを思い出してくれよ」
「ええ、覚えておきます。忘れません」
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
俺はベッドに寝転がったまま、天井をじっと見つめていた。
ただそれで何を見ているわけでもなかった。目は開いていたが視覚情報が頭で処理されているわけでもなく、耳も塞いでいなかったが聴覚情報も処理されていなかった。
思考はきっと現実に対応するために生まれる必然的な反応で、対応を完全に放棄してしまえば、そこにあるのは完全な無想だった。俺は一つの肉塊として、部屋の中に転がっていた。
「……あの、四十二番? 大丈夫ですか?」
俺の脳みそがようやく動き始めたのは、さらに何度か管理官が呼びかけてきて、その声に本気で心配する色が混じり始めてからだった。
のっそりと体を引き起こし、それから曖昧な口調で返事をする。
「起きてる。えっと、なんだっけか?」
「問題ありませんか? 医療班に連絡を取ることもできますが……」
「別に身体的な不調じゃないから安心しろ。俺は平気だ」
「平気な人はあんな風に動きを止めたりしませんよ。どうしたんですか?」
その質問を突っぱねることもできただろうが、俺は答えることにした。
「俺は……俺が自殺するとしたら今日だと思ってたよ」
もしかしたら管理官は目を大きく見開いたり、息をのんだりしたのかもしれない。
しかしスピーカー越しにはっきりとわかった彼女の反応は、穏やかな声だけだった。
「それは、どうしてですか?」
「昔、妹と約束したからだ」
明かりもない夜、寒さの中で身を寄せ合いながら、誰にも聞かれないように交わした言葉。もうきっと妹も忘れてしまっただろう、ささやかな約束。
「あの子は百歳のおばあちゃんになりたいっていったんだ」
それは俺たちの生まれた場所では、宇宙に飛び立つよりも荒唐無稽な言葉だった。
「あれから随分経った。俺からしても随分経ったし、世界ではもっと多くの時間が過ぎ去った。あの子が生きていたとしても、もう百歳は超えている」
「収監されてから、妹さんのその後のことは知らないんですよね?」
「あぁ、知らない。知らないが、約束の期限は過ぎた」
つまり、これで俺は本当に何もなくなった。
「だから死ぬとしたら、きっと今日だったんだ」
「けれどあなたは死んでいません」
「ああ。まぁ、なんというか……」
体の中に詰まった空っぽを吐き出すように、溜め息をついた。
「……全部今更だなって」
かつての約束が自分を生かしているのだと、俺はそう思っていた。
しかしそれは思っていただけなのだろう。
跳躍刑に最初に服した瞬間から俺は全ての人間が共有している時間から外れ、世界は高速で過ぎ去るだけの背景に成り下がった。自覚せずとも、俺は空っぽのまま生きてきた。だから自覚したからといって、それは今更死ぬ理由にはならない。
管理官はしばらく黙っていた。それは言葉をためらっているというよりも、俺に少しの猶予を与えるような沈黙だった。
そして、いった。
「あなたが次、地球に帰ってきたとき、私はこの席にいません」
その言葉は無色透明な衝撃になって俺の頭を打ったが、俺の口は自然と返事を紡いでいた。
「なんだ。ついに引退か」
「というか、寿命です。今や人がいつまで生きられるかを予想するのは簡単ですから。私はあと十年生きることはないです」
「それにしたって少し早死にって気もするが」
「最近のトレンドは生きている期間を延ばすことではなく、寿命と健康寿命を一致させることです。そういう風に人体を調整すると、大体このくらいに落ち着くんですよ」
管理官が小さく笑う。
「これをいったらあなたはもう少し動揺してくれると思っていました」
俺も笑った。
「俺もそう思っていた。でも……やっぱり今更だ」
「私はあなたにとって、何にもなれませんでしたか?」
「お前は俺がここしばらくで唯一話した相手で、こんな俺の話を唯一聞いてくれたやつだ。それでもお前と話すのはほんの短い期間で、お前はあっという間にいなくなる。お前が俺にとっての何かになるというのが、俺が孤独でなくなるという意味なら、俺はずっと孤独だった」
「世界の人権意識は変わりつつあり、今後の未来は不確かです。いつか跳躍刑はなくなり、あなたは地上で収監されるかもしれない。これはあなたにとって救いになりますか?」
「今更地上に引き戻されたところで、見知らぬ異邦の地で居心地の悪い思いをし続けるだけだろうさ。跳躍刑によってあらゆる関係性は引き裂かれて、もう戻らない。それだけだ」
「私の価値観からすると、あなたに下された刑は……あまりにも残酷すぎます。あなたはそれに納得しているんですか?」
「だから、今更どうしようもないんだっての。飲み下すしかない事実に納得もクソもあるかよ」
「あなたは……この先もずっとこんな……何百年も、こんなことを繰り返して……」
「俺の主観では精々数十年だ」
もしかしたら管理官は泣いているのだろうか。
そんなことを想像する。けれど見知らぬ管理官の顔は思い描けなかったし、他人のために泣く誰かというのも俺の人生には現れなかった登場人物だ。だからその想像は妙に浮ついて、現実のものとは思えなかった。
またしばらくして、管理官の声がした。
その声はいつもの調子だったが、だからこそ取り繕われたもののような気もした。
「それで、今日の外出申請はどうしますか? お別れですし、私の顔とか見に来ませんか?」
俺は見えているのかわからないまま、笑って首を振った。
「いや、いい。……いいよ、うん」
地上から見るのとは違った分布の星々は不安になるほどの偏りで配され、大気によって減衰しないその輝きは下品なまでにギラついている。
暗闇と光とその間を満たす膨大な虚空。
俺は宇宙に一人で漂っていた。
「本当はさ、管理官」
インカムの電源を入れていないので、俺の声は近くにある宇宙船にすら伝わらない。宇宙服の内側、一人分よりも少し大きな空間にだけ満ちて、どこにも届かずに消える。
「俺はあんたが俺への嫌がらせのために作られた合成音声か何かなんじゃないかと、少し疑っていたよ」
手足から力を抜いて、だらりと無重力に身を任せる。
いつかの何かの運動から得た慣性によって俺の体は緩やかに回転し、ゆっくりとどこかに流れていく。
「優しくしてくれる合成音声に受刑者が懐いたところで……ババーン! ドッキリ大成功! 残念でしたー! みたいなオチがあるのかと思っていたんだ」
このまま宇宙服に搭載されたスラスターを作動させなければ、慣性の法則は俺の体をどこまでも運んでくれることだろう。
「でも……それって結局、ある種の甘えだよな。俺に向けられた優しさまでもが悪意に基づいていてほしいだなんて。情けないし、自意識過剰だ」
こんな風に思うのは、管理官がただの他人ではなかったからなのだろう。
彼女は確かに俺の何かになって、しかしそれでも跳躍刑受刑者の孤独は揺るがなかった。
「あーあ、ってことはつまり、この先、ずっとこのままか」
目を閉じる。
慣性が体を運ぶ。
どこまでも流れていく。
このまま宇宙遊泳で地球に帰るというのも、魅力的なアイデアのように思えてくる。きっと果てしない時間がかかるし、その前に寿命か生命維持装置に限界がくるだろうが、無限に近い孤独と時間の末にいつかは地球に着けるだろう。
それは結局のところ自殺と変わらない。
だが問題は、その自殺と跳躍刑に服している現状に、どれほど違いがあるのだろうかという点だ。
他の受刑者が皆、甘受したのだろう死を感じる。それは単なる希死念慮というよりも、息づかいが聞こえるくらいにまで近くにいる隣人のようだった。
「…………」
だが俺は結局、目を開くとスラスターを操作した。腰の辺りから吹き出した窒素が推力となり、自分を宇宙のどこかに運ぼうとしていた慣性が消失する。
あるいは、この決断もある種の慣性か。
物理的なものではなく、心とか精神とかそういうものの。
もうずっと昔に踏み出した一歩の勢いが、今も俺をどこかに運んでいる。果てしのない孤独にいるから、その慣性がいつまでも失われない。
「……なんてな」
俺は笑って、宇宙船のエアロックに手をかけた。
「四十二番さん、戻られましたか」
天井から聞こえてきたのは若い男の声だった。約一年ぶりの地上、待機用の部屋で寝転がっていた俺は返事をしないまま天井に目を向ける。
あの管理官……というかあの元管理官は去ったらしい。それもそうか。寿命が尽きるのだと一年前、いや十年前にいっていたのだから。
「今回の外出申請についてはどうなさいますか?」
俺はベッドから身を起こして、答えた。
「あぁ、ちょっと出かける」
「えっ!?」
「いくら未来でも、まさか死人に線香をあげる文化までは廃れてないよな?」
外出申請をしたのは初めてだったが、いざ外に出ようとなると意外と面倒な手続きが多くあった。いくつもの面談、いくつもの審査、監視などに伴ういくつもの許諾。まぁ、一日とはいえ犯罪者を外に出そうというのだからそれも当然か。
そして今更知ったが、俺がいたのは宇宙港の一角であったらしい。というよりもかつて跳躍刑のために作られた施設が、受刑者の減少に伴い宇宙港としても使われるようになったという方が適切らしいが。
行動抑制と監視のために着けられた首輪を軽く撫でながら、俺は検査室を出てエレベーターを降り、ロビーへ。
時刻は未明。営業時間外のロビーは暗く、静かだ。パッと見たところで俺が地上にいた頃、もう百年近く前とそれほど変わったようには見えない。しかしそれは暗闇がディティールを隠してくれているからだろう。
がらんとした空間に、俺の足音だけが響く。
「とりあえず外出て……線香を買って……まぁ、供えるのはどこでもいいか。墓の場所を教えてもらえる気もしないし、調べる時間もないだろうから……」
俺の独り言は半端に消えていった。
ロビーに人影が一つあるのが、不意に目に入ったからだ。その女性は誰もいないベンチに一人ぽつんと、まるで次の便を待っているかのようにのんびりと座っていた。
灰色の髪は細く薄く、体にも枯れ木を思わせる老いが見える。身にまとっているフォーマルなスーツも、どことなく丈を余し気味だ。しかし背筋はきちんと伸びていて、不意にこちらへ向いた目は理知的な光を宿していた。
『なぜ』とは思ったが、『誰だ』とは思わなかった。
老女が微笑む。
「無事の地球帰還おめでとうございます、四十二番」
俺はどんな表情を浮かべたものか迷いながら、答えた。
「死んだんじゃなかったのか、管理官。どうして?」
返事よりも前に、管理官の目元の皺が濃くなった。
「亜光速サナトリウムの帰還のお話は、いつかしましたっけ。あれは地上の医療技術の発展も理由の一つですが、同時に未来への先送りに亜光速航法よりもよい方法が見つかったこともまたその理由です」
管理官はひょいと立ち上がった。見た目よりも健康そうな動き。寿命と健康寿命を一致させるのが最近のトレンド、といっていたのはもう十年も前か。
「具体的には冷凍睡眠です。まぁ、この表現は正確性を欠くので最近は使われませんが」
「……どうして?」
質問は先ほどと同じだったが、その意図は違った。
管理官はそれを汲み取って、すぐに答える。
「あなたの孤独は、罪に対する罰としては重すぎる。利益のために行われた跳躍刑は失敗でした。私がそう思ったからです。あなたは何か……ほんの僅かでも救われてしかるべきです」
「……いったろ。俺の孤独は共有できない。お前とこうして会っても、お前が何をしてくれても変わらない」
「ええ。ところで私の現状をお伝えしましょう。私は冷凍睡眠のポッドを一つ、半恒久的に使用する権利を得ました。私はいつでもそこで眠ることができ、いつでも起きてくることができる。あるいは、いつまでもと表現するべきかもしれませんが」
管理官の言葉の意味するところがわからず、俺は瞬きをする。
「あなたは十年を一年として旅をする。そして私はその十年を眠って過ごし、あなたが帰ってきた一日だけ起きてくる。わかりますか。十年を一日として過ごすんです」
つまり、と言葉が続けられた。
「あなたは世界から置き去りにされ、永遠にひとりぼっちです。しかしあなたと同じように世界から置き去りにされ、ひとりぼっちになることはできます。私たちは二人にはなれませんが、ひとりぼっちが隣同士で並ぶことはできます」
管理官はまるで少女のようにはにかんだ。
「あなたが異邦に置き去りにされて驚くとき、同じように置き去りにされた私も一緒に驚きましょう。……どうです? 少しはマシな気分になりましたか?」
返事をするよりも前から、俺の気持ちは察せられたのだろう。俺の顔を見た管理官がくすくすと笑い出す。
だから俺は咄嗟に、憎まれ口を選んだ。
「バカだな。そんなことのために老後の生活を棒に振ったのか」
「のんびりバカンスするよりも、誰かのために頑張っている方が性に合うんです」
「というか、そういう計画があるなら先にいっとけよ」
「半恒久的にポッドを占有し続けるというのは結構な大事なんですよ? ため込んでいた資産とか、私と意見を同じにする法学者への伝手とか、跳躍刑によって利益を受けた学者たちへのコネとか、色々総動員しましたし、うまくいくとは決まってなかったんです」
「で、大体十年も寝ていたのか。十年ぶりの世界はどうだった?」
「まだ見に行っていません。約百年ぶりに世界を見る人と一緒に見に行こうかと思いまして」
色んな感情を溜め息に押し込んで、俺は首を振る。
管理官が傍にいてくれたところで跳躍刑の内容に変わりはないし、孤独が癒やされるわけでもない。しかし世界に驚くとき、同じようにアホ面をしてくれる誰かが傍にいてくれるというのは、悪くない想像だった。
「……まぁ、じゃあ、そうだな」
「ええ、せっかく外出申請をしたんですし、観光にでも行きます?」
俺は頷いて歩き出そうとし、それからふと問いかけた。
「ところで、管理官。あんたの名前は?」