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#34 『夜と霧』をこれから読む方にお勧めの小説『女の一生<第二部>サチ子の場合について

おだわらさんのnoteを拝読し、ご紹介のVoicyも聴かせていただきました。


『夜と霧』は、長年の積読を経て、確か6,7年前に読了しました。名著ですので内容をご存知の方が多いかと思いますが、精神科医・心理学者である著者のヴィクトール・フランクルが、ナチスドイツによるホロコースト政策により強制収容所に送られ、その体験を戦後直後に綴った作品です。

荒木さんの放送を聴かせていただき、コチラを書くにあたり『夜と霧』についてざざっと検索すると、「人生はどんな状況でも意味がある」という表現が目に留まりました。

繰り返しで恐縮ですが、自身が読んでから数年経過しており、しかも1回通読しただけで、読中・読後の心境は記憶は殆ど残っていませんが、恐らく、「窮地で生き抜くにはポジティブシンキングでしょ」的な事を思ったような気がします。読み解く力量の違いと言ってしまえばそれまでですが、どちらかと言うと性格的に「生きる意味」のような事は考えなかった気がします。寧ろ「どうやったら生き残れるか」の方に気持ちを向けた気がします。

今回、noteを書こうと思い立ったのは、荒木さんのVoicyを聴き、『夜と霧』を読む前に、遠藤周作の『女の一生<二部>サチ子の場合』を読んでみてはどうかな?と思ったからです。

マーティン・スコセッシ監督作品『沈黙ーサイレンスー』の原作『沈黙』をお読みになられた方は多いことと思いますが、『女の一生』は如何でしょうか?

『<一部>キクの場合』は、幕末の長崎で、隠れ切支丹の男性に恋する少女キクの悲恋が、『<二部>サチ子の場合』は時代は昭和に移り、キクの従妹ミツの孫サチ子とキリスト教徒でありながら特攻隊員として招集される青年との悲恋が描かれています。

勿論、恋愛だけではなく、様々な人間模様が幾重にも重なった作品ですが、<二部サチ子の場合>に登場するコルベ神父の生き様が、とても印象に残りました。

実在のマキシミリアノ・コルベ神父を、わたしは本作を通じて知りました。ポーランドから布教活動のために来日した長崎でサチ子と出会います。そのコルベ神父は清貧すぎて(?)結核に罹患し体調が思わしく無いものの、熱心に布教活動をし、再びポーランドへ帰国。そこでも活動を続けることで、ユダヤ人では無いものの、強制収容所に収監され、餓死室行きが決まった男性の身代わりとして、なんと名乗りを挙げたのです。

わたしの要約では何も伝える事はできませんが、遠藤周作氏の巧みな筆致で書き込まれた文章を読み、その時には色々と思いを巡らせましたが、どんな事を思ったは忘却の彼方です。

冒頭に書いた内容と重複しますが、安全な環境で『夜と霧』を読むと、考え込んでしまうこともあるかもしれません。戦争や病気など死を間近に意識する状況に置かれれば、自ずと何が何でも生きたい、と思ってしまうし、生きるためにどうするかに邁進することになるから、逆に行動を止められないかもね、と思っています。

コルベ神父の行動は、自ら死を選択しているようでいて生き方を選んでいる、と私は思います。これを書きながら、『石狩峠』の永野伸夫が思い浮かびました。

どの様な状況に置かれても、コルベ神父や永野伸夫の様な行動をわたしは取ることが出来ませんが、悩まず、前向きに考えて行動することを選んでいきたいと思います。

これを機に、『女の一生 サチ子の場合』を読んでみようかな、思って下さった方には、<一部キクの場合>も是非。

尚、コルベ神父を間近で体感したいと思い、神父が礎を築いた長崎の修道院を訪れました。その時の画像を2枚ご紹介します。

最後に、遠藤作品で心の準備を整えてから、『夜と霧』に入っては?と考えての、こちらのnoteですが、わたしの紹介する作品は「暗い」と言われる事が多いので、他の方のレビュー等をご参考にされる事も併せてお伝えいたします。

以上です。



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