『暇と退屈の倫理学』を読んで: どのように「浪費」へと向かうべきか。

所感

先日國分功一郎 氏の『暇と退屈の倫理学』を読み終えた。
本書の内容は、超ざっくりまとめると以下のようなものである。
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日常の中に潜む、よく分からないぼんやりとした、しかしどうにも深刻であるように思える「退屈」というものに対し、まず「退屈とはそもそも何か」「退屈とどう向き合うべきか」という問いを立てる。
そして、人類史、社会学(「消費社会」との関係)、哲学などのさまざまな分野を横断することで解像度を高めていき、哲学者達の退屈に対する議論を批判的に検討しながら持論へと展開していく。そして最後に、立てた問いに対する筆者なりの答えを提示する。
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まず「哲学という営みとはこんなにも面白いものなのか」と率直に感じた。膨大な知識を元に、分野横断的に議論・批判を進めてくださった筆者に感謝の極みである。知のおこぼれをありがたくいただきました…。

さて、この中でも、「現代の消費社会は、人々の退屈につけ入り、暇を搾取している」といった問題提起は特に納得してしまうものがあった。一見大したことのないように思える「退屈」が、現代の資本主義が生み出す搾取構造にねっとり絡みついていたのだ。そして、「消費ではなく浪費せよ」といった筆者の結論にも唸らされた。
この点に関して、氏の提示する結論を元に自分で考えたことを整理しておこうと思う。

※ 以下では、『暇と退屈の倫理学』に登場した概念を用いて論を展開していきます。まだ読んでない方、すみません。

自分なりの結論

1. 浪費と消費の違いに自覚的であれ

筆者によれば、

  • 浪費: 必要を超えてものを受け取ること。満足や楽しみをもたらし、生活を豊かにしてくれる。必要を超えて受け取るため、どこかでストップする。

    • ex. 贅沢なフランス料理を食べる。出てくる料理の順番、皿に対する料理の面積の小ささ、絶妙なドレッシング、などを楽しむ

  • 消費: ものではなく観念を受け取る行為。消費する時、人間はものを受け取るのではなく、記号や観念を受け取っている。広告などによって消費への欲望が駆り立てられている。本来性 (人間は〇〇を楽しむべきだ、といったように、本来の人間の在り方を規定してしまう考え方) への脅迫観念とも絡みついている。 観念の受け取りなので、ストップすることがない。

    • ex1. 「グルメブーム」において、テレビや雑誌でこの店が美味しいなどと宣伝される。この中で、消費者が受け取るのは、食事ではなく、店に付与された観念や意味である。

    • ex2. 広告は消費者の「個性」を煽り、消費者は「個性的」でなければならないという強迫観念を抱く。(この「個性」が何なのかは誰にも分からないのに)

といったように、浪費と消費は明確に区別される。そして、筆者は「消費」ではなく「浪費」をしろ、観念ではなくもの自体を受け取るようになるべきだ、といった結論を提示している。
僕もこの結論自体には賛同する。ただし、一点気をつけなければいけない点があるように思う。それは、消費か浪費かに関わらず、出力される行動は同じになってしまう、という点である。
例えば、食事をしている時に、本人が食事自体を楽しんでいる (=浪費) のか、「いい食事を食べた方が素敵だ」という観念を追い求めている (= 消費) のか、外から見れば区別がつかない。出力される行動はどちらの場合も「食事をする」になるからだ。
そして、出力が同じであるということは、外にその判断を任せることは出来ない、ということを意味する。自分自身で、消費と浪費の違いに自覚的になり、「浪費」をしようと心がけるほかないのである。そのために、判断軸を自分で持てるようになることが肝要であろう。

2. 消費から始まることを恐れない

筆者は「ものを楽しみ、思考しろ」と言うが、それと同時に、楽しむには訓練が必要であると述べている。
ということは、何か新しいものに触れる時、最初から「浪費」をするのは難しいということが言えないだろうか?
例えば車であればどうだろうか。最初から「車の駆動部分の仕組みが面白すぎる」みたいに車そのものを楽しむ目的で車を買う人がどれだけいるだろうか。最初は「車を自分で持つ人はかっこいい」といった観念の消費によって車を購入した、という人も多いのではないだろうか。(もちろんそうでない人も多くいることは承知しているが、議論を進めるため一旦安易に括ることを了承いただきたい。)
しかし、これをきっかけとして車というもの自体を楽しみ自分の血肉にしていくことが出来るようになる、といったケースもままある。自分の意識次第でいつでも浪費・贅沢へと向かうことが出来るのだ。
つまり、逆説的であるが、浪費にたどりつくためには、消費を恐れすぎてはいけない、ということが言えるのではないだろうか。

自分の中に豊かな環世界を創造するためには、好きなものについて思考を深めていくだけでなく、新しいものに触れ、刺激を受け、深めていくための端緒をつかむことも重要であろう。よく分からない状態で飛び込んでいく勇気、消費のまま終わるかもしれないリスクを抱えて飛び込む勇気も大事なのだ。
(少しずれるが、新しい場所に飛び込むために:
人が持っている環世界にたくさん触れ、もの毎の楽しみを垣間見させてもらうことが重要であるように思う。好きなものや考えていることについて人と話したり本を読んだりすることが、新たな環世界を創造するためのきっかけになってくれるのではなかろうか。)

3. 選びとることの重要性

筆者は「第一段階=第三段階の退屈に陥った際に、安易に決断の奴隷になるな」という意見を提示している。
たしかに決断の必要性を最初から決めつけて周囲から自分を断絶してしまうのは良くない。ただし、ここで間違ってはいけないのは、決断自体をするなという主張を筆者がしている訳ではない、ということだ。

ここで思い出されるのが、「これは水です。」のスピーチと、それに対する塩さんの記事である。

「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。

『これは水です。』のスピーチより

唯一無二のシンジツとは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。

『これは水です。』のスピーチより

どの山に登るのかを、自分で選び、自分で抽出することもまた重要なのである。決断することの奴隷にも、決断しないことの奴隷にもなってはいけないのだ。
2節で話したように、知らないところへ飛び込むのは自分の環世界を広げ再創造していく上で重要だが、一方でどこへ飛び込むかを決断しないまま全てに飛び込もうとすると、いつまでも消費のループから抜け出すことは出来ない。
ある程度「選び取る」という決断をしなければならない。
(そのために教養をつけるのだ、という「これは水です。」と塩さんの記事内での話も非常に面白いのだが、この記事の本筋からははずれてしまうので、また別の機会に詳しく触れるかもしれない。)

4. 結局バランスじゃない?/ あえて自分の判断軸から外れる

ぐだぐだ話していたが、結局どうすればいいのか?
面白くない結論になってしまうが、バランスの問題であると私は結論づける。
安易に決断しすぎるのは良くない。自分の中に判断軸を持たなければいけない。選びとる決断をする必要がある。
しかし、自分の判断軸だけに頼っていると、新しい概念や人々に出会うことが出来なくなってしまい、新しい環世界を創造できず「退屈」に陥ってしまう。そのため、自分の判断軸とはズレた全然知らない世界に飛び込んでみることもまた必要である。
この、「自分の嗅覚に正直になる」と「嗅覚が反応しないところに飛び込む」のバランスを意識的に取り、自分の責任で選び取っていくことが、自分の環世界を豊かにしていくための私なりの答えである。

最後に

恐らく私と全然違うことを考えた人も沢山いるだろうと思われる。ぜひ意見を聞かせていただきたい。
いっぱい本読みたいね。






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