ブラックパンサーを見て燃え尽きた男の禊

こんばんは。
先日、ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーを見て以降、何も考えられない幼稚園児になり、頭の中ではエムバクの「ク↑クル↓カン↑」が鳴り止まなくなったので、禊のために文章を書きます。

ネタバレの話も若干あるかもなので、これから見る予定の人は見ないほうがいいかもです。見る予定がない人は、見る予定を立ててください。

僕は普段、映画を見終わった直後には「面白かった!」とすぐに大声で言わず、ブツブツボソボソ喋りながら頭の中で色々とを整理して「うん、やっぱり面白かったよね!」と自分の中で納得するタイプなのですが、今作は見終わってすぐに「面白かったナア!」と大声で言える作品だったと思います。

トップガンマーヴェリックも面白かったですが、その時にもここまですぐには面白い!とならなかった気がします。マーベル好きだからでしょと言われてしまうと、ぐうの音しか出ないのですが、やっぱりマーベル映画の中にも強弱はあって、今作は文句なしに僕の中でトップクラスに入る面白さでした。

ではなんでそんなに「面白い!」と思ったのか。

まず、メッセージ性が強いのにもかかわらず、ちゃんと面白いヒーロー映画になっているから、死ぬほど見やすいんです。
(反論も受けるだろうなと思って書きますが、)今の世の中って、万人に優しくて、万人に生きにくい世界になってると思っています。
それはやっぱり映画の中にもあって、マイノリティを尊重しルッキズムを排除することが求められてるのかなと感じることもあります。悪いことではないし、芸術として、人に伝えることが目的である映画が、時代の需要というものに応えていくことは然るべきだと思います。
けどやっぱりそのバランスって難しいんです。マイノリティの主張という、非常にアクの強い要素を入れると、映画という料理がどうしてもそっちに引っ張られてしまう。
エターナルズはあれほど美しく神話世界を描き出していて、壮大な物語の序章にワクワクしているのに、どうしてもマイノリティ欲張りセットが頭をチラつくんです。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーはその点がめちゃくちゃうまい。
ブラックとメソアメリカという、白人によって虐げられてきた被差別人種の伝統、反植民地主義、というゴリゴリの政治的メッセージを描きつつも、上手く地上と海底の対立と置き換え、白人を絶対悪として描きすぎずに2項対立に落とし込む塩梅も、見ていてスッと入ってくるんです。
ロス捜査官という、本来であれば対立の媒をする役割であろう白人キャラにもあまり役割を与えず、最後に逮捕されてるところを助けられるいるというシーンも皮肉が効いていたりして。
それでいて、雄大なワカンダの大地を描き出す映像美は、近年のドラマ展開が多いフェーズ4の中では圧倒的なものでした。もちろん戦闘シーンも文句なし。あとネイモアのパタパタもかわいい。
こうやって、政治的なメッセージを上手く扱いながら、本来の映画としての面白さを覆い隠すことがなかったからこそ、何重にも面白い作品になりえたのだと思います。

では、そうして伝えたかった映画本来のテーマとは何なのか。
まず想起するのは、「継承」だと思います。

ティ・チャラ役のチャドウィック・ボーズマンが亡くなっているという、メタ的ではあるが大きすぎる喪失の中で、やはりどうしてもこのテーマは避けられません。
もちろん物語の中でも、代々継承されていく力であるブラックパンサーの力を、ティ・チャラから誰がどう引き継ぐのか、という部分がメインテーマだったと思います。
正しい継承とは何なのか、先人たちの後をなぞることだけが本当に継承なのか、変わりゆく世界とどう向き合うのか、この辺りは前作ブラックパンサーからも引き続き重要なテーマになっています。
代々隠れることでその文化を守ってきたワカンダを変えたティ・チャラはもういない。世界から狙われる立場になった中で、強い姿勢を誇示し続けたラモンダ。そして、シュリはどのような守護者となるべきなのか。
そして今作にはさらにタロカン人にもフォーカスが当てられます。今まで自分たちだけがヴィブラニウムと伝統を継承して、守ってきたと思っていたワカンダ人にとってネイモア率いる第三世界のタロカン人は衝撃だったでしょう。彼らも美しい世界を同じように守って紡いできたのですから。
だからこそ譲れない、継承されてきた伝統的な民族としての誇り同士のぶつかり合いには、それぞれの正義が垣間見えて、苦しかったです。

そして、もう一つの大きなテーマを僕は「選択」だと思っています。
シュリは元々前作から伝統に反発して科学のプロフェッショナルとしてワカンダに貢献しています。古きを嫌い、新しさを求める。等身大の女の子でもあります。
しかし、前作では伝統を重んじる高潔な兄を慕い、科学の道からそれを補佐するという選択をしていた彼女は、今作では家族の王族を全員失うことにより伝統の道を選択せざるを得ない立場に急に放り込まれました。
誰もいなくなった時に選択を求められ、一度は理解の道を歩もうとしたネイモアを討つことを選びます。もちろん、そのような状況をもたらした張本人であるネイモアも、タロカンを思い選択した果ての行動でした。
シュリは根本の部分ではキルモンガーと変わらない思想を持つことを突きつけられ、兄が進まなかった復讐という修羅の道を進みかけながらも、最後は自らの意思でネイモアを生かすという「選択」をします。
自分が何者なのかを示す、ブラックパンサーとしての選択はとても強く美しいものでした。

つまりブラックパンサーは、黒人が主役だからでも、マーベルの看板があるからでも、主役が亡くなったからでもなく、映画としてメッセージとして純粋に心を打つものだったと思います。

彼らの対立に一区切りがついたとはいえ、彼らの世界では根本の人種や民族での対立は終わってなくて、あくまで今作はその一幕であり、今後もシュリたちは様々な問題に巻き込まれていくのでしょう。さらにエンドゲームを超える壮大な世界の危機が起こることは言うまでもないでしょう。
でも、彼女であれば兄から"継承"した力を正しく"選択"できると思います。

思えば日常なんて選択の連続です。朝起きることも、会社に行くことも、強制されてるようで自分で選んでいます。
どれも優劣ない、気高き選択なんです。
皆朝起きれてえらい!起きないという選択もえらい!

明日はちょっといつもと違う道を選んでみたり。
そんな小さな選択も楽しめるように生きていきたいと思ったり。
ラジバンダリ。

今もこの広い世界の、どこかでひっそりと隠れて僕たちを見守っているであろう、雄大で美しいワカンダの大地に思いを馳せて。


この記事が参加している募集

#映画感想文

68,724件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?