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地盤は悪夢を知っていた -地盤に残る地震痕跡-

9/25更新:本書に関連した講習会をzoomで開催します
(申込みは下記リンク参照、申込締切10/11)
8/3更新:土木学会刊行物販売サイトで販売を開始しました

土木学会事務局です。

土木学会には、土木工学の調査研究活動を行う組織として、29の調査研究委員会があります。
そのうちの一つである地震工学委員会は、「地震に対して安全な社会をつくるための調査・研究活動を行う委員会」として主に以下の活動を行っています。

社会基盤施設の耐震基準など基本的事項の調査・研究
地震災害発生時の対応、調査および情報の収集と公開
地震動の観測記録および地盤情報など地震工学に関するデータの収集と公開
国内外の地震工学に関する活動状況の収集と公開

この活動のひとつとして、地盤に残る地震痕跡のデータを集約し、これに科学的な判断を加え、不明なところは不明のままとして、多くの方々に地震痕跡の情報を公開することを目的に、「地形に残された地震痕跡データの集約と活用に関する研究小委員会」(2015~2016年度)「地盤と地形に刻まれた地震・災害痕跡データの公開促進小委員会」(2017~2018年度)が、集約・議論を行ってきました。

この活動で得られた成果を「地盤に残る痕跡」として、広く多くの方に知っていただけるよう「地盤は悪夢を知っていた -地盤に残る地震痕跡-」という本を刊行することになりました。

本書では、地震の起こった年代を過去にさかのぼりながら、百人一首などの歴史的な内容から最新鋭のリモートセンシング技術で得られた情報まで至る幅広いデータを用いて、地震痕跡にまつわるエピソードの科学的な謎解きを試みています。身近な地盤や地形の成り立ちとそこに残された地震痕跡、それらが物語る警告ばかりでなく私たちが享受してきた恩恵にも思いを巡らせながら、身の回りの防災を考えることができます。

7月31日の刊行を前に、本書の内容の一部を紹介いたします。

まえがきより(抜粋)

本書のタイトルは河川工学の権威、高橋裕先生の著書『川と国土の危機』(岩波新書、二〇一二年)の一節「地図は悪夢を知っていた」をもじったものです。この「地図は悪夢を知っていた」は、伊勢湾台風と同年の一九二六年十月十一日の『中日新聞』の見出しでした。その記事は、伊勢湾台風による水害地域が、浸水深まで含めて事前に詳細に濃尾平野の水害地系分類図によって予測されていたにもかかわらず、役所の引き出しにしまい込まれたまま防災計画に役立てられなかったことを暴くものでした。およそ一世紀も前のこのできごとは、市井の人々ばかりではなく、自然災害対応や防災に関わる専門家ですら、過去の災害の教訓を伝えていくことが容易でないことを象徴しているように思われるのです。
冒頭にも述べたように、過去の災害の教訓を的確に、正確に伝えることは、専門家の間ですら容易ではありません。明治以降の多くの地震災害の報告書類のページをめくると、撮影された写真の日時や場所すら記載されていないものも多いのです。地名が書かれたものもその多くは旧地名で地番はおろか字(あざ)の記載さえなく、旧版地図や当時の地籍地図などにその名を見つけても撮影場所の特定には至りません。当時の人々の間では鮮明だった記憶も、伝承されないまま忘れられてしまうことも少なくないのです。
一方で、地盤を構成する土は磁気記憶装置のような履歴材料であり、過去の災禍を記録している記憶媒体とみることができます。粘土をこねるように、与えた変形を記憶するのです。そして昨今のリモートセンシング技術は、草木に厚く覆われる急傾斜地でさえ、樹冠や茂みの下に隠れる地盤上の地震痕跡をつぶさに見ることを可能にしています。これらの地震痕跡を科学的に分析すれば、身の周りの土地で起こり得る災害のリスクばかりでなく、その土地がもたらす日常の恩恵にも思い至るのです。

目次

本書の目次はつぎのとおりです。
各章でリンクが設定されているものは、当該地震に関する地震工学委員会地震被害調査小委員会HP・土木学会社会支援部門HPにリンクしています。(本書の内容ではありません)

まえがき
凡例
第一章 地震災害痕跡は多くを物語る
第二章 二〇一八年北海道胆振東部地震
 -火山砕屑物に覆われた大地に残る地震痕跡-
第三章 二〇一六年熊本地震
 -火山砕屑物に覆われた大地と断層
第四章 二〇一一年東日本大震災(その一)
 -東京湾岸の液状化痕跡-
第五章 二〇一一年東日本大震災(その二)
 -津波で根こそぎ引き抜かれたビル
第六章 二〇〇七年中越沖地震
 -給料の縁辺部で生じた地盤変形-
第七章 二〇〇四年中越地震
 -活褶曲地形と地震
第八章 二〇〇〇年鳥取県西部地震
 -身近な災害痕跡を読み解く知恵-
第九章 一九四八年福井地震
 -九頭竜と河川堤防-
第十章 一八四七年善光寺地震、一九二三年関東大震災
 -土石流の脅威-
あとがき
付録

本文より

本文より、「第十章 一八四七年善光寺地震、一九二三年関東大震災-土石流の脅威-」から、善光寺地震の痕跡地形についての部分を抜粋して紹介します。

江戸時代後期、弘化四年三月二十四日(一八四七年五月八日)、信州(現長野県)の善光寺平を震源とする逆断層型の直下型地震が発生しました。この地震で岩倉山(虚空蔵山)斜面が崩落し、現在の国道一九号水篠橋付近の犀川を塞ぐ高さ六五メートルもの土砂ダムになりました。そしてその背後に、三・五億立方メートルもの水を湛える巨大な堰止め湖が出現したのです。土砂ダムでは、閉塞から十六日後に越流開始。堤体は三日をかけて次第に浸食され、地震から一九日後の弘化四年四月十三日(一八四七年五月二十七日)の夕方、ついに決壊に至ります。土石流と化した水は犀川と千曲川の合流点の川中島まで押し寄せ、三一の村々を押し流しました。真田藩では、土砂ダムの様子を二か所の監視小屋から監視し続け、決壊の発生をいち早く、狼煙台を用いて小松原普請本陣に伝えます。そして陣鉦と半鐘により住民に伝達したため、住民の避難が早く、犠牲者は少なかったとされています。
時の藩主真田幸貫は地震の二年後、嘉永二年(一八四九年)に三度にわたり領内の巡検を行います。この折に随行したお抱え絵師青木雪卿の描いた六七枚に及ぶ絵図が、真田宝物館に収蔵されています。許可を得て撮影させていただいた絵図の中に、岩倉山のスケッチが残されています。スケッチが写真のように詳細なので、この絵を描いたと思われる箇所を今もたどることができます。さらにライダーを用いて、崩壊地形痕跡の詳細を確認することもできるのです。
土石流が厄介なのは、その速度が著しく大きく、一気に下流に流れ下ることです。流れの速さは条件によって異なりますが、時速二〇~四〇キロメートルの高速で人家や田畑を次々に飲み込んでいきます。近代的な警報施設のなかった江戸時代に、真田藩が危険個所を特定し、狼煙による迅速な情報伝達を行ったことが、いかに優れた知恵であったかを思うのです。

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紹介動画を制作しました

本書を紹介する動画を土木学会tvで公開しています。あわせてご覧下さい。

防災関係に携われている研究者、技術者、関係者の方々はもとより、身の回りの防災に対して関心をお持ちの方にも是非お薦めしたい必読の一冊です。

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8月2日(月)より土木学会刊行物販売サイトよりお求めいただけます。

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