見出し画像

パウンドケーキ



「明日は休息日やから、パウンドケーキ焼こうと思って。」


 土曜日の出勤を終えた母は、小麦粉、バター、卵、ナッツとドライミックスベリーを買って来て、そう言った。この一週間、体を整えるためにお菓子を控えていた母は、日曜日を休息日と名付け、お菓子を食べてゆっくりする日と決めているらしい。私はなにも予定がなかったので、休息日にあやかって、パウンドケーキが食べれらることを嬉しく思った。
 休息日の当日、朝から野菜やお昼の買い出しをしに、と、出かけて行った母は、しばらくして、小さいピンクの薔薇の花と、名前も知らない葉の茂った枝物と、それから買い出しの袋を抱えて帰って来た。買い出しの袋の中には『無窮』という大吟醸の300mlの瓶も入っていた。

 今日は「父の日」だという。私は、「母の日」や「父の日」のような商人たちのイベントで両親に感謝したりするのは気がひけるから、そういう行事には目もくれないが、そういったことはとくに気に留めず、自適に楽しんでいる母は、どこか憎めない。現に、ピンクの薔薇たちと、少し仏教的な感じがする緑の枝葉がいけられた窓辺は、前より一層素敵になったのだし……音楽家の父、文筆をする私、という取り扱いの面倒な二人を支えてくれているのは、いつも母で、一番よわいように見えて、実は一番つよい人である。
 昼食を済ませたあと、母は父に薦められた本を少し読んで、休息日のパウンドケーキは食べず、うとうとと昼寝をしてしまった。

 ケーキは、丸い型の中でドームのように膨らみ、表面とその中に、ナッツやベリーがころころと入っていた。それを一切、切り分けながら、私はちょうど一年前に亡くなった祖父(母の父)のことを思い出した。というのも、祖父は山登りが好きで山の本をたくさん持っており、私がまだ小学生ごろだったか、こまちゃんこれは勉強になると思うから読んでごらん、と「昭和新山」という小さな冊子をもらっていた。このパウンドケーキが、ちょうどその冊子の表紙の、あまり安らかでない山肌と山の形とに、そっくりだった。
 史跡や庭園など、私が小さな頃から各地に連れて行ってくれた祖父とは、私の大学進学のことで分かり合えず、ついに相容れぬまま、祖父は亡くなった。私と祖父との間で、母は、なんとか私のことを理解してもらえるように努めてくれていた。

 そんなことを、ポツリポツリと思い出しながら、私は切り分けたケーキを、一口、また一口と口に含む。ケーキはやさしい味がして、時々、甘酸っぱいベリーに口がきゅっと窄む。小薔薇は夏の匂いがする風に吹かれて、それぞれに、たのしそうに揺れている。穏やかな休息日。日が傾いて、夕方の光が窓辺を包みこむ。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?