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第十一回 『能』

京都芸術大学 2023年度 公開連続講座


第十一回 「能」

第十一回は「能」、講師は同大学で能楽の研究をされている天野文雄先生でした。講義の副題は、”能に「草木の精」がシテ(仕手、為手、主役のこと)として登場するのはなぜか”とあり、天野先生は仏教の「草木国土悉皆成仏」の思想がその背景にあるとして解説されました。

能の始まりは、遠く奈良時代の散楽、とされていますが、これは、世阿弥の言うように「あるいは佛在所より起こり、あるいは神代より伝わるといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力及び難」いもので、能楽師にも、能の学者にも本当の「始まり」はわからないのではないかと思います。奈良時代よりも前から、散楽のようなものがあってもおかしくはありません。
おそらく、「草木の精」についても、「草木国土悉皆成仏」の仏教思想に始まると言うより、この思想をなんら抵抗なく受け入れることができた、自然な信仰心、山や川、草花、自然界の全てに「精」が宿ることを見た古い思想が、仏教思想のさらに後ろにあるのではないかと思いました。
散(申)楽や能に限らず、古くから続く芸能は、仏教や神道に限らず古来の精神性をも姿として表しています。

講義で取り上げられた演目、「杜若」は杜若の精が登場する物語です。この演目は、小津安二郎監督作品「晩春」のワンシーンにも用いられているようです。映画に出てくるのは「杜若」の一部「恋之舞」という一節で、能の名手、梅若万三郎さんが舞を舞われています。

以前、そのようなことを知らずに「晩春」を鑑賞しましたが、講義であらためて能楽堂のシーンを見て、主人公の紀子が父の再婚話を頭に巡らせて思い悩む様子が、お囃子の盛り上がりや、なんとも言えない奇妙な濃い空気感とひとつ混ざり合っているように感じました。
能が行われる様を撮影し、それを鑑賞する父娘を撮影しているだけなのに、なぜか能楽堂の気配が実感を持って伝わってくる。小津氏はカメラと俳優との距離や小物の色、配置、俳優の目配せの角度など細かい部分にこだわって作品を作った監督と言われており、この「杜若」も映画の作品と響き合うところを感じられて選ばれたのではないかと思います。

白洲正子さんは『世阿弥』のなかで、
「世阿弥の偉さは、たとえば仏教を理解したことではなく、仏の教えの中に、自分の芸が自ずと合致することに気がつくとともに、それを方便として用いたこと」と記されています。まさに、小津安二郎氏は能に自身の作品との合致を見つけ、それを方便として用いたと言えそうです。

講義では、草木の精が登場する演目の解説資料を沢山いただきました。「杜若」「芭蕉」「西行桜」「藤」「遊行柳」「六浦」「墨染桜」「薄」「梅」、など、など。

講義は「杜若」の作品解説が主でしたが、お能を実際には見たことがない私にとって、曲目の主題や傾向と言ったお話は、少々遠い存在であるように感じました。が、家に帰って資料の中の詞章を眺めていると、旅僧と里女(のち杜若の精)が杜若の咲き誇る橋で話をしている景色が、能独特の古い色彩を伴って頭に浮かびました。あまりしっかりした詳細を知らずとも、実は、あらすじや少しの手引きがあれば、能は鑑賞できるのではないかと思います。
難しくなっているのは、のちに生きる私たちがいろいろな考え方を組み上げてきたからなのかもしれません。

最も簡素な「能」に立ち返って観劇するうち、その芸が持つ思想や姿が少しずつはっきりしてくる。あらゆるものにたくさんの情報や解説がある今だからこそ、お能のような素朴な芸能が輝きを増してくるのではないでしょうか。

私は、「お能を見る」という、ただ、それだけのことからはじめてみたいと思います。


さすがにこの杜若は
名におふ花の名所などころなれば
色もひとしほ濃紫の
なべての花のゆかりとも
思いなづらへたまはずして
とりわき眺めたまへかし......

杜若


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