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【JMT#0】畏怖

山の世界には43歳の壁と呼ばれるものがある。

植村直己、星野道夫、長谷川恒男、谷口けい…。

多くの著名な日本人の登山家・冒険家が43歳で命を落としている。

僕は今23歳。

山の世界の区切りの年まで、ちょうどあと20年が残されていることになる。

そんな節目の年に、僕はアメリカのジョン・ミューア・トレイルへと向かう。


日本を発つ日が刻々と近づいている。

約1年前に決心したこの山行が、果たして自分に相応のものなのか。

日々その疑いの念が強まっていく。


ジョン・ミューア・トレイル(JMT)は、ヨセミテ国立公園からアメリカ本土最高峰のMt. Whitney(4421m)を結ぶ、約340キロのロングトレイルである。

シエラネバダを愛し、アメリカの自然保護の父と呼ばれるジョン・ミューアの名前を冠したこのトレイルは、1938年のマザーパス周辺の整備によって完成したとされる。

しかし、この道はネイティブ・アメリカンによって数百年以上交易のために使用されてきており、人々の道を意味するNüümü Poyoという名でも呼ばれてきた。

ネイティブ・アメリカンに対する追放と剥奪の歴史も、この土地には刻まれているのだが、多くのハイカーはこの文脈を意識することはないのだろう。


去年の夏、スウェーデンとアイスランドのロングトレイルを歩いたのち、僕はJMTを歩くことを決意した。

そもそも1年間スイスで日帰りハイクを続けた後に、より長期的に自然に浸りたいと思いテント泊を始めた。

ヨーロッパにいるからこそできることは何か考えた時に、週末だけではなくもう少し長期的な山行をしたいと思った中で見つけたのがロングトレイルの世界だった。

長期的に山に入ることで、自分が自然に溶けていく感覚。

日常と非日常が逆転し、山々を歩き続けることが当たり前になっていく生活。

1週間のトレイル生活では物足りなくなって、もっと深く、もっと長く歩いてみたくなったから、世界で最も有名なロングトレイルの一つであり、踏破に2~3週間を要するこのトレイルを目指すことにしたのだった。


憧れの地であるシエラネバダを前に、僕はただただ恐怖と不安に包まれている。

自分は合計約400キロを歩き切る体力があるのか。

一人で歩くための情報を集めきれているのか。

食糧計画や暑さ・寒さ対策は十分にできているのか。

不安の種を挙げればキリがない。

おまけに、数年ぶりに東京の夏を体験して、東京にいる間はほぼ引きこもり状態になっているから、余計に体力と暑さの面に恐怖を感じている。


5月までは関東の低山に行ったり、近所を走ったりしていたのだけれど、そこから暑さと左足の違和感から、運動からしばらく離れていた。

久しぶりに山に行ったのが、関わっている信飛トレイル関係で行った7月中旬の乗鞍だった。

東京の暑さにバテていた頃に、1500メートルの高地に1週間いられたのはまず良かった。

山から離れすぎていてJMTを歩く実感がほとんど0になっていた中で、今年のJMTを歩いた人たちに会えたのは、自分を現実に少し引き戻してくれたように感じる。

大学の学期末で忙しかった7月を終えて、8月に入ってから1週間東京を離れた。

南会津の伊南で3日間、乗鞍で3日間、そして涸沢カールに2日間。

約1年ぶりにテントで泊まって、少しずつ山の感覚が自分の中に戻ってくるのを感じた。

7月27日に平出和也さんと中島健郎さんがK2の西壁で滑落してからというもの、何か自分の中にざわついたものが住みついている感覚がある。

特に30日に救助活動が打ち切られるまで、自分の頭が正常に働いていなかった。

2人にはお会いしたこともないし、JMTなんて普通人が死ぬような場所ではない。

それでも山と死というものが自分の頭の中で一気に距離を縮めているのを感じた。

世界的クライマーと初心者の自分を重ねるなんて馬鹿げているのだけれど、恐怖が少し増幅された。


涸沢カールの山行は前日の夜行くことを決めた。

パソコンを持っているくらいだったから、最初は小梨平や徳沢、横尾あたりまでにしておこうと思っていたけれど、まだ北アルプスをしっかり歩いたこともなかったし、JMTに今の状態でいきなり行くのも怖かったから、涸沢までは頑張ろうと決めた。

昼過ぎに涸沢のテント場についてから、ピークまで上がるか迷い始めた。

今ちょっと休憩してピークへのピストンをするか、翌日の早朝にするか。

はたまた翌日全ての荷物を持って、ザイテングラート、重太郎新道経由で上高地まで降りるか。

少し風が強くなっていたから、とりあえず午後のピストンの選択肢を消した後、考え続けていた時に長野県警の救助隊の人と話した。

客観的な視点から、あなたであれば重太郎新道を通って降りても大丈夫じゃないか、と意見をもらったけれど、悩んだ末に日本の山を知らない人が最初に行く道ではないと感じ、JMT最後のMt. Whitneyへのアタックをイメージしながら、早朝の奥穂高岳へのピストンのみをすることにした。


翌朝、風でテントがばたつき始めた音で、午前2時には目が覚めた。

テントから外に出ると、上には満点の星空が、眼下には発達し始めた雲海があった。

雑音のない環境で自然と自分の中からも雑念が取り除かれる。

元々3時から歩き始めようと思っていたから、結局1時間ほど星空撮影をしていた。

午前3時。

涸沢ヒュッテ側からザイテングラートに上がる道にはまだ誰もいなかったけれど、アタックザックに最低限の荷物を詰めて、一人上を目指し始めた。

冷気によって冴えた頭とヘッドライトの灯りを頼りに、登山道に書かれた白い丸を探しながら岩場を登っていく。

涸沢小屋からの合流地点近くで、一人の男性が佇んでいた。

「おはようございます。ザイテンへの道ってこの辺だと思うんですけど、どこですかね…?」

手元のGPSを見ながらもう少し上じゃないか、と僕が言うと簡単に道が見つかった。

「ありがとうございます」

そう言うと、彼は慎重に登山道の目印を探りながら、ゆっくりと登っていった。

頭にはヘルメット、足にはスポルティバのハイカットの登山靴。

ヘッドライトとローカットのトレランシューズのみでいることに少し怖くなった。

40代ほどのこの男性を追いながら、自分でも登山道の目印を探しながら上に向かっていく。


険しいザイテングラートの道に入ってから、果たして自分はここにいていいのか、さらに不安が募った。

そう思いながらも鎖場や鉄梯子を通過していく。

心に迷いを抱えながら登っていたから、もう前の男性は見えないところまで進んでいた。

「大丈夫。自分なら登れる」

そう呟きながら登っていたけれど、その言葉が自分の確かな自信なのか、クライマーズ・ハイによる麻痺した感覚なのか、分からなくなった。

そうこうしているうちに、後ろの空では雲海から朝日が顔を出し始めた。

足元を照らす自分のヘッドライトをそっと消す。

自分を包み込む穂高の山々と雲海、そして世界に温かみをもたらす朝日を見ていると、自分の中でピンと張った糸が切れる音がした。

「今回はここまででいい。もう満足した」

そう自分に言い聞かせて、ザイテングラートの半分くらいのところで元来た道を引き返した。

多分恐怖を恐怖と認めることが怖かったのだと思う。

でもまあ、客観的に考えれば慣れないルート探しに時間をかけすぎていたし、昼には上高地に戻っていたかったから、この判断は間違っていなかった。


日本の山をやっている人たちがこんな環境で経験を重ねているのだと思うと、尚更自分にJMTに向かう資格があるのか分からなくなった。

でも一方で、自分と他者を比較しても無意味なことを理解している自分もいる。

岩場の経験は人よりも少ないかもしれないけれど、自分は自分なりの方法で目の前の道を歩き続けてきた。

他の人がどうJMTを歩いているかなんて全く関係ないのだし、踏破するか否かも含めて、自分なりにシエラネバダの山々を楽しめばいい。

そう思い始めると、少しは気持ちが楽になった。


昨日の夜、元々取っていたMono Passからのパーミットの代わりに、直前にリリースされたJMTの正式な開始地点であるHappy Islesからのパーミットを取得できた。

出発まであと3日というのに、まだバックパックを軽量化に振り切ったPA'LANTEのDesert Packにするか、慣れ親しんだMammutのものにするかすら決まっていない。

それでも1週間後には400キロの歩き旅を僕は始めているらしい。


Hike your own hike.

この言葉が身に沁みる。

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