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April showers bring May flowers.

スイスから戻ってきて、もうすでに約2ヶ月が経過した。

スイスで生活していた時の記憶は、もはや自分のものではないように思えてくる。


東京に戻ってきてから、いろんな面で自分はもう戻れないところに来てしまったんだなと感じる。

2年前に東京を出た時の自分と今の自分は明らかに違っていて、自分の中で大切にしている文脈は、他者の中では全く関係のない違うものとして存在している。

他者軸で生きるのはもうやめたつもりだったけれど、それでも今自分が考えていることや選ぼうとしていることは、多くの人にとって全く理解されないんだろうなとわかってしまったから、少しそれに驚いてしまった。

だからあえて発信から距離をとっていたし、そもそもそのモチベーションすら湧かなかった。


自分の変化だけに目が向いていたのだろう。

自分が変わったように他者も同じく変わっていて、自分と他者の相互作用として生じるものはもう以前と同じものではない。

自分の傲慢さが目についた。


僕は何者かになることを辞めた。

少なくともそう思ったつもりだった。

以前の自分は何かに酔いたかったのだと思う。

ちっぽけな自分を少しでも大きく見せたくて、自分より大きなものにすがっていた。

他者を気にしないふりをしていながら、結局他者からの評価が欲しかった。

そんなことに気づいたからこそ、自分軸で人生を進めていこうと思った。

でもまた、元の環境に戻ってきてから、少し不安になっている自分もいる。


どうしても「スイス・日本」のように二分法で比較してしまう自分がいるけれど、僕は今物事をグラデーションで捉えなくてはならないと思う。

所属を求めることに奔ってしまえば、自分の無帰属に目が向いてしまう。

自分はスイスに所属するわけでもない一方で、もう「東京」というゲームのルールに従って生きていくことも多分できない。

というか生きていくこともできるかもしれないけれど、自分の知る幸せのスケールの中で、それが圧倒的に幸せにつながることはあまり想像できない。


わかりやすい所属や帰属のみが自分を価値づけるわけではない。

認知しやすい価値のために、無理やり自分をどこかに結びつける必要もない。

だからこそ、自分のいる位置が客観的に名のつく場所でなかったとしても、そこに自分で名を与え、そこを愛でればいいのだと思う。

ただ、それにはある種の強さが必要だ。

それを今自分の中に養う必要がある。



日本に戻ってきてから、少しずつ生活の中でインプットに充てる時間を増やせてこれた。

以前から続けている本や映画、美術館の展覧会に加えて、今はいろんな人と会うこと、その人たちの話を聞きにいくことに積極的に取り組んでみている。

大体が山や写真、その他クリエイティブな活動をしている人になるけれど、3月末からもう10回以上そう言った場所に足を運べた。

フットワークを軽くいろんな場所に顔を出せるのは、社会人ではなく大学生だからできることだと思う。

一回働いたからこそ、時間の有り余っている大学生のありがたみが身に沁みる。


知的好奇心が満たされているから、今の自分はどちらかといえば幸せだと思う。

それでも、人生の中で重要な選択をする時期にいるから、正直とてつもなく不安だし、何を信じればいいのかわからない。

というか自分を洗いざらい見つめ直すことに、初めて不安や恐れを覚えてしまっている自分もいる。

何を選んでも将来には無限の可能性が広がっていることはわかっているけれど、何かを選択することは、何かを捨てることなのだと、その側面に囚われてしまっている。


April showers bring May flowers.


でもそんな状況にいても、僕は5月の花を信じたい。


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