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人文学関連で必読の「コスパ」名著——ロレイン・ダストン&ピーター・ギャリソン『客観性』

修士論文の提出と審査を無事終え(無事通ったっぽい),少し余裕がある時期だったので,読みたいと思っていたものに手を出した.そこで出会った文献で本当にワクワクさせられたので,それを伝えたいと思い,久々にnoteを使うことにした.こういう研究は本当に憧れるなあ.

紹介するのは,ロレイン・ダストンとピーター・ギャリソンによる『客観性』(2007=2021,瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳,名古屋大学出版会)である.

はじめに

今回紹介したいと思った一番の動機でもあるが,この本は,美学を専門とする人にとっても社会学を専門とする人にとっても,というか人文学を学ぶ人全般にとって知的刺激に富む.以下の概説でそのことが少しでも伝わればと思う.

また,注に挙げられている参考文献も非常に幅広いので,この本を基礎にして人文諸学の文献に手を広げるきっかけになると思うし,それぞれの結びつきを把握する手助けにもなると思う.そうした意味での「コスパ」の良さだと理解していただきたい.

けっこうボリューミーなので邦訳書を読むのでも根気が要るし,それなりに値段もするので,「すぐには読めないよ」という方は,訳者の一人である岡澤康浩氏による書評をお読みになるとよいと思う.これを読むだけでも十分にそそられる.

以下では,『客観性』からの参照・引用はページ数のみ「(35)」のように表す.

概要

正直,訳者による書評や「あとがき」が非常に充実しているため,ここでわざわざ一読者が内容を要約するよりも,そちらを読んでいただいた方が理解しやすいと思う.

ただ,この本で取り組まれていることをごく簡単にかいつまんでおくと,科学者による対象のとらえ方が,歴史的にどのように形成され,変化していったか——著者らの言葉でいえば「ワーキング・オブジェクトの選定」——という問題が,図像の制作を主要な素材として描かれている.

第1章「眼の認識論」が,導入される主要な諸概念(認識的徳,集合的経験主義,科学的自己)の説明と各章の概説となっていて,大まかな内容をつかもうと思えばこの章を読むだけでもよい.ポイントとなるのは,科学者の理想・規範としての認識的徳から産出される技術である.対象の奥深くにあるという真理(対象そのものではない!)を見出し,それを図像に表す「本性への忠誠」(2章),対象そのものを(周囲の雑多なものを含めて)忠実に描こうとする「機械的客観性」(3章),さらには対象を描くことそれ自体を避けようとする「構造的客観性」(5章),そして,科学者の仕事は現象を解釈することであるとし,解釈された図像を制作しようとする「訓練された判断」(6章)へと至り,近年のコンピュータ・シミュレーションによる「存在するようになりつつあるもの」のプレゼンテーション(≠リプレゼンテーション)として機能する図像制作について最後に触れられる(7章).

これらの技術について,松村一志は次のように例を示している.(注:同氏による近刊『エビデンスの社会学——証言の消滅と真理の現在』(2021,青土社)も非常に知的好奇心を駆り立てられるのでぜひおすすめしたい.)

人間の身体を描くには,どうすれば良いだろうか?一人一人の身体は完全なものではなく,どこかしら歪みを持っている.そこで,普遍的な人体なるものを描くには,目の前の不完全な人体をもとにしながらも,理想化された完全な身体を想像して描く必要がある.この態度が「本性への忠誠」である.これに対し,目の前の身体を,その不完全さまで含め,細部にわたってそのまま描写しようとするのが,「機械的客観性」だ.私たちが「客観性」としてイメージするのは,これに当たる.ただし,単に人体を写し取るだけでは,その状態を十分に知ることができない.レントゲン写真や心電図に象徴されるように,一見すると何も見えない画像の中に,異常(=疾患)を発見する必要がある.そのためには,訓練に裏打ちされたケースバイケースの判断が求められる.このように,「機械的客観性」では抜け落ちる部分を補うのが「訓練された判断」である.(松村 2021: 283)

各論にあたる2~6章は基本的に歴史記述(4章はやや哲学的議論が多め)なので,それぞれ「○○○○年,~」から始まる象徴的なエピソードになっている.具体的なエピソードから入っていくスタイルは読みやすいと感じた.

「雪崩」とのアナロジーで語られる歴史認識

個人的に面白いと思ったのは,彼らが歴史記述に対してとったスタンスである.これまでの科学史が「連続史観か,断絶史観か」という対立で考えられてきたのにたいし,彼らは科学者の認識論の変化を雪崩とのアナロジーでとらえる.

まずいくつかの岩が転がりはじめ,枝が落ち,それほどではない雪の小さなずれが起こる.しかし条件が熟したとき,個々の出来事は小さくても,大きな崩れを引き起こすのである.(40)

劇的な転換点をおさえるというよりも,その大規模で劇的な変化を引き起こしうる不安定性の条件を特定し,偶発的な出来事の組み合わせが新たなパターンを形成する,その結果をとらえようというのである.

このような歴史のとらえ方は,「客観性」をキーワードとした科学者が追求した諸技術の変化にもみることができる.「本性への忠誠」へのアンチとして現れた「機械的客観性」,さらにそのアンチとしての「訓練された判断」は,一見すると「本性への忠誠」への回帰のようだが,そうではない.新たに導入されたパターンは,その前までのパターンが抱えていた問題を前提としてつくられているからだ.

それだけでなく,これらのパターンは,新たなものの出現によって完全に取って代わられ消滅するわけではなく,複数性をもった知識の一側面として存続するという(305).さらに,こうしたパターンの変遷は,クーンの「パラダイム」やフーコーの「エピステーメー」とは異なり,「新たに導入されたものが既存のものを組み直し,変形させ,逆に自らも変わっていくダイナミックな場の歴史」(14,16)として考えられている.

このような歴史観が興味深いと思ったのは,知識や歴史の複合的な共存・相互作用の関係というテーマを提起していると感じたからだ.

自分はいま,2000年代初頭から日本のインターネット上で出現し広がっていったとみられる「オナ禁」という現象を研究対象としているが,この「オナ禁」の出現を「近現代日本のオナニーの歴史」に位置づけようと考えるとき,連続的なものとしても断絶したものとしても捉えにくいと感じていた.

近現代日本のセクシュアリティ言説研究の古典『セクシュアリティの歴史社会学』(赤川学,1999,勁草書房)では,オナニーに対する認識は医学や大衆の言説において「強い有害論」から「弱い有害論」へ,そして「必要論」へと変遷していった.もちろん,オナニーの位置づけはそれ以外の性的ふるまいとの序列関係によって変動しうるものであったので,1970・80年代以降の「必要論」も決してそれまでの「有害」言説を完全に駆逐したわけではないだろうが,大きな流れとしてそのように描けるのであった.

さて,2000年代初頭にインターネットで生じた「オナ禁」には,過去の通俗的な性道徳が連続的に維持されてきたと考えられる側面がある.それはたとえば,貝原益軒の『養生訓』(*1)や,サミュエル・ティソの『オナニスム』など,かつての「有害論」において言及されていたものが再び現れていることから確認できる.

しかし,この現象を少し踏み込んで見ていくと,その中の言説には、「有害論」の単なる連続性からは導けない要素が含まれていることがわかる.すなわち,「オナ禁をすると〇〇な効果がある」というものである.これは,「有害だからしない」というよりも「禁欲そのものが有益である」という発想であり,それ自体があまりに唐突な印象を受ける.必要とさえ言われてきたオナニーの消極的な禁止行為であるだけでなく,積極的な意味を与えた禁止だからだ.その意味で,この現象はオナニー史における断絶なのである.

このように,連続的とも断絶的ともとらえうる,つまり,どちらの歴史観によっても満足に説明することが困難である「オナ禁」現象をどのように「近現代日本のオナニー史」に位置づければよいかという問題にたいして,ダストンとギャリソンが雪崩の比喩で示した歴史観は魅力的なアイデアであるかもしれない.

美学と社会学の双方にとって有益なポイント

この本は人文学を学ぶ人全般にとって「コスパ」がよいということは冒頭で述べた.ここでは,特に自分が美学から社会学へ進んだという経験も作用しているであろう,「読んでいて面白いと感じた部分」を残しておく.ひとつは,視覚をめぐる芸術と科学の関係という美学的なテーマ,もうひとつは,実践による自己の形成というフーコーの方法に関する社会学的なテーマである.

芸術的自己と科学的自己——美学の問題

「対象をどのように見て,どのように描くか」という問題は,科学の独壇場ではなかった.本性への忠誠が主流であった時期における芸術家と科学者の密接な関係のように,「見る」という行為,それに関わる認識論や自己像と具体的な実践によって,芸術と科学の関係は変化していった.

機械的客観性が科学者の実践上の主流となった時点で,これらの関係は主観-客観,自己の受動性-能動性といった弁別によってはっきりと分裂していく.ここにおいて,科学的自己と対極的なステレオタイプ化された自己として,芸術的自己が想定されることになる.

〔芸術的自己は(引用者注)〕科学的自己が客観的だったように,攻撃的なほど主観的であった.芸術家にとって奴隷のように「自然をコピーする」のは,想像力を切り捨てるだけでなく,〔中略〕個性をも切り捨てることだった.主観的な芸術とは,意志を行使して外部化することを促し,さらには要求するものである.そこでは,芸術家の構想にあわせて素材と形の両方が能動的に形づくられていく.(199)

面白いのは,機械的客観性の出現によっていったんは分裂したような関係となった芸術と科学が,プレゼンテーションとしての図像制作の段階に至って再び接近しあうという事態を指摘しているところだ.

ダストンとギャリソンの歴史観を紹介した際にすでに触れたが,科学者の追求する(時代ごとに主流が変化していった)諸技術のパターンは,新たなものの導入によって完全に消失するわけではなく,むしろ相互に変形しあうというダイナミックな場が想定されていた。その意味で,芸術と科学の距離も,完全に一致するわけでもなければ,乗り越えがたい断絶を持っているわけでもないのである.

芸術と科学が単一の営みだというのは自明でないし(今日では真と美が必然的にひとつになると考える者はほとんどいない),お互いに断固とした対立関係にあるのでもない.その代わりに,両者は数少ない境界領域において不安定なまま,しかし生産的な形でお互いを強化しているのである.(333)

イメージから徳を読む——フーコー的方法

19世紀半ばに見られた芸術的自己と科学的自己のありかたを記述する際に,ダストンとギャリソンは明確にフーコーの「自己のテクノロジー」を意識している.すなわち,「一定の種類の自己を形づくり維持する心と身体(しばしばこの二つが連結したもの)の実践」(163)に着目するという方法を参照している.

彼らが科学的自己の析出において素材としたのは,日記や自伝のような「エゴ・ドキュメント」のほか,「科学者の特徴と行動を記述して指示することを意図した伝記やアドバイス・マニュアル」であった.そして,これらの素材から「科学的観察における感覚の訓練,ラボでのノート取り,標本を描くこと,自分自身の信念と仮説を習慣的に監視すること,意志を鎮めること,注意を導くこと」といった実践に着目したのである(163).

もちろん,「見る」「描く」といった具体的な行為から,自己の形成に関わる実践を見出すという方法そのものは,決して彼らの専売特許ではない.ここで面白いのは,具体的な行為の産物として,文書だけでなく図像をも素材としているところである.

訳者の一人である有賀と中尾によるエッセイ・レビューでは,図像に着目したこのような実践の分析を「イメージから徳を読むという手法」(有賀・中尾 2010: 134)とまとめられており,この展開可能性について示唆されている.

イメージに潜在している態度を読み取るという姿勢は,何も科学的自己の分析に限った話ではなく,日々膨大な画像に囲まれている一般的な人々の生活を理解するうえでも重要だ,という有賀と中尾の指摘はその通りで,こうした問題は視覚文化論(*2)などが問題としているテーマと密接に関わりあうもので,とても興味深いと思う.

海外での反響

以上のように,本書は科学史の研究でありながら,広く人文学に関わる様々なテーマを含み,今後の展開可能性を多く秘めている非常に魅力的な文献である.当然,原著が出版された当初(2007年)からやはり反響が大きかったようで,多数の書評と,著者による応答がある.最後に,以下ではそれらのリストを一部挙げておく(書評は2009年以降も多数見られるので,関心のある方はそちらも調べてみると良いかもしれない).

Hentschel, K., 2008, “Objectivity - by Lorraine Daston and Peter Galison.” Centaurus. 50(4): 329-30.

Robinson, D. N., 2008, “Objectivity by Lorraine Daston and Peter Galison.” The Review of Metaphysics. 62(2): 393-5.

Strong, T., 2008, “A Review of Lorraine Daston and Peter Galison’s Objectivity.” The Weekly Qualitative Report. 1: 62-66.

Victorian Studies上での書評

Porter, T. M., 2008, “The Objective Self.” Victorian Studies. 50(4): 641-7.

Tucker, J., 2008, “Objectivity, Collective Sight, and Scientific Personae.” Victorian Studies. 50(4): 648-57.

Anderson, A., 2008, “Epistemological Liberalism.” Victorian Studies. 50(4): 658-665.

それに対するダストンとギャリソンによる応答

Daston, L. & Galison, P., 2008, “Objectivity and Its Critics.” Victorian Studies. 50(4): 666-77.

(*1) 1961年の石川謙による訳・解説書のほか,次に挙げるように近年でも多数の訳書が刊行されている.伊藤友信(1982)松宮光伸(2000)森下雅之(2002)工藤美代子(2006)斉藤孝(2012)蓮村誠(2014)城島明彦(2015)下総俊春(2019)松田道雄(2020)など.

(*2) たとえば,SNS上の大量の画像データを定性的に分析する手法として「カルチュラル・アナリティクス」を提唱・開発しているレフ・マノヴィッチなど.近年の研究として,Manovich, L., 2020, Cultural Analytics, the MIT Press.邦訳には,『インスタグラムと現代視覚文化論——レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』(久保田晃弘・きりとりめでる編訳,2018,ビー・エヌ・エヌ新社)がある.なお,彼の『ニューメディアの言語——デジタル時代のアート,デザイン,映画』(堀潤之訳,2013,みすず書房)は、デジタル・メディアを含めたメディア論の古典といわれる.

参考文献

有賀暢迪・中尾央,2010,「<書評> 認識論的徳としての客観性——イメージから見える科学の姿 (エッセイ・レビュー: L. Daston & P. Galison Objectivity)」『科学哲学科学史研究』4: 127-36.

松村一志,2021,『エビデンスの社会学——証言の消滅と真理の現在』青土社.

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