世界は感覚でできている 愛情はさわれる(5)

私たちが見ている世界は五感をはじめとする感覚情報でできています。
でもたいていの人は物心ついてから、目を開けばいつでも同じ世界が見えることに慣れていて、
「目という透明な窓の向うにいつも皆に共通の世界がひろがっている」
と思い込んでいます。
それは、かつて誰もが太陽が地球のまわりを回っているのだ、と思い込んでいたことと似ています。
でも実は人も犬も猫も、フクロウもイルカも、カタツムリやチョウも、自分に備わった独自の感覚の情報で自分のまわりの世界を作って個々にそれを見ています。
生物の種によって見えている世界は違うし、人もそれぞれ個別に違う世界を見ています。
皆が自分の脳が感覚情報を元に編集して作った世界を見ています。それはそれぞれ自分の脳が見ている世界であって、そのままの世界が自分の外側に存在しているわけではありません。

世界は感覚情報で作られている、ということを実感するために、次のようなイメージ実験をしてみましょう。

まず、目をつぶって、さらに音が聞えず、匂いも嗅げない状態を想像してみて下さい。
この時点で、自分のまわりの世界はほとんど認識できなくなり、身体がふれている部分と自分の身体内部の感覚しか感じられなくなるはずです。

次に触覚が感じられなくなると想像し、さらに内臓感覚や筋肉の緊張状態などを感じる深部感覚までも感じられなくなると想像してみましょう。
触覚を感じなくなると、たぶん自分の身体の範囲がどこまでなのかがわからなくなります。さらに内臓感覚や平衡感覚や重力に引っ張られている感覚も感じられなくなれば、まわりの世界が消え、自分の身体も消えて、上下左右もなくなり、意識だけが残った状態になるはずです。

まわりの世界もなく、自分の身体もなく、そのために時間も空間もかんじられなくなり、意識以外には何もない状態。これが感覚情報が全く入ってこない白紙の状態です。
白紙状態から感覚情報をどのような配分で使って世界を作り上げるかは、その人の生活環境、属する文化、仕事の種類などによってさまざまです。

自分の見ている世界は自分自身によって「編集された世界」であること。したがって自分が変われば自分のまわりの世界の見え方も変わるということ。
世界の見え方は、人の外見のように、人それぞれにどこかが違っていて全くおなじものはないこと
多くの晴眼者が個々に見ている世界は似通っているために皆に共通の世界があるかのように思えるけれど、皆が見ている共通の世界なんて本当はどこにも存在しないこと

私は目が見えなくなって、自分の見えている世界がすっかりかわってからそのことに気づきました。
これに気づいた時のインパクトは、私にとっては天動説から地動説になったくらい大きいものでしたが、それは見えなくなってからの私の世界の変化を説明してくれるものでした。

見えていた時、視力を失うということは暗闇の中のような何も見えない状態のまま、視覚を失った大きな欠落を抱えて生きることだと思っていました。
でも実際には、砂浜で手で砂を 掘った穴に海水が流れ込んでくるように、それまで感じていなかった感覚情報が視覚の欠落を埋めるように私の世界に流れ込んで来ました。
視覚は失ったけれど、そこに「欠落」はなく、愛情の質感を光や音のように感じられるそれまでとは違う新しい世界が見えるようになりました。

誰もが自分の脳が感覚情報を編集して作った世界を見ているので晴眼者が見ている世界も視覚障害者である私が見ている世界も、編集のパターンが異なる世界の見え方のバリエーションに過ぎないこと。

このことがもう少し知られるようになれば、目が見えないということが「暗闇に生きる」ことでも「こわい」ことでもなく、多くの見えている人が視覚を使うことによって「見えなくなってしまっている」ものを見ることなのだと理解してもらえるかも知れません。

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