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文法上許容スベキ事項 本文テキスト


概要

 江戸幕府が倒れ、明治の世が訪れてなお、日本語は平安文学や漢文訓読に基礎をおく文語体で書かれていました。
 しかし、平安時代が終わって既に数百年、いわゆる「古典文法」では説明できない言い回しも少なからず用いられるようになっていたのが実態です。
 これらを一方的に「誤り」として退けることは、平安以降の多数の価値ある文章の読解、また、明治時代、現に用いられていた文体の運用に支障をきたすことにもなりかねません。
 そこで文部省は、この種の言い回しのうち、許容すべきものを抜粋し、明治の末に国民に示しました。これが「文法上許容スベキ事項」です。
 本ページでは、これをテキスト化したものをアップしました。

 ★底本


旧字版


文部省告示第百五十八號
敎科書ノ檢定又ハ編纂ニ關シ文法上許容スヘキ事項ヲ定ムルコト左ノ如シ
明治三十八年十二月二日 文部大臣 久保田讓

文法上許容スベキ事項


一 「居リ」「恨ム」「死ヌ」ヲ四段活用ノ動詞トシテ用ヰルモ妨ナシ


二 「シク・シ・シキ」活用ノ終止言ヲ「アシシ」「イサマシシ」ナド用ヰル習慣アルモノハ之ニ從フモ妨ナシ


三 過去ノ助動詞ノ「キ」ノ連體言ノ「シ」ヲ終止言ニ用ヰルモ妨ナシ
 例
  火災ハ二時間ノ長キニ亙リテ鎭火セザリシ
  金融ノ靜謐ナリシ割合ニハ金利ノ引弛ヲ見ザリシ


四 「コトナリ」(異)ヲ「コトナレリ」「コトナリテ」「コトナリタリ」ト用ヰルモ妨ナシ


五 「ヽヽセサス」トイフベキ場合ニ「セ」ヲ略スル習慣アルモノハ之ニ從フモ妨ナシ
 例
  手習サス
  周旋サス
  賣買サス


六 「ヽヽセラル」トイフベキ場合ニ「ヽヽサル」ト用ヰル習慣アルモノハ之ニ從フモ妨ナシ
 例
  罪サル
  評サル
  解釋サル


七 「得シム」トイフベキ場合ニ「得セシム」ト用ヰルモ妨ナシ
 例
  最優等者ニノミ褒賞ヲ得セシム
  上下貴賤ノ別ナク各其地位ニ安ンズルコトヲ得セシムベシ


八 佐行四段活用ノ動詞ヲ助動詞ノ「シ・シカ」ニ連ネテ「暮シシ時」「過シシカバ」ナドイフベキ場合ヲ「暮セシ時」「過セシカバ」ナドスルモ妨ナシ
 例
  唯一遍ノ通告ヲ爲セシニ止マレリ
  攻撃開始ヨリ陷落マデ僅ニ五箇月ヲ費セシノミ


九 てにをはノ「ノ」ハ動詞、助動詞ノ連體言ヲ受ケテ名詞ニ連續スルモ妨ナシ
 例
  花ヲ見ルノ記
  學齡兒童ヲ就學セシムルノ義務ヲ負フ
  市町村會ノ議決ニ依ルノ限リニアラズ


十 疑ノてにをはノ「ヤ」ハ動詞、形容詞、助動詞ノ連體言ニ連續スルモ妨ナシ
 例
  有ルヤ
  面白キヤ
  父ニ似タルヤ母ニ似タルヤ


十一 てにをはノ「トモ」ノ動詞、使役ノ助動詞、及、受身ノ助動詞ノ連體言ニ連續スル習慣アルモノハ之ニ從フモ妨ナシ
 例
  數百年ヲ經ルトモ
  如何ニ批評セラルルトモ
  強ヒテ之ヲ遵奉セシムルトモ


十二 てにをはノ「ト」ノ動詞、使役ノ助動詞、及、受身ノ助動詞、及、時ノ助動詞ノ連體言ニ連續スル習慣アルモノハ之ニ從フモ妨ナシ
 例
  月出ヅルト見エテ
  嘲弄セラルヽト思ヒテ
  終日業務ヲ取扱ハシムルトイフ
  萬人皆其德ヲ稱ヘケルトゾ


十三 語句ヲ列擧スル場合ニ用ヰルてにをはノ「ト」ハ誤解ヲ生ゼザルトキニ限リ最終ノ語句ノ下ニ之ヲ省クモ妨ナシ
 例
  月ト花
  宗敎ト道德ノ關係
  京都ト神戸ト長崎ヘ行ク

最終ノ「ト」ヲ省クトキハ誤解ヲ生ズベキ例
  史記ト漢書(ト)ノ列傳ヲ讀ムベシ
  史記ト漢書ノ列傳(ト)ヲ讀ムベシ


十四 上ニ疑ノ語アルトキニ下ニ疑ノてにをはノ「ヤ」ヲ置クモ妨ナシ
 例
  誰ニヤ問ハン
  幾何ナルヤ
  如何ナル故ニヤ
  如何ニスベキヤ


十五 てにをはノ「モ」ハ誤解ヲ生ゼザル限リニ於テ「トモ」或ハ「ドモ」ノ如ク用ヰルモ妨ナシ
 例
  何等ノ事由アルモ(アリトモ)議場ニ入ルコトヲ許サズ
  期限ハ今日ニ迫リタルモ(タレドモ)準備ハ未ダ成ラズ
  經過ハ頗ル良好ナリシモ(シカドモ)昨日ヨリ聊カ疲勞ノ状アリ

誤解ヲ生ズベキ例
  請願書ハ會議ニ付スルモ(ストモ スレドモ)之ヲ朗讀セズ
  給金ハ低キモ(クトモ ケレドモ)應募者ハ多カルベシ


十六 「トイフ」トイフ語ノ代リニ「ナル」ヲ用ヰル習慣アル場合ハ之ニ從フモ妨ナシ
 例
  イハユル哺乳獸ナルモノ
  顏回ナルモノアリ


理由書

國語文法トシテ今日ノ敎育社會ニ承認セラルルモノハ德川時代國學者ノ研究ニ基キ專ラ中古語ノ法則ニ準據シタルモノナリ然レドモ之ニノミ依リテ今日ノ普通文ヲ律センハ言語變遷ノ理法ヲ輕視スルノ嫌アルノミナラズコレマデ破格又ハ誤謬トシテ斥ケラレタルモノト雖モ中古語中ニ其用例ヲ認メ得ベキモノ尠シトセズ故ニ文部省ニ於テハ從來破格又ハ誤謬ト稱セラレタルモノノ中慣用最モ弘キモノ數件ヲ擧ゲ之ヲ許容シテ在來ノ文法ト並行セシメンコトヲ期シ其許容如何ヲ國語調査委員會及高等敎育會議ニ諮問セシニ何レモ審議ノ末許容ヲ可トスルニ決セリ依テ自今文部省ニ於テハ敎科書檢定又ハ編纂ノ場合ニモ之ヲ應用セントス

【ここまで】


注意事項

  • 十三「最終ノ「ト」ヲ省クトキハ誤解ヲ生ズベキ例」において、(ト)とあるのは、底本においては、丸付きの「ト」である。

  • 十五「誤解ヲ生ズベキ例」において、(ストモ スレドモ)の「ストモ」「スレドモ」は、底本においては並列に記載されている。(クトモ ケレドモ)も同じ。

  • 理由書の後半「其許容如何ヲ國語調査委員會及高等敎育會議ニ諮問セシニ何レモ審議ノ末許容ヲ可トスルニ決セリ」は、底本とは別のソースにおいては、
    「其許容如何ヲ國語調査委員會ニ諮問セシニ同會ハ審議ノ末許容ヲ可トスルニ決セリ」となっている。

***

新字・整形版

 原文は旧字・片仮名書き、かつ句読点が少ないため、新字・平仮名書きに改め、適宜、句読点をつけるなどして読みやすく整形したバージョンを掲載します。


文部省告示第百五十八号
教科書の検定又は編纂に関し文法上許容すへき事項を定むること左の如し
明治三十八年十二月二日 文部大臣 久保田譲

文法上許容すべき事項


一 「居り」「恨む」「死ぬ」を、四段活用の動詞として用ゐるも妨なし


二 「しく・し・しき」活用の終止言を、「あしし」「いさましし」など用ゐる習慣あるものは、之に従ふも妨なし


三 過去の助動詞の「き」の連体言の「し」を、終止言に用ゐるも妨なし
 例
  火災は、二時間の長きに亘りて鎮火せざりし
  金融の静謐なりし割合には、金利の引弛を見ざりし


四 「ことなり」(異)を、「ことなれり」「ことなりて」「ことなりたり」と用ゐるも妨なし


五 「ゝゝせさす」といふべき場合に、「せ」を略する習慣あるものは、之に従ふも妨なし
 例
  手習さす
  周旋さす
  売買さす


六 「ゝゝせらる」といふべき場合に、「ゝゝさる」と用ゐる習慣あるものは、之に従ふも妨なし
 例
  罪さる
  評さる
  解釈さる


七 「得しむ」といふべき場合に、「得せしむ」と用ゐるも妨なし
 例
  最優等者にのみ褒賞を得せしむ
  上下貴賤の別なく、各其地位に安んずることを得せしむべし


八 サ行四段活用の動詞を、助動詞の「し・しか」に連ねて「暮しし時」「過ししかば」などいふべき場合を、「暮せし時」「過せしかば」などするも妨なし
 例
  唯一遍の通告を為せしに止まれり
  攻撃開始より陥落まで、僅に五箇月を費せしのみ


九 "てにをは"の「の」は、動詞、助動詞の連体言を受けて名詞に連続するも妨なし
 例
  花を見るの記
  学齢児童を就学せしむるの義務を負ふ
  市町村会の議決に依るの限りにあらず


十 疑の"てにをは"の「や」は、動詞、形容詞、助動詞の連体言に連続するも妨なし
 例
  有るや
  面白きや
  父に似たるや母に似たるや


十一 "てにをは"の「とも」の動詞、使役の助動詞、及、受身の助動詞の連体言に連続する習慣あるものは、之に従ふも妨なし
 例
  数百年を経るとも
  如何に批評せらるるとも
  強ひて之を遵奉せしむるとも


十二 "てにをは"の「と」の動詞、使役の助動詞、及、受身の助動詞、及、時の助動詞の連体言に連続する習慣あるものは、之に従ふも妨なし
 例
  月出づると見えて
  嘲弄せらるゝと思ひて
  終日業務を取扱はしむるといふ
  万人皆其徳を称へけるとぞ


十三 語句を列挙する場合に用ゐる"てにをは"の「と」は、誤解を生ぜざるときに限り、最終の語句の下に之を省くも妨なし
 例
  月と花
  宗教と道徳の関係
  京都と神戸と長崎へ行く

最終の「と」を省くときは誤解を生ずべき例
  史記と漢書(と)の列伝を読むべし
  史記と漢書の列伝(と)を読むべし


十四 上に疑の語あるときに、下に疑の"てにをは"の「や」を置くも妨なし
 例
  誰にや問はん
  幾何なるや
  如何なる故にや
  如何にすべきや


十五 "てにをは"の「も」は、誤解を生ぜざる限りに於て、「とも」或は「ども」の如く用ゐるも妨なし
 例
 何等の事由あるも(ありとも)、議場に入ることを許さず
 期限は今日に迫りたるも(たれども)、準備は未だ成らず
 経過は頗る良好なりしも(しかども)、昨日より聊か疲労の状あり

誤解を生ずべき例
 請願書は会議に付するも(すとも すれども)之を朗読せず
 給金は低きも(くとも けれども)応募者は多かるべし


十六 「といふ」といふ語の代りに、「なる」を用ゐる習慣ある場合は、之に従ふも妨なし
 例
  いはゆる哺乳獣なるもの
  顔回なるものあり


理由書

国語文法として今日の教育社会に承認せらるるものは、徳川時代国学者の研究に基き、専ら中古語の法則に準拠したるものなり。

然れども、之にのみ依りて今日の普通文を律せんは、言語変遷の理法を軽視するの嫌あるのみならず、これまで破格又は誤謬として斥けられたるものと雖も、中古語中に其の用例を認め得べきもの少なしとせず。

故に文部省に於ては、従来、破格又は誤謬と称せられたるものの中、慣用最も弘きもの数件を挙げ、之を許容して在来の文法と並行せしめんことを期し、其の許容如何を国語調査委員会及高等教育会議に諮問せしに、何れも審議の末、許容を可とするに決せり。

依て自今、文部省に於ては、教科書検定又は編纂の場合にも、之を応用せんとす。



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