見出し画像

傷を抱えて社会に溶け込む


理解してほしい、は捨てなければならないのか。
後に傷となる出来事の最中よりもその後の方がずっと辛いのは、
傷に加えて、溢れ出るマイナスを抑え込もうと奮闘する、「隠そう」という日常にあると思っている。

思い出すことによる苦しみと同じくらい、自分を社会に適した形に変形させるその「隠す」という作業がとてもつらい。

傷が出来た日から時が経つほどに、外の声にそうなのかもしれないと共感し始める。
あの時を何も知らない人と共存する時間が増えるほど、あの過去が本当か疑わしい。
自分の傷が疑わしい。
そのくらい自分に自信がない。

そしてその外から来る生きづらさと同じ圧力で、内からも来る。

どこまでが傷のせいなのか、
どこからが私の性格なのか。
傷に甘え怠けているだけなのではないか。
心の中からそんな声が聞こえてくる。

「毎日陽が昇るまで起きているのは、不眠ではなく夜型なだけ」
「一晩のうちにラーメンを2杯、ご飯を1杯食べたのは年頃だから」
「お風呂にもう3日も入れていないのは、怠惰なだけ」
「体を傷つけてしまうのは、構ってほしいから」

内側からも外側からも、自分の感情を疑ってそうするうちに私が無くなっていく。

どこまでが自分の意思で築かれた私か、どこからが壊れた私か。その境が分からなくなる。境なんてはっきりある訳ないの私が1番分かってるよ。

人間は言葉で説明できるのなんかごく一部で、大半の部分が言葉では足りないくらい複雑で。

言葉ですれ違って一生傷を抱えて生きて。
言葉によって人との出会いに感動して。

私たちは言葉で繋がりあっているのに、それと同じくらい言葉は脆く当てにならない。


でも、私だけが私の理解者と言って何になるの。
誰も理解してくれないと心を閉ざして、その先に何があるの。

社会で生きていくために、潰れる訳にいかない。

時々ぼろが出るけど、笑って怠惰だと誤魔化して。
そうしていかないと生きていけない、
人間向いてないって認めるのは悲しすぎるから。

自分を疑い、鞭を打つことでしかこの傷を抱えた人生を前に進めることが出来ない。

今はそれしかやり方が見つけられない。

だから自分の感情に今は自信を持てない。
持ったら全て崩れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?