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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑤


 聞き慣れたエンジン音で目が覚めた。母親の運転するフィットが庭先のカーポートに停まったのが分かった。デイサービスの事務員をしている母親は毎日同じ時間に帰宅する。時計を見るとやはり六時半ジャストだった。寝室のドアは閉まったままで、ちょろりと覗くと初音ちゃんはまだミノムシみたいに丸まって寝ていた。髪を掻きながら玄関に迎え出た。母はまず僕の顔の怪我に驚き、いい男が台無しねと笑い「初音ちゃんは?」と聞いた。
「下で寝てる。朝早かったから疲れてるみたいだ。あの部屋が心地いいんだってさ」
「昔からよくあそこで寝てたもんね。あんな暗い部屋のどこがいいのかしら」
 母は肩を軽く竦め「それ、台所まで運んでおいて。あー重かった」と、スーパーで買い物してきた三つのビニール袋を三和士に置いて廊下を歩いていった。初音ちゃんが来るからか、袋がはち切れそうなほど食料品が詰め込んであった。僕はそれを持ち上げて母の後ろを付いていった。容量のあるものを持つとギシギシ唸る板鳴りが居間までずっと続いた。
 
 母が夕食の支度をしてる間、僕は新聞を広げてご近所さんが畑で採れたとお裾分けで持ってきてくれたとうもろこしの皮むきをしていた。その最中に父も帰宅し「初音ちゃんは?」と同じ質問をされ、同じ答えをした。
 夜になるとだいぶ暑さも和らぐ。縁側の戸を半分だけ閉めた居間には小さい皿に乗った蚊取り線香の煙が漂っていた。付けっぱなしのテレビではクイズ番組が流れていて、父も母は見るでもなくビールと簡単なつまみで晩酌をしていた。僕は居間の奥の方で、折った座布団を枕代わりに寝転び、茹でたとうもろこしを齧りつつ、友達と携帯でやり取りしていた。林田たちのせいで初音ちゃんのことが触れ回り、質問責めと冷やかしの文章が次々と送られてきた。吹き出しそうになるばかばかしい妄想に笑いながら返信した。
 すると廊下から足音がした。居間の戸口に顔を向けると、髪がボサボサに広がった初音ちゃんが立っていて「ーすいませえん。寝てましたあ…。」と、
まだちょっと寝ぼけたような目で頭を下げた。
「いいのよ。遠くから来たんだから。少しは休めた?」
 母はグラスを置いて立ち上がった。「はい」と初音ちゃんは髪を直して
「こんばんは。お邪魔してます」と父にお辞儀した。
 息子しかいない父は女の子の初音ちゃんとの接し方にいつも戸惑っていて
「うん、全然ね、こんなとこでよかったらね、ゆっくりしてってね」と、句読点ごとに途切れ途切れに話すのだ。いつもそれがちょっと面白い。
「はい。ありがとうございます」
 初音ちゃんはお嫁に行くみたいに深々と頭を下げると「今更だけど、叔母ちゃんなんか手伝うことある?」と母に聞いた。
「ううん。大丈夫。ありがとね。今煮物やってるから、もう少しだけご飯待っててくれる?あ、とうもろこし茹でたのあるから食べたら?甘いわよ」
 母はちゃぶ台の籐の籠を指差した。
「はーい。いただきます。あーいい匂い」
 まっ黄色のとうもろこしに目をやった初音ちゃんは、すぐに僕の方に視線を移すと、顔や肘の怪我を見て「どしたの?」と首を突き出した。
「坂道走ってて転んだんだ」
 あははと初音ちゃんは笑い、僕の隣に座ると「ありがと」と声に出さずに口唇を動かした。そして僕の鼻に指先を近付けた。はちみつパンの匂いがした。目が合うと初音ちゃんはその指を舐めた。もう食べてしまったらしい。僕は軽く頷いた。二人だけに分かる仲直りだった。
 夕飯は母の得意料理と初音ちゃんが好きなメニューが並んだ。母は初音ちゃんに向こうでの生活について色々と質問した。どうでもいいような話題でも初音ちゃんはちゃんと答えた。二人のやり取りからして、母は本当に妊娠のことは知らないようだった。単に伯母さんから一週間ばかり世話になると連絡を受けただけらしく、体を心配するような言葉は一切なかった。だから僕も二人の会話に口を挟まずにいた。無口な父はいつものごとく黙っていて、食卓は女二人だけがずっと喋っていた。
 
 夕食のあと、片付けを手伝う初音ちゃんに「女の子がいるといいわねえ」と母は何度も嬉しそうに言った。普段なんにもやらない僕への分かりやすい
当てつけだったが、聞こえているからこそ無視した。そしてお土産にもらったチーズケーキをみんなで食べた。仕事で朝早い父は、九時のニュースが終わると歯を磨き「じゃあ、おやすみ」と早々に居間を出ていった。
 デザートを食べ終えてから、母は初音ちゃんを部屋に案内した。用意されたのは僕の部屋から一番遠い廊下の反対側にある客間だった。行き来するには廊下をぐるりと廻らなければならない距離にある。いとこでも年頃の男女だから離れた部屋にしたのかは分からないが、僕も初音ちゃんが妊娠してると知った時から、どう接したらいいか迷っていたので、離れられることに少し安心していた。年下だった初音ちゃんがいきなり僕を飛び越えて大人になってしまったことに戸惑っていたからだ。
 父は帰宅後に風呂に入っていたので、二番目に初音ちゃん、次いで母が入り、最後に僕だった。風呂に長く浸かるのが苦手なので、髪と体を洗ったあとは五分ぐらい湯船に入ってすぐに出る。聞くところによると、さみしがり屋の人は風呂が長いという。浴槽の中でテレビを見たり動画を見たりするらしいが、なんでわざわざ風呂でやるのか分からない。もし今地震が起きたら裸で逃げなきゃいけないから、不便な時間を減らしたいと思う僕とは風呂というものに対しての依存度が違うのだろう。一日に二度も三度も入るなぞ、他にやることないのかと思うが、ないからこそきっと寂しいんだろう。

 白Tシャツとラフな膝下のラフなイージーパンツに着替え、肩にタオルを掛けて居間に行くと、初音ちゃんと母がオレンジジュースを飲みながらバラエティ番組を観ていた。「出たよ」と声を掛けてから台所に行って、冷蔵庫か取り出したらパックの牛乳をバットに置いてあったグラスに注いだ。立って飲みながら、ここから見える初音ちゃんの後ろ姿を眺めていた。
 背なんか僕より20センチは小さく、あんなに細く見えるお腹の中に子供がいるなど信じられなかった。同意書にサインすべきなのか考えていた。初音ちゃんはまだ高校二年生で、本人に育てる意志がないなら産めなくて当然だが、堕胎するとなれば僕も子供を殺すことに加担するひとりになるのだ。
まだ人間の形をしていないのかもしれないが、宿ったからには命で、確かに生きている生命を抹殺するのは、やはり気は進まず、苦しい決断を下さなければならない。手術そのものも負担は相当だろうが、後々に襲いかかるかもしれない罪悪感に耐えきれるのかと考えていた。
 僕は常に「これをやる」より「これはやらない」で自身の信条を守ってきた。美学というより単なる価値観だが、能動的に動くタイプではないからこそ、絶対に手を出さないと決めてる項目がいくつかある。暴力は振るわないとか、SNSはやらないとか、人前で踊らないとか、要は性に合わないことをしてまで人に好かれたいとは思わず、中心にいたいとも思わない。打たれぬ釘としてやり過ごし、疚しいこともなければ、注目されることもない、平穏さを守り通すのを意識的に遵守してきたが「堕胎手術に協力する」が自分にとっては「やる」「やらない」のどちらに属する行動なのか分からなかった。
 基本は冷たい人間だから過ちは本人が始末するのが当然だと思うのだが、
それがいとこなら話は変わる。これまでも手を貸してきたし、そうするものだと思ってる。だがこれは夏休みの宿題とはわけが違う。初音ちゃんの人生、命に関わる。言われたからやればいいというものではない。
 ならどちらを選択するのが僕らしいのだ?なんとかしなけばならないことだけは確かだし、何よりもう時間もない。どうしたものか…と考えていた。
「あたしもう寝るけど」
 流し台に寄り掛かってぼんやりしていた僕に母が声を掛けた。
 ああ、うんと返事し「もう寝るから」と部屋の方を指差した。
「初音ちゃん、叔母ちゃんももう寝るね。朝ゆっくりしてていいからね」
 母が言うと「はい、おやすみなさい」と初音ちゃんは正座したまま頭を下げて「健太郎君ももう寝るの?」とこちらに振り向いた。うんと頷いた。
 「まだ寝ないけど部屋に戻るよ。本読みたいから」
 初音ちゃんはヒヨコみたいな口唇で、あ、そう…とぱちぱち瞬きした。
「みんな早いんだね。うちはいつも12時過ぎまで起きて、なんかやってるから」
 見上げた壁時計は11時10分前を指していた。我が家ではもう消灯タイムで、お客さんが来ているから、いつもより遅いぐらいだった。
「ここは田舎だからやることなくて早く寝るのよ。だってこんなに静かなんだもの」 
 母は自嘲的に笑い「おやすみ」といなくなった。明るい照明が照らす居間は甘すぎるお菓子みたいな色をしていた。うまく飲み込めないようなまとわりつく感じ。僕は空になったグラスを水道で洗い「明後日までに答えをだすよ」とバットに置いた。
「ネットでよさそうな病院の探しておく。悪いけど僕も知り合いに会うわけにいかないから、少し遠い所になるかもしれないけどいい?行くときは必ず一緒に行くから」
 振り向くと、初音ちゃんは居間と台所の境目に立っていて、グラスを顎に近付けて僕を見ていた。レモンイエローの肩口が膨らんだシャツに、裾の部分がゴムで絞られた膝丈のサッカー生地の白いパンツを履いていた。大きい目で僕をじっと見つめ「ありがと」と微笑み、横に来てグラスを洗った。
そしていつも通りに12時には電気は消え、自分らの部屋に戻った。
 
 水の入ったペットボトルを傍らに置き、僕はベッドで煙草を吸いながら本を読んでいた。空気清浄機のモーター音と蛙の声のBGM 。つまらない本をなんとか今日中にやっつけたかったので、読み終わるまでは寝ないつもりだった。夕方に少し寝たので目が冴えている。何度も姿勢を変えながら本と格闘していた。ようやく残り10ページぐらいまで来たときにふと時計を見ると、1時半になろうとしていた。
 ああもう少しで寝れるな。あくびをしながらページを開くと、かすかに足音が聞こえた。気のせいかと耳を済まして体を起こすと、ト、ト…と確かに階段を降りてくる軋みがし、間もなく二度、ドアがノックされた。
 なんだ?僕はページの間に指を挟んでベッドを降りた。寝室を出て勉強部屋を横切り、格子のついた曇りガラスの引戸をそろりと開けた。すると、暗い廊下に携帯を明かり代わりにした初音ちゃんが立っていた。不機嫌な子供みたいにへの字の口で僕をじっと見ていた。
「どうしたの?」
 驚いて小さく尋ねた。
「ー眠れないの」
 初音ちゃんは自分の首元を撫でながら「入ってもいい?」と聞いた。いいけど…、僕が返事すると、初音ちゃんはぺたぺたと僕の前を歩いて行き、まっすぐ寝室に向かうと、なんにも言わずにベッドに潜り込んだ。
「ちょっと、初音ちゃん」
 声を掛けたが、彼女はタオルケットにくるまり、体を丸めて目を瞑ってしまった。僕もあと少しで寝るつもりで、しかもまだ読み終わってない。なんだよと思ったが、もうしょうがなかった。ここは僕の部屋だが、初音ちゃんにとっても寝る部屋だからだ。まあいいやと、初音ちゃんの隣に寝そべり、
ベッドサイドのスタンドをこっちに持ってきて、明かりを絞って本の続きを開いた。
 最後まで読み終えればまあまあ面白く、文章がもっとくどくなければいいんだけどなあと自分なりの感想を思いながら文庫本を脇に置いて、左横に寝ている初音ちゃんを頬杖を付いて眺めた。
 壁の方を向いているので眠ってるのかは分からなかった。一定の間隔で繰り返す呼吸は静かで緩やかだった。起きてるの?と聞こうかと思って止めた。僕は歯を磨きに一度洗面所に行ったが、戻ってきても初音ちゃんは同じ格好で寝ていた。僕は彼女の横にそろりと体をすりこませ、「おやすみ」と告げてからスタンドを消した。返事はなかった。同じシャンプーを使ったはずなのに、初音ちゃんの髪からは不思議なほどいい匂いがした。セミダブルのベッドなのに狭くなっていた。
 昔は一緒に寝てても空白があったのに、僕の肩幅が広くなったせいか、ちょっと腕を動かすだけで背中に当たりそうになる。触れないように気を付けるが、寝息の掛かる近さにいる。なだらかな坂道のシルエットを眺めつつ、変なのと思いながら、しばらく天井を見上げていた。

 翌日目が覚めたら初音ちゃんはベッドからいなくなっていた。九時過ぎに居間に行くと、朝食のハムエッグを食べながら「おはよう」と笑い掛け、僕の分のハムエッグも手際よく焼いてくれた。サラダを半分ずつ分け、母が作っておいた豆腐とワカメのみそ汁、鮭の西京焼きをおかずに向かい合って食べた。聞きづらくて昨夜のことは聞けなかった。変なことをした記憶はないが、あのあと寝てたよね?と確かめるのもなんかおかしいからだ。
「ネットで病院調べてさ、行けそうな所があれば、今日行ってみる?」
 僕はみそ汁を啜りながら本題に戻した。
「健太郎君、今日予定ないの?」
「今日は平気。明日から夏期講習あるから、できれば今日のうちに目星付けておきたいな。初音ちゃんも早いうちに行くところが決まってた方がいいだろ?」
 初音ちゃんは首を傾げ「うーん…」と唸った。
「でも、健太郎君に迷惑掛かっちゃうなら、あたしひとりでもいいよ。同意書は必要みたいなんだけど、例えば強姦されたとか言えば、病院によっては手術してくれる所もあるんだって。そういうの証明しなきゃいけないわけでもないから、いざとなればそう話せば…」
 笑顔には無理があった。口許がかすかに強張っていた。だがその前に出てきた物騒な文言に思わず箸を止めた。
「強姦?そうなの?」
 つい口調が強くなっていた。初音ちゃんは膝を立てて「違うよ違うから」とものすごい早さで否定し「例えばだよ」と座り直した。顔が赤くなっていて、それが妙に生々しかった。けれども裏を返せば、初音ちゃんにも意志があったから、後ろめたさでこうなるまで言い出せなかったのだろう。被害者
でないだけ安心はしたが、僕は男という自分がとてもずるい生き物に感じた。セックスは二人でする。初音ちゃんの場合もそれなりに合意の上だったのかもしれないが、避妊を怠れば、苦悩するのは女の子なのだ。
 不安な日々を送り、こっそりと病院を探し、なんとかお金を工面して、勇気と罪悪感を抱えて手術台に乗る。そして心と体に傷を残しながら生きて行くのだ。初音ちゃんはまだ十七歳になったばかりなのに、この先の人生、ずっとその罪を背負わなければならない。それはどんなに重いだろうと、想像すると気が遠くなった。
「行くから、心配ないよ」
 俯いたままの指先を見ていた。
「そんなことしかしてあげられないならするよ。本当なら初音ちゃんをこんなに苦しめた奴を一発殴ってやりたいけど、できないから、サインぐらいするよ。それで初音ちゃんが少しでも楽になるなら」
「ーいいの?ほんとに?」
「いいよ」
「でもそれで健太郎君が学校に行けなくなったり、大学に落ちたりしたら…あたし…」
「本人が真実を知ってるんだからいいよ。それに大学は内申より学力重視だから、勉強すりゃ入れるよ。それでも周りがうるさかったら海外でも行くからいい。僕みたいな個人主義の人間は案外海外の方が向いているのかもしれないしね」
 そんな気もないが、少しヤケクソになっていた。この問題について関わってない人間にとやかく言われたくなかった。こうなったからには僕と初音ちゃんだけで解決するしかないのだから、外野の文句など一切受け付けたくなく、受ける気もなかった。苛々してる上での発言だったのだが、初音ちゃんは「ほんとお?」とパッと顔を上げて楽しそうに笑った。
「そしたらどこ行くの?」
「どこかな。アメリカとかイタリアとかがいいな。明るくて陽気な国民性のとこがいい。怒る時は怒って、笑う時は笑って、泣く時は泣き叫ぶみたいな、感情表現豊かなのがいい。自分に正直であることが一番正しいとされるお国柄で、余計なことウダウダ考えずに、嫌なことがあっても踊るか酒飲めば忘れちゃうみたいのが。タイとかでもいいな。心が自由でいられるならどこでもいいよ」
 ついイタリアと言っていた。アドリア海が頭の片隅にあったからだ。出任せでも無意識に出ていた。結構センチメンタルなんだなと自分で思った。こんな時でも星野先輩がちゃんといる。少し恥ずかしくなって、黙ってみそ汁を飲んだ。初音ちゃんはサラダのブロッコリーをぱくりと食べると「もし、そうなったらさ…」と肩を竦め「あたしも一緒に行くから呼んで。ハンバーガーもパスタも大好きだからさ」とにっこりした。
 このあっけらかんさ。ほんとにこの子は全然変わってないなと、なんだかもう気が抜けてわけが分からなくなっていた。


⑥へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/n1724d1b75e13


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