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 いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑥


 片付けをしてからパソコンで産婦人科を検索した。これまで全く意識したことなかったが、僕のいる町には中心部にある総合病院の産婦人科を入れたら、たったの二軒しかないと知って驚いた。どこもこんな感じなのかは分からないが、ちょっと衝撃だった。町から年々人口が減っているのは産婦人科がないせいなのか、産婦人科がないから増えないのか、多分どちらでもあるんだろうけど、少子化と言われて久しいのは環境がそうだからと納得させられた。ここじゃ子供が産めない。けど都会に行けば結婚より楽しいことがある。いとこの思わぬ妊娠で思わぬ真実に遭遇した。とはいえここでは近すぎるので、半径30キロ圏内に広げて見てみると、五軒に増えた。
 デリケートな案件を扱う所なので、患者に安心感を与えるためか、どこもホームページがあった。外観やクリニック内を撮影した写真も掲載されていて、医院長の顔なんかもちゃんと出ている。中絶手術についての細かい説明も記載されていた。
 初音ちゃんの言っていた通りに、基本的には相手のサインが入った同意書と、未成年は保護者の承諾も必要になるが、やむを得ない場合はなくても受けられ、手術までの流れも分かりやすく書いてあった。
 まず診察を受けてから手術日を決める。当日でも可という所もあり、終わったら三時間ほど休んで帰宅できるという。体に負担の掛からない、なんとか法という手術があり、痛みも後遺症もない。費用も一律のパック料金になっていて、大体どこも十三万円前後だった。まるでこれから出掛ける旅行先のホテルでも選ぶようにして見ている自分にはたと気付き、初音ちゃんにとって一番安心できそうな所をきちんと考え直した。
「一応聞いておくけどさ、ホントに手術受けるんだね?産む、っていう選択はないんだね?」
 スクロールしながら、隣に座る初音ちゃんに聞いた。病院に行く前に最終確認しておかなければならないからだ。初音ちゃんは難しい顔で黙ったまま、あかべこみたいに小刻みに頷いてみせた。もうどこでもいい。このことについて考えたくないといった表情だった。それで僕は了解した。
 子供が欲しい人からすれば初音ちゃんは罰当たりなのかもしれないが、産んでも育てられないと自覚があるならこうするのが正しいのだろう。僕の子ではないからそこまで思い入れもなく、当人がそれでいいなら、さっさと済ましてしまおうと、ホームページの中から初音ちゃんが選んだ三軒の病院に、今日行ってみることにした。

 携帯に住所を入れて出掛けた。初音ちゃんが診察を受ける決意をした場合に備えてお金も持参し、僕もなるたけだらしなく見えない服装を選んだ。場所はなんとなく分かるが、もちろん行ったことはない。全部回ると四時間ぐらい掛かりそうだが、構わなかった。翌日に持ち越すよりいい。考えすぎてしまう前に、明るいうちに終わらせたかった。バスと電車を乗り継ぎ、早速移動を始めた。
 1軒目は電車で四つ目の所にあるクリニックだった。駅周辺は割りと栄えていて、やたらと歯医者と学習塾が多かった。人の往来も盛んで、若者から年寄りまで年齢層も様々。携帯のブックマークを頼りに探し歩いた。
 駅から十分弱、緑に囲まれた細い坂道を上った住宅街の中にクリニックはあった。ほとんど迷わずに見つけられた。茶色いレンガ作りの、わりと大きい病院で、隣接する駐車場の広さからも患者の多さが伺えた。外観はとても綺麗で悪くなさそうな印象だった。木曜日と日曜が休診日なので、水曜日の今日は開いていた。
「どう?」病院の周りを歩きながら初音ちゃんに聞いた。
「入ってみなきゃ雰囲気とかは分からないけど、特に悪い感じはしないよね。植木とかもきちんと手入れしてあるし、綺麗だよね」
 そうだね。初音ちゃんはあまり元気なく返事した。
「結構いいかもね。設備とかも整ってそう」
「ちゃんとしてそうな感じる。入りやすそうだし」
「でもちょっと賑やか過ぎるかな。綺麗すぎて、逆に…」
 僕らが話していると、クリニックの玄関から若い女性が出てきた。大きいお腹をしていた。レモンイエローのマタニティドレスで、ゆっくりとエントランスのスロープを降りてきた。僕らは同時にそちらに視線を投げた。
 女性は日傘を差すと、突き出たお腹を擦りながらちょこちょこした歩幅で坂道を下って行った。僕らは無言のまま女性を見送った。遠ざかる背中が小さくなると、初音ちゃんは陽射しの注ぐ道路の真ん中に立ち、クリニックを
見上げた。
 たいして高くない建物なのに、まるでバベルの塔を前にしてるかのように、首を伸ばして中を覗こうとしていた。けど僕にはなにも言えなかった。それぞれの事情がある。初音ちゃんをここで問い詰めたりするのは、なんの責任も取れない僕のすべきことではないからだ。 

 続いて向かった二軒目は学校が近くにあるから嫌だと言い、最後の三軒目は少し遠いが、海が見える通りにあった。僕はそこが一番いいと思った。白い壁の、ちょっと大きい一軒家みたいな造りで、こざっぱりとしてる。ホームページの情報でも女性医師しかいないと書いてあり、潮風が絶えず吹いていて、その匂いが清々しくていいなと思ったからだ。
「いいんじゃない。景色もいいしさ。こじんまりしてて」
 ずっと額の汗を拭っていた。もう暑くて早くしたくなっていた。けれども初音ちゃんは空気が漏れてる風船みたいに萎んでゆき、どんどん無口になっていった。僕からすればよほど汚かったり、評判が悪い所でなければどこでもいいんじゃないかと思うが「どうなの?」と聞いても、うーん…としか答えず、遅いランチで入ったファミレスでも、小さなドリアをちびちびと食べていた。
「ま、初音ちゃんに任せるよ。決めたとこに一緒に行くから、今夜ゆっくり考えなよ」
 申し訳ないが僕はもうお腹ペコペコだった。ハンバーグステーキセットを注文し、ウエートレスが運んでくると、すぐにフォークとナイフを手にして
ジュウジュウと油が跳ねる焦げ目のついたハンバーグに切れ目を入れた。
「健太君って、ホント何にも動じないよね」
 初音ちゃんはドリアのスプーンを持ちながら、半分呆れた顔で僕を見た。
「全然聞かないもんね。なーんにも。昔っからそうだもんね」
 言わんとしてることはなんとなく分かる。全然親身になってくれないね、
の落胆だろう。自覚してるからピンとくる。
「どういう関係の人なの?」
 付け合わせのポテトを食べながら、声を潜めて尋ねた。初音ちゃんは「言いたくない」と口唇を尖らせた。
「あのね、言いたくないって、教えたくないって意味じゃなくて、もう口にもしたくないってことなの。まあ、ひとつ言えるとしたら最低の奴だったってことだけ。でもそんなのに引っ掛かったんだから、あたしもしょうもないのよね。もっと自分を大事にすればよかった。なんの覚悟もできてないのに周りに流されて、つまんないことに振り回されて、ほーんと軽率だった。ほんとにバカみたい」
 初音ちゃんは両方の拳で頬を支えた。鳥のヒナみたいな顔だった。僕はやっぱりそれ以上は聞かなかった。いとこがどんな男と寝たかなど興味ない。
同年代として理解はできる。僕らの感覚で言えば妊娠はただの失敗だ。責めるものでもない。事件性もないのなら追及することもなかった。
「オカメインコみたい」
 膨らんだ頬につい笑っていた。初音ちゃんも、ふふっ…と吹き出し「鳥になりたいな」と呟いた。
「ほんとだね」
 僕の声はすぐに掻き消された。店内は夏休みをもて余してる若者と、ママ友みたいな集団、意外に多いお一人様老人で席は埋まっていた。小さい子供たちが入り口近くのおもちゃ売り場で騒いでおり、時々どこかで弾けたような笑い声が湧き、ずっとやかましかった。
 真昼の明るい雑音を聞き流しながら食事をした。互いを見つめたり、たまに微笑みあったりしながら、結局二人ともデザートまでたいらげた。

 帰りのバスで初音ちゃんはずっと外の景色を眺めていた。色々考えすぎて疲れてるようだった。僕も声を掛けずにいた。舗装の悪い道を走る車体は、時折大きくバウンドした。遠心するようにぐらりと揺れたと思ったら、小刻みな振動が続いたりと、調子の狂ったメトロノームのようだった。
 車酔いしないかな…。様子を伺うと、初音ちゃんは前を向いたまま左手をそっと浮かし、僕の右手の上に重ね、そっとなぞった。
 きめ細かいパウダーみたいにすべすべしていた。何度も、何かを伝えようとするみたいに僕の手首を辿っていた。迷子の少女みたいな、羽を休ませようとしてる蝶々みたいな、口に出せぬ願いを込めた弱々しい撫で方だった。
 ここしかないのなら、ここにいればいい。僕は初音ちゃんの手を取って掴み、ぎゅっと握りしめた。細い指が僕の手の中で丸まっていた。皮膚がぴたりと重なり、掴んでいてもまだ掴みきってない気がした。
 何かが少しずつずれていく。きっと今にもっと変わってゆくだろう。それが歓喜なのか破壊なのか分からないが、どちらにせよ僕は受け入れるだろうと決めていた。バスの振動が僕らの鼓動をひとつにしようとしていた。
 
 家に戻ったあとはめいめいの部屋で過ごした。僕はコーラを脇に置いたままベッドに倒れてそのまま寝ていた。いつもの時間に母が帰宅していたようだが、僕は全然気付かなかった。
 夕飯を知らせる内線でようやく目が覚めた。居間に上がってゆくと、もう風呂を済ませた父もおり、初音ちゃんは母と一緒に餃子の皮を包んでいた。
二人は僕の寝癖がすごいと言って大笑いした。汗を掻いたまま、ほぼダイブした状態で寝てしまったので、髪が逆立ってパンクしていた。
 シソやチーズの入った、四種類の大量の餃子がテーブルに並び、まるでこれから大食い大会でも始まるようだった。醤油にポン酢にラー油などの調味料を初音ちゃんが運んできて「健太郎君どれ?」と聞いた。
「醤油と酢とラー油」
 順番に容器を指差すと小皿に醤油を注ぎ「どのぐらい?」と酢とラー油も足してくれた。
「なにで食べるの?」
 隣に座った初音ちゃんに聞くと「マヨネーズ」と言い、皿にマヨネーズを山盛り出すと、恐るべき食欲を見せた。妊婦だからか、昼にあまり食べなかったからか、止まることなく餃子を食べ続けた。なのであっという間にマヨネーズが減っていった。
「ごめんなさい。明日買ってきます」
 初音ちゃんは母に謝りながら、チューブからぎゅうぎゅう絞り出していた。こっちの方が初音ちゃんらしくて僕はちょっと安心していた

「初音ちゃんよく食べるのね」
 初音ちゃんが風呂に入ってる時、コーヒーを飲みながら母が言った。僕は昨日の残りのとうもろこしを食べながら夕刊を読みつつ、そうだねと、頷いた。
「けどなんでひとりで来たのかしら。昼間なにしてるの?昔の友達とかに会ってるの?」
 さあ、と僕はとぼけた。「今日も出掛けてたから、そうなんじゃない?」
「マヨネーズなくなっちゃったわよ。明日の朝のサラダ、ドレッシングあるやつ使って」
 僕は夕刊をめくって「なんでもいいよ」とスポーツ欄を読みはじめた。応援してるチームもないが、癖でプロ野球の首位争いを確認していた。
「ところであんた、進路どうするの?夏休みももう後半よ。みんな予備校とかにも通ってるんだから、どこにするか、本腰入れて考えなきゃダメよ」
「分かってるよ」とうもろこしをくわえたまま答えた。
「どこでもいいのよ。東京に行きたいならそれでも。将来したいこととかないの?行きたいとこいくつか候補はあるんでしょ?」
 母は怒ってはないが、もどかしそうにしていた。
「うーん、でも大学だけが選択肢じゃないし、もう少し考えるよ」
 母はもうひとつなにか言おうとしていたが「出ましたあ」と初音ちゃんが
ナイスタイミングでやって来たおかげで、言葉を引っ込めた。ターバンみたいに髪にタオルを巻いた初音ちゃんは、ちゃぶ台の横に来ると「健太郎君はいっつもお勉強しててえらいねえ」と新聞を読む僕を覗き込んだ。額が濡れて、頬が薔薇色に染まっていた。
「叔母ちゃん、あたしもとうもろこしもらっていい?」
 20個ぐらい餃子をたいらげたのに、初音ちゃんは籠に残ってるとうもろこしを指差した。
「いいけど…、そんなに食べて大丈夫?」
 母は驚きながら心配したが、だっておいしそうなんだもんと黄色いとうもろこしを掴み「いただきまーす」と齧り「うーん、おいしい!」と体を揺らした。僕は何も言わなかったが、二人分の食欲ってすごいなと思った。
 
 今日は疲れていたのか僕は珍しく風呂で少し寝てしまい、居間に戻ると両親も初音ちゃんもいなくなっていた。牛乳を一杯飲んでから、いつものようにペットボトルに水を汲み、電気を消して部屋に行った。
 明日から学校の夏期講習が始まるので、少し予習をしようと思った。ドロップ缶を開けると、もう煙草が一本しかなかった。吸いながら勉強するので、なくなると集中できなくなる。けど今から買いにも行けない。今夜はこれで我慢することにした。机の前に座ってスタンドの電気を点けて、鞄からテキストを出して開いた。
 少し寝たからか、目が冴えていた。煙草がなくても課題は捗った。僕は勉強する時、なんのためにやってるか考えない。この数式が将来なんの役に立つという、よくある疑問を全て排除している。そんなの将来になれば分かることで、ただの高校生だからこそ、ここで安穏と過ごせると思えば、数式や単語を覚えるなどたやすいことだからだ。
 それに僕は勉強が好きだった。テストでいい点を取りたいとか、いい大学に入りたいとかではなく、勉強こそ究極のひとりぼっちだからだ。こんなにもひとりの世界に浸れるものは他にない。覚えることは山ほどあって、決して終わりがない。人付き合いが苦手な僕にとっては、目の前の課題をこなしてゆく孤独な時間はリラックスタイムでもあった。
 一時間半ほどやってから水を飲み、数学から英語のテキストに代えてぱらぱらと捲っていた時だった。トントンとノックがした。昨日と同じ時間、
気のせいではなかった。ペットボトルを持って立ち上がり、ドアを開くと、
やっぱり初音ちゃんがいた。垂れた目でじっとしたまま僕を見ていた。
 なんにも言わずに勉強部屋を突っ切り、寝室に入ってベッドに潜ると、壁を向いた格好でタオルケットに包まり、身動ぎせず体を丸めた。
 少しだけ出ている小さい頭を見ていた。寝室の前に立ってぬるくなったペットボトルを飲んだ。初音ちゃんは人形みたいに一切動かなかった。彼女の体のスクリーンに僕の影が長く伸びていた。
 蓋を閉めて机に置き、開きかけていたテキストを閉じた。勉強部屋の灯りを点けたまま寝室に入って、引き戸を半分だけ閉じた。自分の足音を聞きながらベッドに近付いて、初音ちゃんの隣に横たわった。
 背中を向けてる体を後ろから抱きしめた。羽毛のように柔らかく、ぎゅっとしたら縮んでしまいそうだった。
 なにも言葉は掛けなかった。なぜなら初音ちゃんは「寝ている」からだ。彼女は僕を観察するために寝ているのだから、声を掛ける必要なぞないのだ。隣の部屋から差し込む琥珀色の明かりが後ろ側の壁に楕円を描いて貼り付いていた。
 髪の匂いを嗅ぎながら腕を擦り、うなじにキスした。不思議だが、健康に生きてる女の子、という味がした。それでも初音ちゃんはじっとしていた。
バスで手のひらを握りあった時から、こうなると予感していた。
 体を密着させたまま僕は後ろから初音ちゃんに入った。掠れた声が漏れた。苦しげに息を止めながらも、初音ちゃんは決して目を開かなかった。
 今していることの名称が思い付かなかった。妊娠してるいとこと寝るのを言い表す言葉などなく、あっても当てはまらない。僕らは互いに必死だった。ないと思っていた水脈を掘り当てたように貪った。
 上の階には両親がいる。部屋は離れてるとしても、こういう声は静かな夜にはよく響くものだが、初音ちゃんは進んで喘ぎを噛み殺してくれていた。
「なにも知らない」でいるために、決して目を開かず、僕の名前も呼ばなかった。か弱い小鳥みたいに身を伏せながら、望んだのか絶望してるのか分からぬ現実から背を向けていた。 
 機械音のような衣擦れと、途切れ途切れの息づかいが寝室にエコーしていた。アホみたいに鳴き続ける蛙の合唱が、これをふざけた遊びに止めてくれていた。ロマンチックさもなく、罪の意識も薄くなる。田舎に住む人間は退屈だから仕方ないのだと、僕は自分に言い聞かせていた。星野先輩への罪悪感を微塵も感じていないことが不思議だった。
 初音ちゃんは顔を歪めながらも、彼女自身が選んだ方法で、互いが許される唯一の手段を、ただ全うしてくれていた。


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