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(短編小説)河童の子


「やれやれ。コーチに頼んでなんとか練習抜けてきたよ。大事な話ってなんだい。母さんまで揃ってさ。明日から遠征だから手短に頼むよ」
 周平は三ヶ月ぶりに実家に戻ってきた。父親からどうしても話したいことがあると呼び出されたのだ。温和な父親は寡黙な人で、滅多に連絡など寄越してこない。その父親から『なるべく早く帰ってきてほしい』と繰り返しメールが届けば、何事かと思う。
 しかし中々戻れなかった。なぜなら周平は競泳に強化選手だからだ。ジュニア時代から世界大会で何度も優勝している期待の十九歳で、来年行われるオリンピックでも金メダル間違いなしの呼び声も高い。普段は同じく全国から集められた強化選手たちと合宿所で暮らし、朝から晩までトレーニングに邁進していた。一日だって無駄にできない。しかし父親だけでなく、母親からも切羽詰まった文章が送られてくる。ただ事ではないと察知し、コーチに頼み込んで半日だけ外出の許可をもらったのだ。
 
 そうしてやっと帰ってきたのに、両親はじっとしたままでどちらも口火を切らない。互いに様子を伺い、意味のない咳払いで間を埋めていた。
 そんなに深刻なのか。もしやどちらかが重病の宣告でも受けたのか…。周平は不安になった。そういえば二人とも顔色が悪い気がする。けれど彼らは息子が大事な時にそんな動揺することを知らせる人達ではないはずだった。
いつだって水泳に専念できるためのモチベーションや環境づくりに率先して協力してくれていた。だがこのままでは埒が明かない。周平はおそるおそる「…どうしたの?」と尋ねた。心なしか父親の肩がぴくりと動いた。
「ー実は、お前に話しておかなければならないことがあるんだよ」
 俯きながら絞り出すような声で言った。床の間を背に、えんじ色の座布団に正座している父親の拳がかすかに震えていた。周平も自然と姿勢を正していた。

「周平、お前は、私達の子供ではないんだ。私達は育ての親で、血の繋がりはないのだよ」

 隣にいる母親がすかさずハンカチで目を覆って身を屈め「うう…っ…」と
声を漏らした。
「今まで黙っていてすまない。お前の本当の親から、二十歳になる一年前まで決して明かさないでくれと言われていたんだ。お前に今後の選択をしてもらうのに、一年の猶予が必要になるんでな」
 周平はぽかんとするしかなかった。驚き余って言葉が見つからない。うなだれる両親はもうつむじしか見えなくなっていた。だがここまで聞いたら全部を知りたかった。
「ーじゃあ、おれの本当の両親て誰?どこにいるの?」
 ショックを押し込めて息を飲んだ。両親はしばらく顔を伏せたままじっと沈黙していたが「…河童だよ」と父親がぼそりと答えた。周平は聞き違いかと「えっ?」と首を前に突き出した。

「河童?」
 
 半分笑いながらだったのに、父親はこくんと頷いた。
「そうだ。私と母さんが昔住んでいた村にある沼のほとりで河童からお前を預かったんだ。再開発で沼が埋め立てられることになって、お前を育てられないからとな。私達は子供に恵まれなくて、子宝にご利益のある神社に毎日参拝していたんだ。その様子をお前の親が見ていたらしくて、帰り道に声を掛けられたんだ。お前は蓮の葉のおくるみに包まれて、よく眠っていたよ。
河童の子は人の手に渡った時点で人間の皮膚に変わるんだが、二十歳までに
その先人間として生きるか河童として生きるか決めなければならないんだ。
お前は先月十九歳になったから、もう伝えておかなければならなくてな」
 
 生真面目な両親はこんな冗談は言わない。にわかには信じられないが、どうあろうと答えに迷わない。もちろん人間のままでいい。自分を河童と自覚したことはないが、当然、河童になりたいとは思わない。
「ーまあそれなら、やっぱりおれは人間のままでいたいかな。そりゃね、そう思うよ」
 周平は問い詰めずに受け止めることにした。ははっ、と笑ってみせたが、
両親に喜びの反応はなく、押し黙ったままだった。それどころか空気がさらに重くなっていた。 
「え?駄目なの?おれ、河童になった方がいいの?まさか、父さん達はそっちを望んでるの?」
 混乱しながらも明るく振る舞った。しかし父親はさらに折り曲げた首を重たげに振った。

「人間を選ぶと泳げなくなるんだ。来年のオリンピックの前にお前は二十歳を迎えてしまう。そうなれば代表を辞退せざるを得ない。だが河童を選択すれば泳ぎはもっと上達する。全競技でメダルを獲れるぐらいにな。見た目は十年掛けて徐々に変化してゆくそうだ。三年目ぐらいで水掻きができて、六年目辺りから皿が出てくる。自然と水辺に呼ばれるようになり、九年目頃から体が緑に染まりだす。そうして十年目に河童と認められたら長老から甲羅をもらい、人間としての記憶がなくなるそうだ。お前には他の習い事もずいぶんさせたが、結局水泳に行き着いて才能を開花させた。私達はもう運命を受け入れることにした。この子はやはり河童の子なんだとな。黙って見守ろうと決めた。だから選択はお前に任せる。どちらを選ぼうと周平の人生だ。私達の愛情は変わらないし、お前が私達の息子であるのも変わりはしない」
 
 ようやく顔を上げた父親と母親は、しおれた段ボールみたいに力なく笑った。だが周平はもう笑えなくなっていた。次の言葉が見つからない。
 そういえば最近タイムが目覚ましく縮んでいる。水がスムーズに掻ける気がしていたが、まさかそういうことなのか…。
 周平は膝にあった右の手をそっと開いてみた。すると、はっきりとは見えないが、午後の日差しの中で、指と指の間にうっすらと膜のようなものが伸びかかっているのが、反射する光に浮かび上がっていた。


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